神に喜ばれる歩み 2008年11月09日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。
4:2 わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。
4:3 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、
4:4 おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、
4:5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。
4:6 このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。
4:7 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。
4:8 ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。テサロニケの信徒への手紙一 4章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 前回学んだパウロの祈りの最後に、「聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」という言葉が記されていました。これは、もとの言葉を直訳すると「聖において非のうちどころのない者としてくださるように」となります。パウロは、聖において非のうちどころのない者となるように、主がテサロニケの信徒たちを互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださるように夜も昼も切に祈っていたのです。

 さて、今日の御言葉にも、聖、清さということが語られております。3節前半の御言葉であります。

 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。

 完全に聖なるお方、それは聖書においてただ神さまお一人であります。聖とは、神さまに固有な属性であると言えるのです。神さまだけが聖なるお方であるのです。それゆえ、イエス・キリストにおいてその神の民とされた私たちは、聖なる者となることが求められるのです。ただし、ここで誤解してはならないことは、主イエスに結ばれている私たちは、すでに神の御前に聖なる者とされているということであります。8節にありますように、「イエスは主である」と告白する私たちには、聖霊が与えられているのです。そしてもちろん、テサロニケの信徒たちにも、聖霊は与えられており、彼らは聖なる者とされていたのです。その聖なる者とされているテサロニケの信徒たちに、パウロは、「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」と語っているのです。「聖なる者とされているのだから、聖なる者としてふさわしく歩みなさい」ということであります。

 旧約聖書を読みますと、主なる神は、奴隷の家エジプトから解放したイスラエルの民に、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」と何度も語っております(レビ11:44,45、19:2、20:26参照)。聖なる神によってエジプトの奴隷状態から贖い出されたイスラエルの民は、聖なる民としてふさわしく歩むようにと、シナイ山において掟を与えられたのです。旧約のイスラエルの民は、聖なる者となるための道として掟に従って歩むことを求められたのです。けれども、先程も申しましたように、私たちは、イエス・キリストにあってすでに聖なる者とされております。コリントの信徒への手紙一第1章30節に、「神によってあながたがはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」とありますように、キリストにあって私たちは聖なる者とされているのです。

 また、ヘブライ人への手紙第10章10節にはこう記されています。

 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

 さらに、イエスさま御自身もヨハネによる福音書第17章17節以下でこう祈っておられます。

 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

 このように、イエスさまは、御自身をささげることによって、私たちを聖なる者としてくださったのです。

 その聖なる者とされた私たちが、実際の地上の生活においても、聖なる者となること、それが神さまの御心であるとパウロは語るのです。

 今朝は、突然3節を取り上げたのですが、そもそもこの3節は、どのような文脈で語られたのでしょうか。1節と2節をお読みします。

 さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。私たちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。

 前回も申しましたが、第4章と第5章は、パウロがテサロニケの教会についてのテモテの報告を受けて書き記したものと考えられています。テサロニケの教会を取り巻いている様々な誘惑を念頭に置きながら、パウロはこのところを記しているのです。それは端的に言えば、主イエスに結ばれた者としてどのように歩めばよいかということでありました。いわば、ここにキリスト者の基本的な生きていく姿勢が教えられているのです。あるいは、キリスト者の倫理が教えられていると言ってもよいかも知れません。主イエスによって救っていただいた私たちはどのように歩むべきなのか。パウロは、その原則を「神さまに喜ばれるために歩むべきである」と語っています。神さまに喜んでいただける生活を送る。それが私たちキリスト者の生きる道なのです。「イエスさまによって救われたあなたたちは、神さまに、イエスさまに喜ばれる生活を送りなさい。」とパウロは語るのです。しかし、そう言われても、一体どうすれば神さまに喜んでいただけるのでしょうか。その疑問への答えとして、パウロは、3節の言葉を語るのです。「実に、神の御心は、あなたがた聖なる者となることです。」ここで「神の御心」と訳されている言葉は、直訳すると「神の意志」となります。御心と言うと、どこか捉えどころのないもののように思えますが、わたしたちが聖なる者となること、それは神の御意志なのです。つまり、神さまに喜ばれる歩みとは、神さまの御意志に従う歩みであると言えるのです。そして、その神さまの御意志は、私たちが聖なるものとなることなのです。

