主の日は来る 2008年11月30日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。
5:2 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
5:3 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。
5:4 しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。
5:5 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。
5:6 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
5:7 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。
5:8 しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。
5:9 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。
5:10 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
5:11 ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。テサロニケの信徒への手紙一 5章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 テサロニケの信徒たちは、既に眠りについた人たちが、天から来られる主イエスをお迎えする喜びと祝福にあずかることができないのではないかと不安を抱いておりました。それに対してパウロは、主イエス・キリストが天から来られるとき、キリストに結ばれて死んだ人たちが最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために雲に包まれて引き上げられるのだと語ったのであります。イエスを信じて眠りについた者たちは、復活させられ、生き残っている者たちと一緒に、栄光の主イエスをお迎えすることができるのです。

 今朝の御言葉でパウロは、天から主イエスが来てくださる「主の日」について語っております。第5章1節から3節までをお読みいたします。

 兄弟たち、その時と時期についてはあなたがたに書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。

 「主の日」とは、旧約聖書からの言葉で、主なる神さまが歴史に介入される裁きの日のことであります。イスラエルの民にとって、主の日とは、主なる神が異邦の民を滅ぼし、自分たちを救ってくださる希望の日でありました(イザヤ13:6-10)。けれども、後の預言者たちは、神の掟に背くイスラエルにとっても、主の日は破滅の日であると警告したのです(アモス5:18-20)。また、ダニエル書によれば、主の日は、天の雲に乗ってやって来る人の子によってもたらされると預言されておりました(ダニエル7:13、14)。そして、イエスさまは、最高法院の裁判において、御自分こそ、その人の子であると宣言されたのです。大祭司の「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」との問いに対して、イエスさまはこうお答えになりました。「それはあなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見る。」(マタイ26:64)

 また、使徒言行録第10章に記されているコルネリウスの家でのペトロの説教によりますと、復活されたイエスさまは、御自身が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、弟子たちにお命じになりました。よって、キリスト教会において、主の日とは、主イエス・キリストが、全世界、全歴史を裁くお方としてこの地上に来られる日のことなのです。そのとき、主イエスを信じる者は、罪の支配から完全に解き放たれ、栄光ある者へと変えられ、いつまでも主と共にいるという完全な祝福に永遠にあずかる者とされるのです。

 第5章1節の御言葉から推測しますと、テサロニケの信徒たちから「主の日はいつ来るのか」という質問が出されていたようであります。けれどもパウロは、「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。」と述べるのです。これは、使徒言行録の第1章に記されているイエスさまのお答えと同じでありますね。イエスさまが天へと上げられる前、使徒たちはこう尋ねました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」それに対してイエスさまこうお答えになったのです。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」(使徒1:7)

 パウロは、この主イエスの御言葉をなぞるように、このところを記しているのです。それは、知っていて教えないということではなくて、パウロ自身にも知らされていないということであります。パウロは、第4章15節で「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。」と述べておりましたが、今朝の御言葉も、主の言葉に基づいたものであるのです。イエスさまは、マタイによる福音書第24章で主の日について次のように教えられました。マタイによる福音書第24章36節から44節までをお読みいたします。

 その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。

 イエスさまは、主の日の到来を、夜やって来る泥棒にたとえて教えられました。それは、思いがけないときに、突然やって来るということであります。パウロは、この主イエスの教えをすでにテサロニケの信徒たちに伝えておいたのです。よってパウロは、「主の日はいつ来るのか」と知りたがるテサロニケの信徒たちに、「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているはずだ。」と記すのです。

 テサロニケの信徒への手紙一に戻ります。

 3節に「人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。」という言葉は、主イエスがノアの洪水になぞらえて教えられたことでもあります。先程、お読みしたマタイによる福音書の第24章に、「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人も残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」と記されておりました。そのように、主の日は、何の前触れもなく、突然、破滅をもたらすのです。また、この破滅からは、ちょうど妊婦が産みの苦しみを免れることができないように、誰も逃れることはできないのです。主の日は、天地を造られた神、イエス・キリストの父なる神を認めない者にとって、突然の破滅をもたらす恐ろしい日なのです。旧約聖書の最後の書物、マラキ書は、主の日の到来の預言をもって終わっておりますけども、そこにはこう記されています。

