神の決意 2012年1月08日(日曜 夕方の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

神の決意

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 8章20節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:20 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
8:21 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
8:22 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」創世記 8章20節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記の第8章20節から22節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 20節をお読みします。

 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。

 およそ1年ぶりに箱舟から出たノアが最初にしたことは、主のために祭壇を築くということでありました。ノアはすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげたのです。第7章2節、3節で、神様はノアに清い動物と鳥を七つがいずつ取るように命じられましたけれども、それはノアが祭壇でささげるためであったのです。清い家畜と清い鳥についてはレビ記の第11章に記されておりますが、そこでは人間が食べてよい生き物が清いもの、食べてはいけない物が汚れているものと言われています。ノアは食べてよい家畜と鳥を祭壇で焼き尽くす献げ物として主にささげたのです。焼き尽くす献げ物についてはレビ記の第1章に次のように記されています。旧約聖書163ページ。レビ記の第1章1節から9節までをお読みします。

 主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。

 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。

 あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。奉納者がその牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。奉納者が献げ物とする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。奉納者が内蔵と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。

 ノアがこの通りに行ったとは思いませんが、ともかく、ノアは清い家畜と清い鳥を祭壇で焼き尽くして主に献げたのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約聖書の10ページです。

 21節、22節をお読みします。

 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」

 「主は宥めの香りをかいで」とありますが、宥めの香りとは、焼き尽くす献げ物から生じて天に上っていく煙のことであります。これは生々しい表現でありますが、ここで言われていることはノアの献げ物が神様に受け入れられたということです。もっと言えば、ノアの祈りが神様に受け入れられたということであります。

 そもそも、なぜ箱舟から出たノアは真っ先に主のための祭壇を築き、焼き尽くす献げ物をささげたのでしょうか?まず考えられますことは、大洪水から救われたことを主に感謝するためであります。それゆえ、焼き尽くす献げ物はすべてを献げる献身を表していると読むことができます。しかし、わたしはそれだけではなかったと思います。先程、レビ記の第1章を読みましたけれども、そこには罪を贖う儀式が定められておりました。焼き尽くす献げ物は罪を贖う献げ物でもあるのです(レビ記4章参照)。神様はなぜイスラエルに献げ物を伴う礼拝を求められたのでしょうか?それは私たちが本来神様を礼拝することのできない罪人であることを教えるためであります。ノアが祭壇でささげた焼き尽くす献げ物は、ノアの罪を贖うための献げ物でもあったのです。そこには、自分も神様の御前に滅ぼされるべき罪人であるというノアの信仰の告白があるのです。ノアは自分は正しいから生き残って当然だとは考えませんでした。ノアは自分も神様の御前に滅ぼされて当然の罪人であることを、主に祭壇を築き、焼き尽くす献げ物をささげることによって表したのです。そのようなノアの献げる祈り、焼き尽くす献げ物の煙に象徴されるノアの祈りは、どのような祈りであったのでしょうか?それを私たちは主の独白から想像することができます。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」

 この神様の独白から、私たちはノアの祈りが、「人に対して大地を呪うことは二度としないでください。人が思うことには、幼いときから悪いのです。どうぞ、この度したように生き物をことごとく打つことは二度としないでください」という祈りであったと推測することができるのです。主は御心に言われたとありますから、これはノアへの言葉ではありません。けれども、ノアの祈りを受けての御言葉であると読むことができるわけです。主はノアの祈りをきいてくださり、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」と御心に言われたのです。主は「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と言われますが、その理由は何かと言いますと、「人が心に思うことは幼いときから悪い」ということであります。このことは主が洪水を起こされた理由ではなかったでしょうか?第6章5節に、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあります。神様は地上に人の悪が増し、人が常に悪いことばかりを思い計っているのを御覧になって、洪水によって人をぬぐい去られたのです。しかし、今夕の御言葉では「人に対して大地を呪うことは二度とするまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いからだ」と言われるのです。洪水を起こした原因がここでは、洪水を二度と起こさない理由として語られているのであります。ここに輝いているのは主の恵み深い忍耐であります。カルヴァンがこのところを注解して言っておりますように、「もし人々がそれにふさわしく扱われねばならないとしたら、毎日毎日洪水が必要である」のです。しかし、主はそのようなことはしないと言われるのであります。それなら、はじめから洪水を起こさないで忍耐してくださればよかったのにと思うかも知れません。しかし、それは神様の御心を知らない人間の勝手な言いぐさです。神様は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛める聖なるお方であります。しかし、同時に幼いときから悪いことを心に思う人間を憐れむ愛なるお方でもあるのです。おそらく神様は洪水によって、地の面にいたすべての生き物がぬぐいさられたときも、御自身の聖と愛のゆえに心引き裂かれる思いであったのではないでしょうか。その神様の御言葉として、私たちは、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしはこの度したように生き物をことごとく打つことは二度とすまい」という御言葉を私たちは聞かなくてはならないのです。

 わたしは先程、神様がはじめから忍耐して洪水を起こさないでくださればよかったのにと申しましたが、しかし、ノアの洪水は私たちに大切なことを教えてくれています。それは私たち人間は神様の御前に滅ぼされても当然の存在なのだということです。カルヴァンが言うように、神様が私たちをふさわしく扱われるならば毎日洪水を起こさなければならなかったのです。しかし、神様はそれをしないと言われるのです。もう十分だと言われるのです。それはノアの物語を読む者たちが、そこに自らの滅びを見ることを主が期待されているからです。

 私たちはノアの物語をどのように読むでしょうか?おそらくほとんどの方がノアに自分を重ねて読まれると思います。洪水によって地からぬぐい去られてしまう人間と自分を重ねてノアの物語を読む人はほとんどいないと思います。しかし、ノアは、箱舟から出て焼き尽くす献げ物をささげたのです。それによって、自分も本来は洪水で死すべき罪人であることを告白したのです。そして、その罪人として、主に人に対して大地を呪うことは二度としないでくださいと祈ったのです。神様はその願いを良しとして、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と御心に言われたのであります。

 22節で、主は「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない」と言われました。これは季節の移り変わり、日の移り変わりがやむことはないという神様の約束であります。私たちは変わることない季節の移り変わり、日の移り変わりを通して、自分たちも神様の恵みの忍耐によって生かされていることを知ることができるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す