アブラハムの試練 2012年10月14日(日曜 夕方の礼拝)

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アブラハムの試練

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 22章1節~19節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
22:15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。
22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
22:19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。創世記 22章1節~19節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、創世記の第22章1節から19節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 1節、2節をお読みします。

 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 前回、私たちは、アブラハムがゲラルの王アビメレクと契約を結び、長い間、ペリシテの国に寄留したことを学びました。アブラハムはイサクの成長を見守りながら、平穏な日々を送っておりました。もちろん、アブラハムは主を礼拝することをおろそかにすることはなかったと思います。しかし、そのようなアブラハムを、神は試されるのです。神は御自分に対するアブラハムの信仰を試されるのです。神はアブラハムにこう命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。私たちには、この神の命令は到底受け入れられないように思われます。ここで神が命じられていることは、後の律法が禁じている人身御供、神へのいけにえとして人間を供えることであります。例えば、レビ記の第18章21節に次のように記されています。「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」。しかし、ここで、主は、アブラハムに息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげるように命じるのです。しかも、息子イサクは、神が言われているように、「アブラハムの愛する独り子」であります。神から与えられた約束の子です。その約束の子イサクを、神は焼き尽くす献げ物としてささげよと命じられるのです。これは、神の自己矛盾ではないでしょうか?神は、「イサクと契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」と言われました(17:19)。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」というアブラハムに与えられた約束はイサクによって受け継がれるのです(12:3、21:12参照)。しかし、神はそのイサクを、焼き尽くす献げ物としてささげよと言われるのであります。この神の命令は、神の約束を無にするものではないでしょうか?しかし、アブラハムは、この神の命令に従うのです。

 3節から5節までをお読みします。 

次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムは目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

 第12章に、主からの召しを受けたアブラハムが、主の言葉に従って旅立ったことが記されておりましたが、ここでもアブラハムは、主の言葉に従って旅立ちます。かつて、生まれ故郷である父の家を離れて、主の示す地に旅立ったアブラハムは、今度は、息子イサクをささげるために、主が示す山へ旅立つのです。「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かった」。この記述から、アブラハムが神の命じられたとおり、息子イサクをささげるために、旅立ったことが分かります。「三日目になって、アブラハムは目を凝らすと、遠くにその場所が見えた」とありますが、アブラハムは、神が命じられた所に向かって三日の道のりを歩んだわけです。このことは、アブラハムが堅い意志をもって神の命令に従ったことを教えています。その場所が見えたとき、アブラハムは連れの二人の若者に、こう言いました。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる」。アブラハムが二人の若者に、待っているように命じたのは、息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげるのを止められる恐れがあったからだと思われます。アブラハムは、「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる」と言いましたが、このとき、アブラハムは、本当に息子と共にまた戻ってくることができると考えていたのでしょうか?それとも、若者に対して、取り繕っただけなのでしょうか?それは、分かりませんが、私たちはここに、アブラハムが抱いていた希望を見ることができると思います。

 6節から8節までをお読みします。

 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

息子イサクは薪を背負って歩くことができ、また、焼き尽くす献げ物についも理解しておりますから、このときすでに少年であったと思われます。アブラハムは、息子イサクに薪を背負わせ、自分は火と刃物を手に持ちました。私たちはここに、息子を思いやる父親としてのアブラハムの姿を見ることができます。アブラハムは危険な火と刃物を息子イサクではなく、自分で持つのです。二人は一緒に歩いて行くのですが、イサクは父アブラハムに、こう尋ねます。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」。イサクは、アブラハムが受けた神の命令を知らないわけです。それに対してアブラハムはこう答えました。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。このアブラハムの言葉も、ただ取り繕っただけのように思えますが、しかし、ここにはアブラハムが抱いている希望以上のもの、アブラハムが祈りの中で与えられた答えが言い表されているように思えます。先程、私は、神の命令と神の約束は矛盾するように思えると申しました。そのことを神の約束を信じて従ってきたアブラハムも当然、考えたと思います。神は、なぜ、御自分の約束を無にするようなことを、命じられるのか?そのことを、アブラハムは、三日の道のりの中で、考え、祈ったはずです。そして、その答えは、神の中にあるということであったのではないでしょうか?アブラハムには分からない。しかし、神は知っておられる。それゆえ、アブラハムは、「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と息子イサクに語ることができたのです。