 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

 主の日の到来により、このマラキ書の預言は、主イエス・キリストを信じない者たちのうえに実現するのです。けれども、主イエス・キリストに結ばれている者たちについては、続く預言が実現するのであります。

 しかし、わが名を畏れ敬うあなたがたには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。

 この地上の生活において、主イエスを信じる者の救いは、必ずしも明白であるとは言えません。主イエスを信じない者の方が、この世の富を持ち、健康に恵まれるということは、いくらでもあるのです。けれども、主の日の到来によって、その違いは明かとなります。主イエスを信じない者にとって、主の日は突然襲う破滅の日でありますけども、主イエスを信じる者にとって、主の日は義の太陽である主イエスをお迎えする喜びの日となるのです。

 テサロニケの信徒への手紙一に戻ります。

 パウロは、主の日が、人々を突然襲う、破滅の日であり、誰もそれから逃れることはできないと語りました。けれども、パウロは、キリストに結ばれた者たちについては、4節から5節でこう述べています。

 しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。

 パウロは、「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」と申しましたけども、その「夜」のイメージは、「暗闇」へと受け継がれています。主に結ばれている兄弟姉妹は、暗闇の中にいないので、主の日が盗人のように突然襲うことはないと言うのです。なぜなら、テサロニケの信徒たちは、光の子、昼の子であるからです。この「何々の子」とは、ヘブライ的なものの言い方で、その性質、所属を表しています。続く「わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。」という言葉から考えるならば、「光の子」とは「光に属する者」のことであり、「昼の子」とは、「昼に属する者」のことであると言えるのです。イエスさまは、ヨハネによる福音書第8章12節で「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と仰せになりました。私たちは、世の光であるイエス・キリストと結ばれているがゆえに、暗闇の中におらず、光の子とされているのです。また、ここで「昼の子」という言葉がありますけども、これは「日の子」「主の日の子」とも訳すことができます。4節に「主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」とありましたが、この「主の日」の「日」が、5節では「昼」と訳されているのです。わたしが持っている何冊かの英訳聖書は、どれも「その日の子」(sons of the day)と訳してありました(NKJVなど)。ですから、ここで「昼の子」と訳されている言葉は、「主の日の子」とも解釈できるのです。私たちはすべて主の日の子である、主の日に属する者であるという、このパウロの言葉はとても印象深いものでありますね。私たちが主の日に属する者であると聞いて、まず思い浮かべるのは、私たちが礼拝をささげている週の初めの日が、主の日と呼ばれていることです。週の初めの日にイエスさまが復活し、弟子たちに現れてくださったがゆえに、教会は週の初めの日を主の日と呼び、礼拝をささげるようになったのです(使徒20:7、黙1:10)。私たちは、週の初めの日を主の日として過ごしているわけですね。私たちの一週間の歩みは主の日から始まる。そのことは、私たちの一週間が主の日の光に照らされているということであります。週の初めの日は、一週間のいわば初穂でありまして、その初穂を主におささげることにより、一週間すべてを主におささげすることを表しているとも言えるのです。そう考えますと、私たちが主の日の子であるという言葉の意味が分かってくるのではないでしょうか。私たちは主の日ごとに、イエスさまの御復活を覚えて、共に集い、礼拝をささげているのでありますが、それは主イエスがやがて来られることを覚える日でもあるのです。特に今朝は、アドベントの第一主日でありますから、なおさら主イエスが来られることを覚させられるのです。礼拝をささげる週のはじめの日が「主の日」と呼ばれ、また天からイエスさまが来られる日も「主の日」と呼ばれるのは、偶然ではありません。キリストの復活を覚えて主の日の礼拝に集い続けることが、天からキリストが来られる主の日に属する者であることのしるしであると言えるのです。

 6節以下には、他の人々と比較して、光の子、主の日の子である私たちの歩みが記されています。

 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、私たちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。

