神の祝福 2012年1月22日(日曜 夕方の礼拝)

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神の祝福

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 9章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:1 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。
9:2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。
9:3 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。
9:4 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。
9:5 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
9:6 人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。
9:7 あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」創世記 9章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記の第9章1節から7節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 前回私たちは、ノアが箱舟から出た後すぐに、主のために祭壇を築き、焼き尽くす献げ物をささげたことを学びました。主は宥めの香りをかいで、御心にこう言われたのです。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしはこの度したように生き物をことごとく打つことはあるまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも/昼も夜も、やむことはない」。この神様の御言葉は、御心に言われたものでありまして、ノアに言われたものではありません。けれども、今夕の御言葉はノアと彼の息子たちに言われたものであります。それも神様はノアと彼の息子たちを祝福して言われたのです。

 1節から4節までをお読みします。

 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」

 「産めよ、増えよ、地に満ちよ」。この神様の御言葉は私たちに第1章28節の御言葉を思い起こさせます。神様は人を御自分にかたどって、男と女に創造し、彼らを祝福してこう言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。第9章1節の神様の祝福の言葉は、アダムとエバに語られた祝福の言葉を明らかになぞるものであります。このことは、創造の時に与えられた神様の祝福と同じ祝福が洪水後の世界においても与えられていることを示しています。アダムとエバを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われた神は、ノアと彼の息子たちを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのです。子孫を産み、増え広がるという神の祝福は、ノアと彼の子孫にも与えられるのです。このことはある意味で驚くべきことであります。なぜなら、神様は「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」ということをご存じであるからです。アダムに語られた祝福の言葉は、罪を犯す前のアダムに語られた言葉でありました。けれども、ノアに語られた祝福の言葉は、幼いときから悪いことを心に思う人間に語られた言葉であるのです。神様は、人が心に思うことは幼いときから悪いことをご存じのうえで「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福されるのです。

 「産めよ、増えよ、地に満ちよ」。この神様の祝福は第1章28節と同じでありますが、違っている点もあります。第1章28節では、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とだけ言われていましたが、ここでは「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前におそれおののき、あなたたちの手にゆだねられる」と言われています。これはアダムの最初の罪によって、人間と地のすべての獣と空のすべての鳥、地を這うすべてのものと海のすべての魚との関係に不調和が生じたことを教えています。創造されたとき、人間と動物の間には支配する者と支配される者という秩序があり、その関係も平和でありました。しかし、アダムの最初の罪によって、人間と動物の関係が歪められ、動物は人間に牙をむくものとなってしまったわけです。人間が神様に背いた罪は、動物にも及び、動物は人間に背き、牙をむくものとなってしまったのです。そのような良き創造の状態から堕落した世界において、神様は動物に人間に対する恐れおののきを与えられ、人間が動物を従わせることができるようにされたのであります。人間よりも力ある動物がたくさんおりますけれども、それが人間に従うのはなぜでしょうか?それは神様が動物を人間の前におされおののくものとされたからであります。

 また、アダムとエバに食物として与えられていたのは植物だけでしたが、ここでは動いている命ある者が食物として与えられています。第1章29節で神様は、「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける気を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」と言われました。しかし、ここでは、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしは、これらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」と言われるのです。神様は人間の食物として肉を与えてくださいました。動物や鳥や魚は人間の食糧としても、人間の手に委ねられているのです。ここから家畜を飼育し、繁殖させる畜産が発展してくるわけです。神様が人間に動物や鳥や魚を食糧として与えられたことは、人間の罪に由来することであります。しかし、動物や鳥や魚を食べることは罪ではありません。神様は祝福して「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じように与える」と言われたのです。肉を食べるということは古代のイスラエル人にとってめったにないことでありまして、彼らは主の祝福として喜んで肉を食べたわけです(申命12:15参照)。ただし、ここで一つ禁じられていることがあります。それは「肉は命である血を含んだまま食べてはならない」ということです。「命である血」とありますが、レビ記の第17章11節を見ますと「生き物の命は血の中にある」と記されています。ですから、聖書において、血は命であり、命は血であるのです(申命12:23参照)。なぜ、神様は「肉は命である血を含んだまま食べてはならない」と言われたのでしょうか?それは御自分が命の主であるからです。神様は人間に命である血を含んだまま肉を食べることを禁じることによって、命の主が御自分であることを覚えるようにされたのです。動物や鳥や魚を食べることは、その命の主である神様から人間に与えられた祝福であります。ですから、私たちは神様の祝福に感謝して青草と同じように動物や鳥や魚の肉を食べるべきであるのです。

 5節から7節までをお読みします。

 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ。」

 神様は私たち人間の命である血が流された場合、「わたしは賠償を要求する」と言われます。神様は「いかなる獣からも要求する」と言われていますが、出エジプト記の第21章18節に次のように記されています。「牛が男あるいは女を突いて死なせた場合、その牛は必ず石で打ち殺されねばならない。また、その肉は食べてはならない」。動物によって人間の命である血が流された場合、その動物は共同体によって殺されねばなりませんでした。また神様は、「人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償とする」と言われます。出エジプト記の第21章12節に、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」とあります。このように「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される」のです。しかしなぜ、神様は人間の命である血が流された場合、賠償を要求されるのでしょうか?なぜ、神様は動物の血に対しては賠償を要求されないのに、人間の血に対しては賠償を要求されるのか?それは、「人が神にかたどって造られた」からです。人が神のかたちを有する者であるからであります。

 少し前に、「なぜ、人は人を殺してはいけないのか」という問いにどうのように答えるかが話題になりました。動物は殺してもいいのに、なぜ人間は殺してはいけないのか?それは人が神にかたどって造られたからなのです。それゆえ、神様は、「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する」と言われるのです。私たちはこの神様の御言葉を重んじることによってのみ、本当の意味で人の命を重んじることができるのであります。

 7節に、「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」とあります。これは1節と同じ祝福の言葉でありますけれども、人の血を流すということは、この神様の祝福に真っ向から逆らうことであるわけです。神様は堕落した罪の世界で人間が増え広がるために、「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する」とはっきり言われたのであります。幼いときから心に悪いことを思うばかりの人間でありましても、依然として人は神のかたどって造られた存在であるのです。そして、人の神のかたちを回復するために、神様はイエス・キリストを遣わしてくださったのです。私たちはイエス・キリストにあって神のかたちを回復された者として、すべての人に神のかたちを見、すべての人を尊んでいきることが求められているのです。

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