 9節、10節をお読みします。

 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

 アブラハムは、神が命じられた場所に着くと、祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って、祭壇の薪の上に載せました。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物はきっと神が備えてくださる」と言ったアブラハムが、息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげようとするのです。私たちはここに、アブラハムの矛盾した姿を見ることができます。しかし、私は思うのです。アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしたときにも、「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と信じていたと。私たちは、ここで父アブラハムによって、縛られ、祭壇の薪の上に載せられたイサクにも、思いを向けたいと思います。先程も申しましたように、イサクは、若さに溢れる少年です。ですから、その気になれば、父アブラハムの手から逃れることもできたと思います。しかし、イサクは父アブラハムがなすままに自分の身を任せたのです。私たちはここに、イサクの信仰をも見ることができます。イサクは、アブラハムの言葉、「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」という言葉を信じていたのです。イサクは、父アブラハムの神、主を信じていたのです。アブラハムの神は、イサクの神でもあったのです。

 11節、12節をお読みします。

 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

 アブラハムが息子イサクを屠ろうとしたとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけます。そして、アブラハムにこう言うのです。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。私たちは、1節で、「神はアブラハムを試された」という言葉を読んでおりますから、神が本気でイサクをささげるように命じられたのではないことを知っております。神は、アブラハムが神を畏れる者であるかどうかを試すために、息子イサクをささげなさいと命じられたのです。ですから、主の御使いは、「その子に手を下すな。何もしてはならない」と命じられるのです。「息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられた神が、「その子に手を出すな。何もしてはならない」と命じられるのです。アブラハムは、ベエル・シェバにぎょりゅうの木を植え、主を礼拝しておりましたが、信仰者としては危険な状態にあったと思われます。このことは、アブラハムが約束の子イサクを与えられ、あらゆる祝福を受けていたことを考えるならば、お分かりいただけると思います。ここにある神の問いかけは、ヨブ記に出て来るサタンの問いかけと通じるものがあります。すなわち、アブラハムの信仰は、御利益信仰となってしまっているのではないかという問いかけです。約束の息子イサクを与えられ、あらゆる祝福を受けているアブラハムが主を礼拝するのは、その祝福のゆえではないか、という問いかけであります。ですから、神は、アブラハムに、息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげよ、と命じられたのです。そのようにして、神はアブラハムが神に従う者であるかどうかを知ろうとされたのであります。そして、神はそのことが、「今、分かった」と言われるのです。

 13節、14節をお読みします。

 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

 アブラハムが目を凝らして見回すと、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていました。これは、そのとき、雄羊が突然現れたということではなくて、これまでいたことに、アブラハムが気がつかなかったのでしょう。アブラハムは行って、その雄羊を捕まえ、息子イサクの代わりに焼き尽くす献げ物としてささげたのです。山に登る前、アブラハムは息子イサクに、「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と言いましたが、その言葉どおり、神は焼き尽くす献げ物の小羊を備えていてくださったのです。それゆえ、アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けたのでありました。主は私たちの必要をご存じであり、備えてくださる摂理の神であられるのです。

 15節から19節までをお読みします。

 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国の民はすべて、あなたの子孫によって、祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

 ここで、再び、神の約束の言葉が語られます。このことは、神様にとって、神の約束と神の命令は矛盾するものではなかったことを教えております。神はアブラハムが御声に聞き従ってこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったゆえに、神の約束を確かに実現してくださるのです。

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