 パウロは続けて、聖なる者となるとは具体的にどのようなことかを記しています。3節の途中から5節までをお読みします。

 すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。

 聖なる者となること、それは男と女の性の営みにおいて端的に表れてきます。これは、旧約からの伝統でもあります。十戒の第七戒は、「姦淫してはならない」でありました。また、イスラエルにおいて不正な男女の交わりは大きな罪と見なされていたのです。ただし、誤解のないように申しますが、このパウロの言葉は、テサロニケの信徒たちが、みだらな行いにふけっていたとか、情欲におぼれていたことを意味してはおりません。1節にありますように、テサロニケの信徒たちは、現に神に喜ばれる歩みをし続けていたわけです。それでも、パウロがこのような警告を記さずにはおれなかったのは、当時のギリシア世界が、男女の性についてきわめてゆるやかな、開放的な社会であったからです。性欲は、人間の自然な欲求であり、それを縛り付けるのはかえって不自然であると考えられていたのです。また、「神を知らない異邦人」とありますが、異教の祭儀は、しばしばみだらな行いが伴うものでありました。異教の神殿には、神殿娼婦、神殿男娼というものがおりまして、性的な営みが宗教行為の中に含まれていたわけです。そのような社会に生きるテサロニケの信徒たちに、パウロは、みだらな行いを避けなさいと語っているのです。けれども、ここで注意したいことは、パウロは、男女の交わりそのものを否定しているのではないということです。男女の交わりそのものを不潔だとか、汚らわしいと言っているのではないのです。そのことは、4節の「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず」という言葉からも明かであります。聖書は、男女の性の営みを神さまの祝福であると教えています。そしてそれは何より、夫婦の交わりであるのです。主によって結ばれた夫と妻の間においてこそ、性の営みは祝福されるのです。この手紙が執筆されたのは紀元50年頃でありまして、当時は男性中心の、家父長制社会でありました。そのような社会にあって、女性は、必ずしも人格的存在として重んじられいたわけではありません。妻を性欲のはけ口や子どもを生む手段としか考えない夫も多くいたのではないかと思います。けれども、そのような社会において、パウロは、「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならない」と語るのです。ここでは、「妻」と言われていますが、ご婦人の方は、ここを「夫」と入れ替えて読んでもよいと思います。パウロが教えます、聖なる者としての歩みとは、みだらな行いを避ける生活であります。けれども、それは性の営みを汚れとして退ける禁欲的な生活ではなくて、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって配偶者と共に歩む生活なのです。そして、ここにイエス・キリストにあってまことの神を知っている私たちの清さが端的に表されるのです。しかしそもそも、なぜ、キリスト者は、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活をするように学ばねばならないのか。その理由は、聖書が教える人間論にあると思います。聖書は、神が人を御自身のかたちに似せて造られたと教えています。創世記の第1章27節にこう記されています。

 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

 男だけが神のかたちに似せて創造されたのではありません。男も女も神のかたちに似せて創造されたのです。そして神さまは、その男と女を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」と言われたのです。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」との出産の祝福は、何より夫婦関係にある男女に与えられた祝福なのです。

 また、第2章18節をみますと、主なる神はこう仰せになっています。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。ここでの「助ける者」とは、互いに欠けを補い合う、いわばパートナーのことであります。どちらが上で、どちらが下という従属関係ではなくて、対等の関係なのです。さらに、24節に「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とありますように、結婚は、聖書によれば、人間が考え出した制度ではなく、神さまによって定められた制度であるのです。このような聖書の教える人間観、結婚観こそ、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって伴侶と生活を送るための土台と言えるのです。

 テサロニケの信徒への手紙一に戻ります。

 パウロが、「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活をするように学ばねばならない」と語るとき、聖書の教える人間観、結婚観に加えて、その妻が、主イエスに結ばれて聖なる者とされていたということがあったと思います。といいますのも、ここで「汚れのない心」と訳されている言葉は、直訳すると「聖」、「清さ」となるからです。自分と同じように、配偶者も主イエスに結ばれて聖なる者とされている。このことを弁えるとき、清さと尊敬の念をもって配偶者と生活を共にすることができるのです。たとえ、今、自分だけが主イエスに結ばれており、配偶者はそうでなくても、聖書は、信者によって、未信者の配偶者は聖なるものとされており、子どもも聖なるものとされていると教えています。コリントの信徒への手紙一第7章14節にこう記されています。「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子どもたちは汚れていることになりますが、実際は聖なる者です」。

