約束の子 2012年7月22日(日曜 夕方の礼拝)

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約束の子

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 17章15節~27節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:15 神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。
17:16 わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」
17:17 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」
17:18 アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」
17:19 神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。
17:20 イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。
17:21 しかし、わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる。」
17:22 神はこう語り終えると、アブラハムを離れて昇って行かれた。
17:23 アブラハムは、息子のイシュマエルをはじめ、家で生まれた奴隷や買い取った奴隷など、自分の家にいる人々のうち、男子を皆集めて、すぐその日に、神が命じられたとおり包皮に割礼を施した。
17:24 アブラハムが包皮に割礼を受けたのは、九十九歳、
17:25 息子イシュマエルが包皮に割礼を受けたのは、十三歳であった。
17:26 アブラハムと息子のイシュマエルは、すぐその日に割礼を受けた。
17:27 アブラハムの家の男子は、家で生まれた奴隷も外国人から買い取った奴隷も皆、共に割礼を受けた。
創世記 17章15節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記第17章15節から26節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 15節、16節をお読みします。

 神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなくサラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」

 神はアブラムにアブラハムという新しい名前を与えられたように、サライにもサラという新しい名をお与えになります。しかし、その意味するところは必ずしも明らかではありません。サライもサラも、「女主人」という意味でありまして、強いて言えば、サライが「わたしの女主人」であるのに対して、サラは「女主人」となります。このことはサラが諸国民の母、諸国民の女主人となるとの約束と通じているわけです。神はアブラムを多くの国民の父とするゆえに、アブラハムという名を与えられたように、サライを諸国民の母とするゆえに、サラという新しい名を与えられたのです。

 「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女からでる」。この神の言葉は、6節のアブラハムに対する言葉と対応しています。主はアブラハムに、

「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう」と言われました。そして、サラについては「わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女からでる」と言われるのです。また、7節で主はアブラハムに「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」と言われましたけれども、その子孫とは妻サラとの間に生まれてくる男の子を源とする子孫であるのです。私たちはここから、アブラハムに与えられていた約束がアブラハム個人にではなくて、アブラハムとサラという夫婦に与えられていたことが分かるのです。第2章24節に、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とありましたけれども、アブラハムに与えられた約束は妻サラにも与えられた約束であったのです。

 17節から22節までをお読みします。

 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。しかし、わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる。」

 アブラハムはひれ伏しましたが、しかし笑ってひそかに言いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。この笑いは喜びの笑いというよりも、自嘲の笑い、自分で自分を嘲る笑いであります。なぜなら、アブラハムの現実的な考えによれば、百歳の男と九十歳の女の間に子供が産まれることなどあり得ないからです。ですから、アブラハムは神にこう言いました。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように」。アブラハムは、神に対して、「わたしに対するあなたの恵みは十分です。あなたはわたしにイシュマエルを与えてくださいました。どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように」と言うのです。しかし、神はアブラハムにこう言われます。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」。神は再びアブラハムに、「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む」と言われました。そして、その子をイサク(彼は笑う)と名付けるようにと言われるのです。これは神の約束が確かでえあることを表しています。イサクとは「彼は笑う」という意味ですが、これはアブラハムがひれ伏しながらも、笑ったことと関係しています。アブラハムの笑いは神の言葉を信じない不信仰からの笑いでした。しかし、神はアブラハムとサラとの間に男の子、イサクを与えることによって、アブラハムに心からの笑いを与えてくださるのです。アブラハムとの契約は、このイサクへと受け継がれ、さらにはイサクの子孫への受け継がれていくのです。

 しかし、神はイシュマエルについての願いをも聞き入れてくださいます。神はイシュマエルをも祝福し、繁栄させ、大いなる国民としてくださるのです。しかし、アブラハムとの間に結んだ契約は、サラから生まれてくるイサクと立てると言われるのです。なぜなら、アブラハムと妻サラとの間に生まれてくるイサクこそ、神が約束しておられた約束の子であるからです。新約聖書のローマの信徒への手紙第9章6節から9節に次のように記されています。

 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。

 イシュマエルは、サラの願いによって、アブラハムと側女ハガルとの間に生まれた子供であります。このことを踏まえてパウロはイシュマエルを「肉による子供」と呼んでいるのでしょう。しかし、イサクはそうではありません。アブラハムも、サラも、望みの絶えたときに、神の約束によって生まれてくるのです。もちろん、夫婦の営みを通してイサクは生まれてくるのでありますが、アブラハムもサラも、神の約束を信じて夫婦の営みをしたわけです。ですから、イサクは「約束に従って生まれる子」であるのです。神は最初から、アブラハムとサラとの間に生まれる子、イサクと契約を立てることを御計画されていたのであります。

 では今夕の御言葉に戻ります。

 22節から27節までをお読みします。

 神はこう語り終えると、アブラハムを離れて昇って行かれた。アブラハムは、息子のイシュマエルをはじめ、家で生まれた奴隷や買い取った奴隷など、自分の家にいる人々のうち、男子を皆集めて、すぐその日に、神が命じられたとおり包皮に割礼を施した。アブラハムが包皮に割礼を受けたのは、九十九歳、息子イシュマエルが包皮に割礼を受けたのは、十三歳であった。アブラハムと息子のイシュマエルは、すぐその日に割礼を受けた。アブラハムの家の男子は、家で生まれた奴隷も外国人から買い取った奴隷も皆、共に割礼を受けた。

 神がアブラハムを離れて昇って行ったその日、アブラハムはさっそく言われたとおりに、息子のイシュマエルをはじめ、家で生まれた奴隷や、買い取った奴隷など、自分の家にいる男子に割礼を施しました。アブラハムの信仰はまさに従う信仰であったのです。このことによって、アブラハムだけではなくて、彼の家のすべての者たちが、直系の子孫から奴隷に至るまで、神の契約の恵みのうちにあることがはっきりと表されました。神は女奴隷であるハガルを顧りみられる神でありますが、そのことが家にいるすべての男子が割礼を受けることによって明らかとされたわけです。前回も申しましたが、割礼を受けるのは男だけでありますが、それは女を代表して受けるわけです。女は割礼を受けられないから、神の契約の恵みから漏れているわけではないのです。アブラハムへの約束が妻サラへの約束でもあったように、神の契約の恵みはアブラハムの家にいるすべての女にも及んでいるのです。

 アブラハムの子孫であり、イサクの子孫であるイエス・キリストは、神の契約を実現してくださったお方であります。私たちはそのイエス・キリストにあって、神の契約の恵みに、今、生かされているのです。割礼に代わる契約のしるしとして、洗礼を受けることによって、私たちはイエス・キリストに連なる一つの家族、神を父とする神の家族とされているのです(コロサイ2:11、12参照)。

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