神は真実な方 2008年12月28日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。
5:24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
5:25 兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。
5:26 すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。
5:27 この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。
5:28 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。テサロニケの信徒への手紙一 5章23節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 7月からテサロニケの信徒への手紙一の連続講解説教をして参りましたが、今日は、その最後になります。2008年最後の礼拝で、テサロニケの信徒への手紙一を読み終えることができますことは偶然ではありますが、主の導きと思っい感謝しております。来年、2009年は、ヨハネによる福音書から連続講解説教をする予定でありますので、そのためにお祈りしていただきたいと思います。パウロは25節で、「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。」と述べておりますが、わたしも皆さんの祈りを必要としているのです。毎週、この場に立ち、説教している者として、しばしば頭を抱えてしまうのが、「いったい説教とは何であろうか」ということであります。「人の語る言葉が、神の言葉として聞かれる。」これは、聖霊の御業による奇跡でありますけども、どのように語れば、そのような出来事が起こるのであろうか。そこに、説教学の課題もあるのでしょうけども、一つ確かなことは、説教は神さまが語らしてくださるものだということです。語るべき言葉を神さまが授けてくださるということです。ですから、そこで祈るという行為がどうしても求められるわけですね。そして、これは説教者だけが祈り求めればよいということではないのであります。御言葉の恵みにあずかる全ての者が、祈り求めるべきことなのです。祈祷会に出席される方々は、いつもわたしの働きのために、特に説教準備のために祈ってくださるのでありますけども、それはわたしのためだけではなく、教会全体のため、しいては自分たちのための祈りでもあるのです。なぜなら、神さまは立てられた説教者を通して、その民にお語りになるからです。「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください」。このように語ったパウロは、とても謙遜な人であったと思います。パウロは、自分の働きが、テサロニケの信徒たちの祈りに支えられなければ続けることができないと考えていたのです。パウロは、28節で、「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」と祈ってこの手紙を結んでおりますけども、誰よりパウロ自身が、主イエス・キリストの恵みに生かされていることを知っていたのであります。パウロは、コリントの信徒への手紙一第15章9節、10節でこう述べています。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にはならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」

 自分が自分の力ではなくて、神の恵みによって生かされている。このことを知るとき、私たちは神の恵みを祈り求めざるを得ません。祈りの心に生きずにはおれなくなるのです。そして、その祈りは、御言葉に仕える教師のために、さらには兄弟姉妹のためにと広がっていくのです。パウロは、23節から24節でこう述べています。

 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、私たちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。

 「平和の神」、それは御子イエス・キリストの十字架によって、私たちとの間に平和を打ち立ててくださった神であります。聖霊によって、私たちに御自分の平和を与えてくださる神であります。その神さま御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように、とパウロは祈るのです。聖なる者となること、これは、第4章3節に記されていたように、神さまの御心でありました。神さまは、私たちを聖なる者とするために、御子イエス・キリストを遣わし、さらには天に上げられたイエス・キリストを通して、聖霊を私たち一人一人に与えてくださったのです。聖なる者とは、倫理的、道徳的に清い者という意味もありますが、聖書においてはむしろ神の民を意味しています。なぜなら、聖書において、聖なるお方は、神さまお一人であり、聖なる者となるとは、その聖なる神さまの民となることであるからです。ですから、「あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」というこのパウロの祈りは、このようにも解釈できるのです。「あなたがたを完全に神の御心に従って生きる者としてくださいますように」。私たちが聖なる者となる道、それは神の御心に従って生きるところにあるのです。それゆえ、私たちは聖書の証しするイエス・キリストにおいて現された神の御心に従って生きることを祈り求めていかなくてはならないのです。

