落ち着いた生活 2008年11月16日(日曜 朝の礼拝)

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4:9 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。
4:10 現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。
4:11 そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。
4:12 そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。テサロニケの信徒への手紙一 4章9節~12節

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 前回も申し上げましたが、第4章と第5章は、テモテがもたらしたテサロニケ教会についての報告を受けて、パウロが記したものであります。パウロは、第3章10節で、「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と述べておりましたが、第4章と第5章はその信仰の欠けを補うために記したものであると読むことができます。パウロが、第4章で記していること、それは小見出しにもありますように、「神に喜ばれる生活」についてであります。主イエスに結ばれた者として、どのようにこの地上を歩むべきか。その基本的な姿勢が、「神に喜ばれるために歩む」ということでありました。神さまに喜ばれるように歩むこと、それが私たちキリスト者の基本的な生きる姿勢なのです。そして、神さまに喜ばれるためには、神さまの御意志に従って歩むことが求められるのです。前回は、その神さまの御意志として「聖なる者となること」について学びました。今朝の御言葉では「兄弟愛」ということが言われております。9節と10節をお読みします。

 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。

 「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません」。こう述べながらも、兄弟愛について記すパウロの筆遣いは、印象深いものがあります。ここでパウロが「書く必要はありません」と言いつつも、兄弟愛について触れなければならなかったのは、何よりそれが神さまの御意志であったからです。3節に「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」とありましたけども、この言い方になぞらえて言えば、「実に、神の御心は、主にある兄弟姉妹が互いに愛する者となること」にあるのです。

 わたしは今、「主にある兄弟姉妹」と申しましたが、パウロが兄弟愛について語るとき、それは血の繋がった肉親の兄弟ではなくて、主イエスに結ばれた霊的な、信仰の兄弟について述べています。ここで「兄弟愛」と訳されている元の言葉は「フィラデルフィア」という言葉です。この「フィラデルフィア」という言葉は、もともとは血の繋がった肉親の兄弟愛を意味する言葉でした。けれどもパウロは、それを主イエスに結ばれた霊的な、信仰の兄弟愛として用いているのです。それは、主イエスに結ばれた者たちは、血のつながった肉親の兄弟たちと同じように互いに愛する者とされているということであります。パウロは、兄弟愛について書く必要がない理由として「あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。」と語っています。この言葉は、その直前の8節の御言葉との繋がりから理解すべきであると思います。8節に「御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神」とありますが、ここでの「与えてくださる」は、元の言葉を見ますと現在分詞で記されています。神さまは、御自分の聖霊を日々新しく与えてくださるお方なのです。その神さまが、テサロニケの信徒たちに互いに愛し合うように、教えてくださっていると言うのです。「神から教えられる」とは一体どういうことでしょうか。神さまの声が直接天から響いてきたということでしょうか。そうではないと思いますね。パウロは、第2章13節でこう述べておりました。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。このように、テサロニケの信徒たちは、パウロたちの教えを神の言葉として受け入れ、その神の言葉に生きる者とされていたのです。ですからパウロが、「あなたがたは神から教えられている」と語るとき、パウロたちの語る神の言葉を、神の言葉として受け入れさせてくださる聖霊のお働きについて述べているのです。神さまが御自分の霊、聖霊を与えてくださることについては、エゼキエル書の第36章にこう預言されていました。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」。私たちに与えられている聖霊こそ、私たちを内面から造りかえ、神の掟に従って歩ませてくださるお方なのです。主イエスは、ヨハネによる福音書第13章で弟子たちにこう仰せになりました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。聖霊は、この主イエスの新しい掟に従って歩む者と、私たちをしてくださるのです。そしてそれは何より、主イエスにおいて表された神さまへの愛を深く悟ることから始まるのです。パウロが、「あなた方自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです」と語るとき、そこで前提とされていることは、テサロニケの信徒たちが、自分たちは神さまとイエスさまから愛されていることを知っているということです。私たちは自分たちが神さまから愛されていることを知るとき、互いに愛し合う者とされるのです。ここでパウロが述べていることは、ヨハネがその第一の手紙で語っていることと同じことであります。ヨハネの手紙一第4章7節から13節までをお読みします。

