主に不可能なことがあろうか 2012年8月05日(日曜 夕方の礼拝)

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主に不可能なことがあろうか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 18章1節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:1 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。
18:2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、
18:3 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。
18:4 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。
18:5 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」
18:6 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
18:7 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。
18:8 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、
18:10 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。
18:11 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。
18:12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
18:13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。
18:14 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
18:15 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」創世記 18章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記第18章1節から15節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節から8節までをお読みします。

 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上げるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。

 「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた」とありますが、アブラハムはマムレの樫の木のところに天幕を張り住んでおりました(13:18、14:13)。ですから、主はアブラハムの天幕を訪ねてくださったわけです。しかし、アブラハムは、その方が主であることに気がつきませんでした。なぜなら、主は人の姿でアブラハムのもとを訪れたからです。「暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた」。暑い真昼の時間帯は仕事をやめて、昼寝をするときでありました。ですから、アブラハムも天幕の入り口に座って休んでいたものと思われます。また、暑い真昼の時間帯は、旅人にとっても、体を休めるときでありました。「三人の人が彼に向かって立っていた」とありますが、これはアブラハムの天幕で休ませてもらいたいとの意思表示であります。ここではまるで三人の人が突然現れたかのようですが、アブラハムは気づくなり、すぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏しました。ここには旅人を迎えることを神聖な義務と見なす当時の遊牧民の習慣があると言われています。アブラハムは地にひれ伏してこう言います。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」。1節に「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた」とありましたから、私たちは三人が主であることを知っています。より正確に言えば、この三人が主と二人の御使いであることを知っています(18:13、19:1参照)。しかし、アブラハムは、この三人のうちの一人が主であり、他の二人が御使いであることを知りません。アブラハムにとって三人は自分の近くを通った旅人であるのです。アブラハムの申し出に彼らは、「では、お言葉どうりにしましょう」と答えました。すると、アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来てこう言いました。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい」。アブラハムは上等の小麦粉を用いて、三セアほどのパン菓子をこしらえるようサラに命じます。1セアは個体の容量で7.7リットルですから、3セアはおよそ23リットルとなります。これは三人では食べきれないほどの量です。また、アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させました。牛を振る舞っただけではなく、牛の群れの中で柔らかくておいしそうな子牛を振る舞ったのです。アブラハムは「急いで天幕に戻り」、サラに「早く」パン菓子をこしらえるよう命じ、自分も牛の群れのところへ走って行き、召し使いに急いで料理させます。なんだかあわただしいのでありますが、それは三人の旅人を待たせないためでありました。アブラハムは、凝乳(チーズやヨーグルトのようなもの)、乳、出来立ての子牛料理などを運び、彼らの前に並べたのです。これは当時の人々にとってごちそうでありました。アブラハムは見ず知らずの旅人を御主人様と呼び、その僕として最高の食卓を調え、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕したのです。このようにして、アブラハムは知らずして、主に仕えたのでありました。新約聖書のヘブライ人への手紙第13章2節に、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」とありますが、アブラハムがまさにそうであったのです。現代の私たちには、旅人をもてなすことを聖なる義務とするような慣習はありませんけれども、私たちはアブラハムが知らずに主と御使いをもてなしたことを覚えて、旅人をもてなすことを忘れてはならないのです。

 9節から15節までをお読みします。

 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

 食事を終えた彼らは、アブラハムに「あなたの妻サラはどこにいますか」と尋ねました。彼らはアブラハムに妻がいること、そして妻の名前がサラであることを知っておりました。アブラハムは彼らが誰であるかをまだ知りませんが、彼らはアブラハムとサラを知っているのです。このあたりからアブラハムは彼らが主であることに気がつき始めたかも知れません。アブラハムは「はい、天幕の中におります」と答えました。妻は客人の前に姿を表さないのが当時の慣習であったからです。すると、彼らの一人がこう言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」。これはすでに主がアブラハムに語られた約束の言葉でありました。ですから、このときアブラハムは、この人がただの人ではなく、主であられることに気がついたと思います。そして、アブラハムは、第17章で主から与えられた約束を妻のサラにも伝えたはずです。ですから、サラも名前をサライからサラと変えたのです。しかし、サラは、すぐ後ろの天幕で聞いておりましたが、ひそかに笑いました。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人となっており、しかもサラには月のものがとうになくなっていたからです。人間の常識で考えるならば、サラは子供を宿すことができない体となっていたわけです。12節に、「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」とあります。ここでの「楽しみ」は「夫婦の性の営み」を意味しています。年を取ったアブラハムとサラは夫婦の営みから遠のいていたわけです。そして、ここに主が人間の姿で、アブラハムの家を訪ねてくださった理由があるのです。今夕の御言葉は、新約聖書のルカによる福音書のマリアに対する受胎告知と似ているのでありますが、決定的に違う点は、イエス様は聖霊によって処女マリアの胎に宿るのですが、約束の子イサクは、アブラハムとサラとの間に、夫婦の営みを通して生まれてくるということです。主は第17章で、アブラハムに現れ、「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」と言われました。そして、主のこの言葉をアブラハムは妻サラに伝えたはずです。しかし、サラはアブラハムと夫婦の営みをしませんでした。それは二人とも老人であり、サラには月のものがとうになくなっていたからです。サラにとって夫婦の営みを楽しむときはもはや過ぎ去った昔のことなのです。しかし、それではいくら待っても、サラが身ごもることはないのです。ですから、主は人の姿で、アブラハムのもとを訪れ、サラが聞いていることをご存じの上で、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」と言われたのです。そして、ひそかに笑うサラについて、主はアブラハムに次のように言われるのです。「なぜ、サラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。ここで主はサラが笑ったことを、年をとった自分に子供が生まれるはずはないと思ったことを責めておられます。なぜなら、そこには、主であっても、年をとった自分に子供を授けることは不可能であるとする不信仰があるからです。しかし、主は、「主に不可能なことがあろうか」と問われることによって、主に不可能なことはないことを示されるのです。なぜなら、主は全能の神であり、何でもできるお方であるからです。そして、そのようなお方として、再びこう言われるのです。「来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。15節に、「サラは恐ろしくなり」とありますが、これは主がサラの心の中を見抜かれたからです。12節に「サラはひそかに笑った」とありますが、もとの言葉では「心の中で笑った」と記されています。しかし、主はサラが心の中で笑ったこと、思ったことを見抜かれたのです。心の中の事ですから、サラは打ち消して「わたしは笑いませんでした」と言いました。しかし、心の中をご存じである主を欺くことは出来ません。主は、「いや、あなたは確かに笑った」と言われるのです。しかし、この言葉は、サラを失格者として排除するような言葉ではありません。むしろ、サラが自分の不信仰を認めて、主に不可能なことはないとの信仰を持つようにするための主の御言葉であるのです。ヘブライ人への手紙第11章11節に次のように記されています。「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束なさった方は真実であると、信じていたからです」。このようなサラとなるためには、主が人の姿で訪問してくださることが必要であったのです。このようにして、アブラハムとサラは、主の約束を信じて夫婦の営みに励む者とされたのです。そのようにして、主はアブラハムとサラとの間に男の子を授けてくださるのです。

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