 続けてパウロは、「また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのない者として守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」と祈っています。ここで、「霊も魂も体も」とありますが、これは、人間が霊と魂と体の三つからできていることを教えているというよりも、人間全体を指す包括性を表す言葉であります。前にもお話ししましたけども、テサロニケは、ギリシアにある都市であり、ギリシア哲学で教えられていたことは、人間は肉体と霊魂からなっており、救いとは、霊魂が肉体という牢獄から解放されることであるということでありました。それゆえギリシア人がキリスト者となったのちも、肉体と霊魂をまったく分けて考えるという誤りが起こったのです。肉体で罪を犯しても、それは霊魂には何の悪影響も及ぼさない、そのような誤った考えが起こったのです。コリントの信徒への手紙一に、キリスト者でありながら、娼婦と交わりをもっていた人のことが記されておりますけども、それはそういう理屈であったわけですね。肉体において娼婦と交わっても、それによって霊魂は汚れることはないと考えたのです。けれども、それに対してパウロは、こう語るのです。「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

 イエス・キリストがもたらしてくださった救い、それは霊だけに関わるものでも、魂だけに関わるものでもありません。霊と魂と体という、トータルなわたし全体に関わることなのです。そのことをパウロは、「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り」という言葉で言い表しているのです。「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき」、私たちは全く聖なる者とされ、非のうちどころのない者とされます。主イエス・キリストが来られるとき、すでに眠りについた者たちは、栄光あるものに復活し、また生き残っている者たちは、死を経験せずに栄光の体へと変えられ、一緒になって主イエスをお迎えすることができるのです。そして、このことの確かさは、何より神さま御自身にかかっているのです。「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」あなたがたをお招きになった方、これは言うまでもなく神さまのことであります。第2章12節に「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます」とありましたが、神さま御自身が、イエス・キリストを遣わし、また聖霊を遣わして、私たちを聖なる者としてくださったのです。そして、聖なる神の民として、主の日ごとに、礼拝へと私たちを招き続けてくださっているのです。イエスさまが「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と仰ったように、私たちに与えられている救いとは、三位一体の神の御業であると言えるのです。父なる神が御子を遣わし、御子キリストが罪の贖いを成し遂げ、聖霊がその恵みを私たち一人一人に適用してくださる。このように、私たちに与えられている救いは、父と子と聖霊なる三位一体の神の御業によるのです。それゆえ、パウロは、必ずその通りにしてくださると断言するのです。あなたがたをお招きになったお方は、真実であるから、途中で放り出されたり、未完成に終わらせることはあり得ない。必ずあなたがたの救いを完成し、あなたがたを非のうちどころのない聖なる者としてくださる。ここにパウロが絶えず祈り続けることのできる確かな根拠があります。私たちの真実が、私たちの祈りを支えるのではありません。私たちを招いてくださった神さまの真実が、私たちの祈りを支えているのです。罪を犯しながら、これでもキリスト者であろうかと自問するような歩みを重ねつつ、なお、聖なる者として歩み続けることのできる。それは、私たちを招いてくださった神さまが真実なお方であるからです。神は真実なお方である。パウロがそのように語るとき、それは神さまが御自分の語った言葉に対して真実であるということです。神さまは御自分の民と結ばれた契約、約束に真実であるということであります。その神の真実がどこに現れたのかと言えば、それは何よりイエス・キリストの十字架でありました。神さまは、エデンの園においてアダムとエバにこう仰せになりました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」アダムとエバが、神さまの掟に背き、良き創造の状態から堕落した直後に、神さまは、救い主のお誕生を預言し、約束されたのです。そして、その約束を実現するために、アブラハムを選び、ダビデを選び、さらにはダビデの子孫からイエス・キリストを遣わしてくださったのです。罪のないイエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架につけるという仕方で、神さまは私たちを罪の支配から贖い出し、御自分の民としてくださったのです。私たちは、今すでに聖なる民、神の子とされております。けれども、それはまだ完成してはおりません。私たちが完全に聖なる者、非のうちどころのない者となるのは、私たちの主イエス・キリストが天から来られるときなのです。私たちは完全に聖なる者とされることを待ち望みながら、今、この地上で主を礼拝する聖なる民として歩んでいるのです。そして、そのような途上にある歩みを支えてくださるのも、神さま御自身であるれるのです。神は真実なお方である。この確信を与えてくださるのは、私たち一人一人に与えられている聖霊であります。聖霊が私たち一人一人に御言葉を通して、神は真実なお方であることを証言してくださるのです。そして、ここに私たちの信仰の根本的な姿があるのです。私たちの信仰生活が、この私の決断によって始められたのではなくて、生まれる前から神さまがこの私を選んでくださり、最もふさわしいときに、聖霊の導きによって信仰を告白させていただいた。そのような神さま中心の信仰理解に立つとき、私たちは神さまの真実にこそ、依り頼むべき岩を見出すことができるのです。