 「他の人々」とは、夜や暗闇に属する、イエスを信じない者たちのことです。ここで「眠っていないで、目を覚まし」とありますが、これは文字通り睡眠を取らないということではなくて、信仰的な眠りに陥らないで、目を覚ましているということです。主イエスが来てくださるということをいつも覚えて歩むということであります。主イエスがいつ来られてもいいように、その備えをして歩むこと、それが「目を覚ましている」ということなのです。天から来られるお方が、破滅をもたらす盗人ではなく、私たちの救いを完成してくださる主人であることを知っているがゆえに、いつも目を覚まして待ち続けるのです。また、ここで「慎んでいましょう」と訳されている言葉は、元の言葉を直訳すると「酒に酔っていない。しらふである」となります。酒に酔いつぶれてしまわない。節度をもって自己を管理することが求められているのです。この世のことしか考えない者たちが、眠りこけ、酒に酔いしれているのに対して、主の日に属する私たちは、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜してかぶり、身を慎んでいましょう、とパウロは語るのです。この「胸当て」とか「兜」という武具のたとえは、イザヤ書第59章17節を下敷きとして記したものと考えられています。

 主は恵みの御業を鎧としてまとい/救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい/熱情を上着として身を包まれた。

 イザヤは、主が武具を身に着け、イスラエルの敵に報復する姿を預言しましたけども、パウロは、その姿を主の日を待ち望むキリスト者に当てはめるのです。パウロは、第1章3節で、すべてのキリスト者に与えられている3つの賜物、信仰、愛、希望について述べておりましたが、それをイザヤ書の言葉の中に組み込んでいます。つまり、「恵みの御業」の代わりに「信仰と愛」を胸当てとし、「救い」の後に「の希望」と書き加え、「救いの希望の兜」としたのです。この武具を身に着けるモチーフは、エフェソの信徒への手紙第6章で、より豊かに展開されております。主の日に属する私たちは、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで主イエスが来られるのを待ち続けるのです。これから信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶるのではありません。新共同訳聖書をみますと、そのように読めますけども、元の言葉は、過去分詞で記されているのです。つまり、洗礼を受け、キリストに結ばれている私たちは、今すでに信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶっているのです。私たちは、このような武具に身を包み、誘惑する者と戦い、やがて来られる主イエスを目を覚まして待ち続けるのです。なぜなら、神は、私たちを主イエス・キリストにおいて救いへと定めてくださってからです。

 パウロは9節から10節にこう述べています。

 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

 神さまは、私たちを罪に対する怒りを受ける者ではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いにあずかる者と定めてくださいました。神の御前に罪人である私たちは、本来神の怒りを受けなければならない者たちでありましたけども、イエス・キリストが私たちの主として、十字架の上でその怒りを受けてくださったがゆえに、私たちは主イエス・キリストを通して救いにあずかる者とされたのです。神は、天地創造の前から、私たちを主イエス・キリストにおいて救いへと選んでくださったのであります。そのことを、私たちは主イエスの聖霊をいただくことによって知ったのです。聖霊の導きによって、イエス・キリストがこのわたしを救うために、十字架の上で死んでくださったことを知ったのであります。全世界、全歴史を裁かれる主イエス・キリストは、私たちのために命を捨ててくださったお方である。それゆえに、私たちは主イエスが来られることを目を覚まして待ち続けることができるのです。聖霊によって与えられた信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶりながら、目を覚まして主イエスを待ち続けることができるのです。

 10節に、「目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」とありますが、これは、前回学んだように「生きていても死んでいても」という意味でありましょう。主イエスが御自分の死によって勝ち得てくださった救いは、死を乗り越えて続く永遠の命なのです。ここに、ハイデルベルク信仰問答書がその第1問で告白している私たちの唯一の慰めがあります。ハイデルベルク信仰問答書問1は、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」と問い、こう告白しています。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」

 私たちは、生きるにしても死ぬにしても、主イエスと共に生きる者とされている。そのことを知るとき、私たちは、死を前にしても、目を覚まして、身を慎むことができるのです。死の力も、私たちから、信仰と愛の胸当てを、救いの希望という兜を取り去ることはできないのです。主イエスは、私たちと共に生きるために死んでくださいました。それほどまでに、私たちと共に生きることを望んでくださっているのです。そして今朝も、イエスさまは、私たちを主の日の礼拝へと招いてくださったのです。それは、私たちが目を覚まし、身を慎んで、天から来られる主イエスを待ち望むためであるのです。

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