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。神は愛から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償うにけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。

 9節の後半に「ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」とありますけども、イエス・キリストにおいて表された神の愛を、私たち一人一人のうちに示してくださるお方こそ、神の霊、聖霊であるのです。それゆえ、ヨハネも、13節で、神さまが御自分の霊、聖霊をわたしたちに分け与えてくださったと述べているわけです。

 テサロニケの信徒への手紙一に戻ります。

 また、パウロが、「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません」と語ることができたのは、10節にありますように、現に彼らが、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、兄弟愛を実践していたからです。パウロが「それを実行しています」と語るとき、具体的にはどのようなことを指しているのかは分かりません。ある人は、テサロニケはマケドニア州の首都であり、陸海ともに交通の要所であったから、主にある兄弟が旅をしたとき暖かく迎え入れたことを言っているのではないかと申しております。また、ある人は、テサロニケの信徒たちが、マケドニア州にある諸教会のために祈り、経済的な支援をしていたのではないかと推測しております。わたしは、この両方とも十分にあり得ることであると思います。ヘブライ人の手紙は、第13章1節で「兄弟としていつも愛し合いなさい」と語っておりますが、それに続けて「旅人をもてなすことを忘れてはいけません」と記しています。これは、兄弟愛の代表的な行為が、旅人をもてなすことであったことを教えています。また経済的な支援につきましても、コリントの信徒への手紙二の第8章を見ると、マケドニア州の諸教会が自発的に施しをしていたことが分かります。コリントの信徒への手紙二第8章1節から4節までをお読みいたします。

 兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助ける慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに私たちに願い出たのでした。

 ここでの「聖徒なる者たち」とは、文脈から言えばエルサレムの信徒たちのことでありますが、このようなマケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みを、今朝の御言葉のテサロニケ教会の愛の業にも見ることはゆるされると思います。テサロニケの信徒たちが神から教えられた兄弟愛は、単なる甘い言葉を並べるだけではなく、施しという慈善の業によって表されていたのです。それも彼らは、乏しい中から、喜びに溢れて、自ら進んでささげたのでありました。

 テサロニケの信徒への手紙一に戻ります。

 このように、テサロニケの信徒たちは、自分たちの教会を越えて、マケドニア州全土の兄弟に兄弟愛を実践しておりました。けれどもパウロは、それで十分だとは語りませんでした。第3章12節で「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と祈ったパウロは、テサロニケの信徒たちが兄弟愛になおいっそう励むようにと勧めるのです。それだけではなくて、彼らが、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを、なおいっそう励むよう勧めているのです。11節の「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」という御言葉は、兄弟愛と何だか別のことが言われているようでありますけども、そうではないのです。原文をみますと、10節の「なお、いっそう励むように勧めます」という言葉は、11節の「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」にも掛かっているのです。ここでパウロは、兄弟愛と並んで自分の手で働くことをいっそう励むように勧めているのです。なぜパウロは、兄弟愛と並んで「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」という命令を思い起こさせねばならなかったのか。先程、わたしはテサロニケの信徒たちの兄弟愛が、施しによって表されていたと申しましたけども、どうやらそのことと関係があるようです。テサロニケの信徒たちは、兄弟愛から施しをしていました。けれども、そこで問題となっていたのは、それに甘んじて働こうとしない者たちが出てきたということです。12節に「そうすれば外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」とありますが、兄弟愛につけ込んで、他人に依存して生活する者が出てきたのです。誤解のないように申しますが、ここでパウロは、働きたくても、働けない人のことを言っているのではありません。病や障害のために、働きたくても働けない人のことを言っているのではないのです。パウロがここで念頭に置いているのは、働けるのに働こうとしない人のことです。

