パウロの祈り 2008年11月02日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:11 どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。
3:12 どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。
3:13 そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。テサロニケの信徒への手紙一 3章11節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、テサロニケの信徒への手紙一第3章6節から13節までをお読みいたしましたが、今朝は、その中でも11節から13節までを中心にしてお話しいたします。

 11節から13節までの御言葉は、パウロの祈りの言葉であります。直前の10節に、「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたちと、夜も昼も切に祈っています。」とありましたが、そのパウロの祈りがここに記されていると読むことができます。10節で、パウロは、テサロニケの信徒たちと顔を合わせたいと願っています。このことは、第2章17節でも言われていたことでありました。「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしらばく引き離されていたので、-顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが-なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。」このように、第2章17節でも、パウロはテサロニケの信徒たちと顔を合わせて語り合いたいと願っていたのです。けれども、そのように切に願う根拠は、少し違っております。第2章17節で、パウロがテサロニケの信徒たちの顔を見たいと願ったのは、彼らを励まして、信仰を強め、苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。そのためにパウロは、大切な同労者であるテモテを派遣したのです。そして、帰って来たテモテがパウロにもたらしたのは、福音とも呼べるうれしい知らせでありました。テサロニケの信徒たちは、苦難の中にあっても、主にしっかりと結ばれていたのです。そのようなうれしい知らせを聞いたあとに、なおパウロはテサロニケの信徒たちの顔を見たい、そちらへ行きたいと願っているのです。あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、パウロは夜も昼も切に祈っていたのです。ここで「必要なもの」と訳されている言葉は、「足りないもの」(口語訳)「不足」(新改訳)とも訳される言葉であります。つまり、テサロニケの信徒たちの信仰には欠けがあった。パウロは、その信仰の欠けを補うために、テサロニケの信徒たちに会いたいと祈っていたのです。少し細かいことを言うようですが、ここで「補う」と訳されている言葉は、「網を繕う」とも訳される言葉であります。漁師たちが網の破れを繕うように、パウロもテサロニケの信徒たちの信仰の欠けを繕い、整えたいと願っているのです。

 このことから分かりますことは、テモテが持ち帰った知らせの中に、テサロニケの信徒たちが直面していた信仰の問題が含まれていたということです。テサロニケの信徒たちは、主にしっかりと結ばれておりましたけども、そこには様々な誘惑や、信仰の欠けから生じる誤解があったのです。大まかに言ってしまえば、テサロニケの信徒たちが直面している様々な誘惑について、パウロは第4章1節から12節までに記しています。また、信仰の欠けから生じていた誤解については、第4章13節から第5章11節までに記しています。それはひと言で言えば、主イエスが再び来られる前に、死んでしまった人たちはどうなってしまうのかということでありました。このように、テモテは、うれしい知らせと共に、テサロニケの信徒たちが直面している誘惑や彼らの信仰の不足をもパウロに告げたのです。そして、そのことを聞いたパウロは、なおさら、テサロニケの信徒たちに会いたい、そちらへ行きたいと願うようになったのです。ここで「夜も昼も」とありますが、これはパウロが、毎日の決まった祈りの時間に祈っていたということです。思い出したときに祈るというのではなくて、パウロは毎日、定められた祈りのときに、テサロニケの信徒たちのために執り成しの祈りをささげていたのです。

 前を置きが長くなりましたが、11節から13節までの御言葉を御一緒に見ていきたいと思います。

 11節をお読みいたします。

 どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたち主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださるように。