 信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされている。それゆえ、自分の配偶者が未信者であっても、今朝のパウロの言葉はそのまま当てはまるのです。配偶者がたとえ未信者であっても、私たちは清さと尊敬の念をもって生活を共にすることを学ばねばならないのです。

 そのことを学び損ね、神を知らない異邦人のように情欲におぼれるとき、一体何が起こるのか。パウロは、6節にこう記しています。

 このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。

 ここで「踏みつける」と訳されている言葉は、「限度を越えて歩む」という意味です。また、「欺く」と訳されている言葉は、「むさぼり取る」という意味であります。このことからも分かるように、ここでは、情欲におぼれて兄弟の配偶者と性的な関係を持つ、いわゆる不倫のことが言われているのです。「兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません」。このパウロの言葉についてある人は、情欲におぼれることによって、主にある交わりが破壊されることをパウロはここで厳しく戒めていると申しております。私たちの情欲が、兄弟の夫婦関係を破壊し、主にある交わりをも破壊することがないように、パウロは、主がこれらすべてのことについて罰をお与えになると警告するのです。ここでの主は、主なる神ともとれますが、おそらく主イエスのことでありましょう。そうすると、このパウロの言葉は、まことに驚くべき言葉であると思います。なぜなら、第1章10節によれば、主イエスこそ、来るべき怒りから私たちを救ってくさるお方であったからです。けれども、ここでは、その主イエスが、罰をお与えになるとパウロは語るのです。主イエスは、兄弟を踏みつけたり、欺いたりする者に罰を与えることにより、御自分の正義を回復されるのです。イエスさまが御自分をささげることによって、聖なる者とされたにも関わらず、情欲におぼれ、兄弟を踏みつけ、欺く者には、主の厳しい裁きが待っているのです。そのようなことにならないために、私たちは自分たちがどのような者として召されたのかを今朝はっきりと知らなくてはなりません。7節でパウロはこう記しています。

 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。

 「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」。ここに、神の独り子が人となられた目的、また主イエスが十字架に上げられた目的があるのです。なぜ、神の御子が、人としてこの地上にお生まれになられたのか。なぜ、主イエスは、十字架で御自身をお献げなったのか。それは、私たちを神の民とし、神の民としてふさわしい生活をさせるためです。私たちは汚れた生活ではなく、聖なる生活を送るために神さまから招かれたのです。聖なる生活を送るようにと、私たちはこの礼拝へと招かれたのです。当時のギリシア世界と同じように、現在の日本も性についてゆるやかな、開放的な社会であります。みだらな行いの誘惑があちらこちらにある社会であります。そのような社会に生きておりまして、私たちもしばしばみだらな思いにとらわれやすいのです。私たちは主イエスにあって神の御前に聖なる者とされておりますけども、それはまだ途上でありまして、完全に聖なる者とされているわけではないのです。私たちが完全に聖とされるのは、私たちが天に召されるときか、主イエスが天から来られるときであります。私たちの内にはまだ罪が残っているわけです。それゆえ、私たちの内にもあらゆる欲望が渦巻くわけですね。しかし、何度も申しますが、神さまが私たちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためなのです。そのために、神さまは、主イエス・キリストを通して御自分の聖霊を私たちに与えてくださっているのです。過去に与えてくださったというのではありません。神さまは今も御自分の霊を与え続けてくださっているのです(「与える」は現在分詞)。パウロはここで、ただ「霊」とは記さずに「聖なる霊」「聖霊」と記しています。それは、私たちの歩みを聖なる生活へと守り、導いてくださるのが、神の霊、聖霊であるということであります。ここで、思い起こすべきは、旧約聖書のエゼキエル書に記されている預言の言葉であります。エゼキエル書の第36章26節から28節にこう記されています。

 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。

 このエゼキエルの預言の言葉が、今、主イエスを信じる私たちの上に実現しているのです。神さまは御自分の聖霊を私たち一人一人に与えてくださることによって、私たちを内面から造りかえ、神さまに喜ばれる歩みを願う者へとしてくださるのです。みだらな行いを避け、おのおの清さと尊敬の念をもって配偶者と生活を共にすること。そこに神さまが喜ばれる私たちの聖なる生活があります。そして、そのような一人一人によって、神さまが共におられる主にある交わりは造られていくのです。

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