 これは、的確なたとえとは言えないのですが、ときどき、教会に物乞いの方が尋ねてきます。どのように対応するかは、その人、その人によって異なるのでありますけども、可能であれば、わたしと一緒に草むしりなどをしていただいて、その報酬としていくらかでもお渡しすることにしております。わたしがそのように提案すると、ほとんどの方は、そのようにしてくださいます。けれども中には、ただお金だけを欲しがり、挙げ句の果てに、罵りながら去って行かれる人もいるのです。そういう方には、ただお金を渡した方が良かったかなぁと反省することもありますけども、もうこのような人はもらうことに馴れてしまっているのだと思いますね。働けるのに働こうとしない。動かすことのできる手が与えられているのに、その手を動かそうとしない。そのような者たちを、パウロはここで念頭においているのです(箴言26:13-16参照)。

 なぜ、テサロニケの教会のある者たちは、仕事に打ち込むことを止めてしまったのか。怠け心のためであったと言えばそれまでですが、他に考えられる要因として、すぐにでも主イエスが来られるという差し迫った再臨信仰がありました。13節に「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」とありますように、テサロニケの信徒たちは、自分たちが生きている間に、天から栄光の主イエスが来てくださると信じていたのです。イエスさまが来られる前に、眠りについてしまった人はどうなるのだろうか。そのようなことを心配するほどに、主イエスはすぐに来てくださると彼らは信じていたのです。そのような差し迫った再臨信仰によって、ある者たちは、浮き足立ち、自分の仕事を投げ出して、兄弟の施しを頼りに生活するようになっていたのです。けれどもパウロは、そのような者たちに「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くのように努めなさい」と語るのです。

 ここで「努めなさい」と訳されている言葉は、直訳すると「名誉として追い求めなさい」となります。私たちキリスト者が追い求めるべき名誉、それは「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くこと」なのです。この「落ち着いた生活」について、仙台教会の吉田先生が昨年行われた中部中会の信徒研修会の中で、次のように解説しています。

 「落ち着いた」というのは、「静かな」とも訳せる言葉なのですが、これはひと言で言って、キリストの平和に満たされた深い生活のことだと言えましょう。何も問題がない状態のことではありません。嵐のような日々のただ中にあって、なお一歩退き、神が生きて働いておられることを信じて天を仰ぐ生活のことです。それは深い確信と希望に基づく生活です。この世の荒波を耐え抜く力にみなぎった生活です。そして何より、キリストの福音の喜びに根ざした生活のことであります。 

 私たちが、落ち着いた生活、静かな生活と聞きますと、平穏無事な、何事も起こらない生活を連想しがちであります。けれども、吉田先生によりますと、落ち着いた生活、静かな生活とは、嵐のような日々のただ中にあって、なお一歩退き、神が生きて働いておられることを信じて天を仰ぐ生活のことであると言うのです。それは何より、キリストの福音の喜びに根ざした生活であると言うのです。そのようなキリストの福音の喜びに根ざして、自分の仕事に励み、自分の手で働くとき、その労働はもはや自分の生活を支えるため、困っている兄弟たちに施しをするために留まらず、神の栄光を現すためのものとなるのです。ここで、思い起こしたいのは、創世記第1章28節に記されている「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」という神の祝福の御言葉であります。私たちは前回、聖なる生活とは、汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活を共にすることであると学びました。その時にも、わたしは創世記第1章28節に言及しました。このことは決して偶然ではないと思います。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてのを支配せよ」。ここで神さまは祝福として大きく2つのことを命じています。それは家庭形成と労働の2つです。前回学んだ「汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活すること」は、1つ目の家庭形成の命令にあたると読むことができます。そして今朝の「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めること」は、2つ目の労働の命令にあたると読むことができるのです。つまり、神さまに喜ばれる生活とは、神さまが人間を創造されたときにお与えになった祝福に生きることであるのです。神さまの御心に従って家庭を形成し、神さまの御心に従って自分の手で働くこと。それが、聖書が初めから教えるところの神さまに喜ばれる歩みであるのです。

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