広い場所を与えてくださる神 2013年2月03日(日曜 夕方の礼拝)

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広い場所を与えてくださる神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 26章15節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

26:15 ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。
26:16 アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」
26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ。
26:18 そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。
26:19 イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、
26:20 ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。
26:21 イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。
26:22 イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。
26:23 イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。
26:24 その夜、主が現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに。」
26:25 イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。創世記 26章15節~25節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 創世記の第26章は族長イサクの生涯を記しております。イサクは40歳でリベカと結婚し、60歳でエサウとヤコブの父となったのでありますが、その間の20年間の歩みが第26章に記されているとの前提に立って、前回私はお話しいたしました。しかし、18節を見ますと、「そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた」とありますので、今夕の御言葉は、アブラハムの死後のお話しであり、イサクが少なくとも75歳以上になります。なぜなら、アブラハムの生涯は175年であり、イサクはアブラハムが100歳の時の子であるからです。そうしますと、ゲラルの王アビメレクも、第20章に出て来たアビメレクとは同一人物ではあり得ず、別人ということになります。アビメレクとは「わたしの父は王」という意味ですが、エジプトのファラオのように、王を意味する呼び名であったのかも知れません。つまり、第20章に出て来たのはアビメレク1世であり、第26章に出て来るのはアビメレク2世ということになります。そうすると、第26章に出て来る「軍隊の長のピコル」も、第21章に出て来る「軍隊の長ピコル」とは別人ということになります。同じ名前ですが、別人ということになるわけです。このように見て行きますと、私はやはり第26章の記事は、イサクがリベカと結婚した40歳からエサウとヤコブの父となる60歳までの出来事であると思うのです。確かに18節に、「アブラハムの死後」とありますけれども、それはアブラハムの死について聖書が既に語っているからでありまして、創世記は厳密な年数にそれほどこだわっていないと思います。といいますのも、創世記は長い時間をかけて様々な伝承を資料として編集された書物であるからです。ですから、私としては今夕の御言葉も、イサクがリベカと結婚してからエサウとヤコブの父となるまでの間に起こった出来事としてお話ししたいと思います。もちろん、そうでない可能性もあるのですが、私としてはそのような前提でお話ししたいと思います。

1.ゲラルからの追放

 15節に、「ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた」と記されております。イサクは主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになったのでありますが、そのイサクをねたんでペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが掘らせた井戸をことごとくふさいで土で埋めたのです。このことは、イサクが父アブラハムが掘らせた井戸を財産として相続していたことを表わしています。父アブラハムが掘らせた井戸は、息子イサクのものであったのです。前にも申しましたように、砂漠が広がるパレスチナにおいて水は大変貴重なものであります。現在は石油や天然ガスといった地下資源をめぐって争いが起こりますが、かつては水をめぐって争いが生じたのです。その水が湧き出る井戸を土でふさいでしまったというのですから、ペリシテ人のねたみは相当なものであります。そのような在り様を見て、ゲラルの王アビメレクはイサクにこう言いました。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい」。イサクの繁栄ぶりは、ゲラルの王アビメレクから見ても、脅威に映ったようであります。それで、イサクに「ここから出て行っていただきたい」と言うのです。イサクはアビメレクの言葉に従って、ゲラルの谷に天幕を張って住みました。そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったのですが、ペリシテ人はそれらを土でふさいでしまっておりました。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けました。イサクはそのように父アブラハムの歩んだのと同じ道を歩んだのであります。

2.井戸をめぐる争い

 掘り直した井戸については争いは起きなかったようでありますが、イサクの僕たちが掘った井戸についてはゲラルの羊飼いとの間に争いが生じました。19節、20節に次のように記されています。「イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、ゲラルの羊飼いは、『この水は我々のものだ』とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである」。ここには水飲み場を争う遊牧民たちの争いが記されています。「水が豊かに湧き出る井戸」とありますが、これは元の言葉を直訳しますと「命の水の井戸」となります。「命の水」とは溜まり水ではない、湧き出る水のことでありますから、新共同訳聖書は「水が豊かに湧き出る井戸」と訳しているわけです。しかし、私は「命の水の井戸」という訳も捨てがたいと思います。なぜなら、彼らにとって水はまさしく命であったからです。イサクの僕たちがもう一つ井戸を掘り当てると、それについても争いが生じました。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けたのであります。イサクは井戸にエセク(争い)、またシトナ(敵意)という名前をつけました。名前を付けることは、その井戸の所有者であることを意味しますが、イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てました。イサクは自分が掘った井戸に固執することなく、井戸を掘り当てていくわけです。そして、それについては、もはや争いが起こらなかった。それでイサクはその井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言ったのです。このイサクの歩みを見ますと、井戸の名前がそのまま地名として用いられていることが分かります。それは井戸がなければ、そこに留まることは不可能であったからです。命の水がわき出る井戸を掘り当てることができて初めて、その場所は繁栄することができる広い場所となるわけです。

3.わたしは、あなたの父アブラハムの神である

 23節に、「イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。」と記されています。ベエル・シェバの名前の由来については第21章に記されておりましたが、そこはかつてアブラハムが一本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を読んだ場所でありました。イサクがそのベエル・シェバに上った夜、主が現れてこう言われたのです。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに」。私たちはこの主の言葉から、イサクが井戸をめぐる争いにおいて恐れを抱いていたことを知らされます。イサクは争いを好まない柔和な、忍耐強い人物であったと思われますが、それだけではなく、彼はアブラハムの神、主に依り頼む者であったのです。ですから、イサクはゲラルの羊飼いとの争いが止んだとき、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言って、その井戸をレホボト(広い場所)と名付けたわけです。イサクの忍耐を支えていたのは主にある希望であったのです。ここで主が言われていることは、かつてアブラハムに告げられたのと同じような言葉であります。しかし、「わたしは、あなたの父アブラハムの神である」と自己紹介しておられること、また最後に、「わが僕アブラハムのゆえに」と記されていることは違います。「わが僕アブラハムのゆえに」。これは、「わが僕アブラハムの功績のゆえに」ということではなく、「わが僕アブラハムとの約束のゆえに」ということであります。つまり、アブラハムとの契約は終わっていないのです。それゆえ、主は御自身を「わたしは、あなたの父アブラハムの神である」と言われるのです。そして、この神こそ、イサクが小さい頃から父アブラハムと共に礼拝してきた主なる神であられるのです。 

結.主の御名を呼ぶイサク

 イサクは、ベエル・シェバに祭壇を築き、主の御名を読んで礼拝しました。かつて父アブラハムが主の御名を呼んだように、イサクも主の御名を呼んだのです。私たちはここに、親から子へと信仰が継承されていくその姿を見ることができます。そして、このことはとても大切なことであります。なぜなら、アブラハムからイサクへと信仰が継承されなかったとしたら、神様の約束は実現しなかったからです。神様の約束を実現してくださるイエス・キリストはこの地上に生まれなかったからであります。ですから、私たちはアブラハムの主に対する信仰が息子イサクへと受け継がれたことを軽く見ることがないようにしたいと思います。アブラハムの神は、イサクの神となり、ヤコブの神となり、やがてイエス・キリストの神となります。さらに、イエス・キリストにあって私たち一人一人の神となってくださるのです。そして、この神はイエス・キリストにあって私たちと共にいてくださるインマヌエルの神であられます。ですから、使徒パウロは私たちに次のように言うのです。フィリピの信徒への手紙第4章4節から7節までをお読みします。新約聖書の366ページです。

 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

広い場所を与えてくださる神様は、イエス・キリストにあって私たちに広い心を与えてくださり、主にある喜びを与えてくださるのです。

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