 わたしも、まことの神さまを知るまでは、真実などどこにもないと思っておりましたけども、しかし、真実な方がただ一人おられる。それが、イエス・キリストにおいて、すべての人を救いへ招いておられる神さまなのであります。最近の日本社会の情勢を見ますときに、本当に心ふさぐ思いがいたします。経済的な見通しは立たず、だれもが不安を抱えて歩んでおられることと思います。しかし、そのような私たちに、聖書は、「神は真実なお方である」と語るのです。不安に投げ込まれるとき、そこで真実なもの、確かなものなどないと思う。しかし、聖書は、神さまは真実なお方である。神さまがあなたたちの救いを必ず実現してくださると語るのです。それゆえ、私たちは、神の御心に従おうとしながらも、従い得ない自分をそのまま神さまの御前に委ねることができるのです。パウロと共に、「あなたが私たちを全く聖なる者としてくださいますように」と祈ることができるのです。神さまは真実なお方であります。この神さまへ信頼が、私たちの心に平和を与えてくださるのです。そのような主の平和に生きる教会に、パウロはこう書き記しています。

 すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。

 「聖なる口づけ」これは原則的に、男性は男性に、女性は女性にと、同性の間で交わした挨拶であると言われています。抱き合って、互いのほおに軽く口づけするのです。後の時代になると、異性間でも行われ、みだらな行いと非難されるようになり、行われなくなったようでありますが、当時の教会では、聖なるくちづけによって挨拶しておりました。私たちには、このような挨拶の習慣はありませんけども、親しく挨拶を交わすということは私たちにも求められていることであります。挨拶とは、その人がいることを認めることであり、その人との関係の中に自分が生かされていることを示すものです。礼拝の始まる前は、長々と挨拶することはできないかも知れませんけども、礼拝が終わったのちに、互いの一週間の安否を問い、語り合うことは大切なことであります。そして、そこでこそ、私たちの間には、平和の神がおられることを確かめ合うことができるのです。私たちの間に平和の神がおられることを、兄弟姉妹と親しく挨拶を交わし合うことによって、体験として知ることができるのです。

 それに続いてパウロは、「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます」と述べています。このパウロの言葉から、パウロの手紙が、旧約聖書と共に、礼拝において読まれるようになったのではないかと考えられています。このことは、パウロが、自分が語る言葉は神の言葉であると言い切っていたことを思い起こせば当然のことと言えます。パウロは、テサロニケの信徒たちが、自分たちから神の言葉を聞いたとき、人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたように、この手紙を神の言葉として受け入れるように求めているのです。そして、このようにして、使徒たちの手紙が収集され、のちに新約聖書となったと考えられているのです(二ペトロ3:15、16も参照)。この手紙は、一部の人たちだけが読めばよいものではない。また、文字を読める者たちだけが読めばよいものでもはない。礼拝において公に読まれ、聞かれるべき神の言葉である。このことをパウロは強く願ったのです。パウロは、第3章10節で、「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と述べておりましたが、このような手紙を通して、それを果たそうとしたのでありました。ここに、テサロニケの信徒たちを聖なる民として生かす神の言葉がある。いや、テサロニケの信徒たちだけではない。現代の私たちを聖なる民として生かす神の言葉があるのです。そのような神の言葉を、私たちは半年に渡って共に聞き続けてきたのであります。「恵みと平和が、あなたがたにあるように」このような祈りで始まった手紙は、「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」という祈りで閉じられるのです。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」この祈りは、すでに主イエス・キリストの恵みに生かされている者たちへ祈りの言葉であります。私たちは今年も、主の恵みにより、共に主を礼拝し、御言葉に導かれて歩んできました。その主の恵みが、来年も、いや、いつまでも私たちと共にありますように。そのように祈り求めたいと願います。

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