むさぼってはならない 2016年7月24日(日曜 朝の礼拝)

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むさぼってはならない

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 20章17節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」出エジプト記 20章17節

原稿のアイコンメッセージ

 夕べの礼拝では、神様がイスラエルの人々に語られた十の言葉を学んでおります。前回は、第九の言葉、「隣人に関して偽証してはならない」について学びましたので、今夕は第十の言葉、「隣人の家を欲してはならない」について学びたいと思います。

 17節をお読みします。

 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

 ここで「欲してはならない」と訳されている言葉は、口語訳聖書では「むさぼってはならない」と翻訳されておりました。ここで禁じられておりますことは、「むさぼる」とも訳すことのできる強い欲望であるのです。神様は、「隣人の家を欲してはならない」と言われた後で、それを詳しく説明されるかのように、「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」と言われました。これは、「隣人の家」の説明であると言えます。隣人の家とは、その建物だけではなく、そこに住んでいる隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなどの隣人の一切の所有物を含むのです。前にも言いましたように、十の言葉は、イスラエルの成人男子に語られた言葉であります。ですから、妻も所有物として挙げられているのです。

 この掟を他の掟と比べますときに、すぐに気がつくことは、この掟は、実際の言動を禁じる掟ではなくて、「欲しがる」という心の欲望を禁じる掟であるということであります。これまで学んで来ました「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「偽証してはならない」という掟は、いずれも外に表れる言動を禁じる掟であります。しかし、「隣人の家を欲してはならない」という掟は心の内にある欲望を禁じる掟であるのです。そうしますと、イエス様が山上の説教で教えられたことが、第十の言葉に基づく教えであったことが分かります。イエス様は、マタイによる福音書5章27節、28節でこう言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである」。ここでイエス様は、姦淫するという実際の行為だけではなく、みだらな思いで他人の妻を見るという、心の中の欲望を問題としておられます。実際に姦淫の罪を犯していなくても、みだらな思いで他人の妻を見る者は心の中で姦淫の罪を犯したことになるのです。人間は心の中を見ることはできませんけれども、神様は心を御覧になる方でありますから、実際に姦淫の罪を犯さなくても、神様の御前には姦淫の罪を犯したことになるわけです。このイエス様の教えは、私たちの罪は神様に対する罪であり、神様は言動だけではなく、心の中をも裁かれることを教えています。そして、それは、十戒において、神様がイスラエルの民に教えられたことであったのです。イエス様の教えは、第七の言葉、「あなたは姦淫してはならない」と第十の言葉、「あなたは隣人の妻を欲してならない」とを組み合わせた教えであると言えるのです。

 なぜ、神様は、イスラエルの人々に、「あなたは隣人の家を欲してはらない」と言われたのでしょうか?それは、イエス様が教えられたように、すべての罪の根には人間の欲望があるからです(ヤコブ1:15参照)。このことは、第八の言葉、「盗んではならない」のことを考えればよく分かります。盗むという行為の源には、隣人のものを欲しがる欲望があるのです。その悪しき欲望を第十の言葉は禁じているのです。

 では、「あなたは隣人の家を欲してはならない」という言葉は、私たちに何を求めているのでしょうか?それは、私たちが自分の家に、すなわち自分の持ち物に満足することであります。ウェストミンスター小教理問答は、その問80で、「第十戒では、何が求められていますか」と問い、次のように告白しています。「第十戒が求めている事は、私たち自身の状態に全く満足すること、それも、隣人とそのすべての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足することです」。この告白の背後には、すべてのことは主の計らいによることであるとの信仰があります。自分に持ち物を与えてくださっているのも、また、隣人に持ち物を与えてくださっているのも神様であるのです。神様の配剤によって自分と隣人に持ち物が与えられているのですから、私たちは自分の持ち物に満足し、また、隣人の持ち物を欲しがってはならないのです。このことは、使徒パウロが主から授けられた秘訣でもありました。パウロは、フィリピの信徒への手紙4章10節から13節でこう記しています。新約の366ページです。

 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

 このようにパウロは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えていたのです。そして、これこそ、パウロを強めてくださる主イエスから授けられた秘訣であったのです。そして、この秘訣は主イエスを信じる私たちにも与えられている秘訣であるのです。

 ことわざに、「隣の芝生は青く見える」とありますが、なぜ、私たちは他人のものを欲しがるのでしょうか?それは、私たちの心の目が上へと向けられておらず、横ばかりを見ているからです。神様を見上げることなく、人を見ているとき、私たちは自分の状態に満足できず、隣人のものをむやみに欲しがる罪を犯すのです。大会教育委員会から発行されている『教会学校教案誌』に、吉田隆先生が記した十戒の解説の文書が掲載されています。その第十戒の解説の中で、吉田隆先生はこう記しておられます。

 他人の幸せと自分の幸せが両立しないように思えるのは、互いに見比べるからです。人間の真の幸せは、自分を見るのでも互いに見比べるのでもなく、上を見ることによってのみ与えられることを覚えましょう。造られた存在にとって、造ってくださった方に愛される以上の幸せがあるでしょうか。もしそこに幸せを見出すことができるならば、人と比べる必要などありません。

 下を向いて生きるのは惨めです。互いに比べて生きるのは殺伐とした社会を生み出します。ただ天を仰ぐことによってのみ、人は満ち足りることを知るはずです。なぜなら、そこには、空の鳥・野の花にまさって私たちを愛してくださる方がおられるからです。

 「ただ天を仰ぐことによってのみ、人は満ち足りることを知る」という言葉を読んで、私もそのとおりだなぁと思いました。パウロがどんな境遇にも対処することができたのは、どんな境遇においても、主イエスを仰いでいたからであります。パウロは主イエス・キリストを知ることのすばらしさのゆえに、どのような境遇にあっても満足することができたのです。

 また、パウロは、テサロニケの信徒への手紙一の5章16節から18節でこう記しております。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。私は、このパウロの言葉に、「どんな境遇にあっても満足する」ことがどのようなことであるかが記されていると思います。主イエス・キリストによって救われた者として、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きるとき、私たちは隣人の家を貪る罪から解き放たれるのです。

 十戒を一つ一つ学んで来ましたけれども、私たちは十戒を完全に守ることはできません(ローマ3:20参照)。では、私たちにとって、十戒は何の意味もないのかと言えば、そうではありません。十戒は、主イエス・キリストの十字架の贖いによって神の民とされた私たちに与えられている神の御言葉であります。神の民とされた者として、どのように生きればよいのか、その指針がここに示されているのです。私たちは十戒を完全に守られた主イエス・キリストを模範としつつ、救われた者の感謝の生活の指針として、十戒を守ることが求められているのです。私たちは救われるために十戒を守るのではありません。主イエス・キリストによって救われた者として十戒を守るのです。

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