 このパウロの願いは、10節の続きとしては、よく分かる祈りであります。またこのように願うパウロ自身がこれまで何度もテサロニケへ行こうと企てたのでありました。パウロは、第2章18節でこう記しています。「だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。」何度もテサロニケに行くことをサタンによって妨げられたパウロは、ここで「わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエス」とが、その道を開いてくださるようにと祈っています。ここに、神の敵であるサタンは、神さまから独立した対抗勢力ではないということが分かります。サタンも、神さまのみゆるしの中で活動しているに過ぎないのです(ヨブ1,2章、ルカ22:31)。その信仰からパウロは、「わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエス」がサタンの妨げを取り除いてくださり、テサロニケへの道を開いてくださるようにと願うのです。このパウロの願いは、サタンの働きをもその手中に収めておられる唯一の主である神さまへの信仰に基づく願いであります。このような信仰はとても大切でありますね。サタンの働き、それを私たちは現在においても、この世の罪や悲惨の中に見ることができます。病のうちにもサタンの働きと見ることができるかも知れません。そのとき、もしサタンが神さまから独立した勢力であって、神の御支配のもとにないとすれば、私たちは病の床にあって神さまに祈ることができなくなってしまいます。様々な困難にあっても、私たちは神さまにお祈りすることができる。それはすべてのことが神さまの御支配のもとにあるからなのです。そしてパウロは、その神さまが、私たちの父であり、私たちの主イエスであると言うのです。また細かいことを言うようですが、ここで「開いてくださいますように」と訳されているもとの言葉は、三人称単数形で記されています。「わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエス」を受ける動詞にもかかわらず、単数形で記されているのです。ですからある人は、この単数形は、三位一体なる神さまを表すものだと指摘しています。わたしもここに、父である神と主イエスとが一つとなって、一体的に働いてくださるというパウロの信仰が表されていると思います。

 「わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエス」これはいささか回りくどい言い回しであると思います。このような言い回しは、13節にもでて参ります。パウロは、この短い祈りの中で、「わたしたちの父である神」と2度呼びかけ、「わたしたちの主イエス」と2度呼びかけているのです。パウロが、「わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエス」と語るとき、ここでの「わたしたち」は、一体だれのことを指しているのでしょうか。まず考えられることは、この手紙の差出人である「パウロ、シルワノ、テモテ」のことであります。「パウロ、シルワノ、テモテ」を念頭において、「わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエス」とパウロは祈っていると考えることができます。けれども、それだけではなかったと思いますね。むしろ、ここでの「わたしたち」は、この手紙の差出人であるパウロたちと宛先人であるテサロニケの信徒たちを含めた「わたしたち」であると思うのです。そして、テサロニケの信徒たちと共に、「わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエス」と呼び、祈りをささげられることに、パウロの大きな喜びがあったのです。はじめに申しましたように、パウロは、テサロニケの信徒たちが誘惑する者に惑わされ、信仰から脱落してしまうのではないかと心配しておりました。けれども、テモテからテサロニケの信徒たちが主にしっかりと結ばれていることを聞いて、パウロは神の御前で大きな喜びにあふれたのでありました。その喜びとは何かと言えば、それは彼らと一緒に神を「わたしたちの父」と呼び、イエスを「わたしたちの主」と呼ぶことのできる喜びなのです。それは言い換えれば、神さまを「わたしたちの父」として、イエスさまを「わたしたちの主」として共有することのできる喜びなのです。私たちが礼拝で味わう喜びもまさにその喜びでありますね。心を一つにして、神さまを私たちの父と呼び、イエスさまを私たちの主と呼び、祈ることができる。声を合わせて、神さまを私たちの父と呼び、イエスさまを私たちの主と呼び、賛美することができる。ここに私たちの大きな喜びがあるのです。神さまを私たちの父と呼び、イエスさまを私たちの主と呼ぶことができる。このことはまことに大きな恵みであります。その恵みを私たちが共に分かち合うことができる。これは本当に神さまのお働きによるものなのです。 

 12節と13節をお読みいたします。

 どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。

 ここでパウロは、主がテサロニケの信徒たちを愛で豊かに満ちあふれさせてくださいますようにと祈っております。のちにパウロが、コリントの信徒への手紙一の第13章で述べているように、愛はもっとも大きな聖霊の賜物なのです。パウロは、主が聖霊の賜物である愛をテサロニケの信徒たちに豊かに注いで満ちあふれさせてくださるようにと祈っているのです。先月の特別伝道礼拝で、ヨハネの手紙一から「神さまは愛である」とお話しいたしましたが、まさしく愛は神さまから出るものであり、神さまの賜物なのです。そして、この愛という賜物を豊かにいただく道は、神さまの愛をより深く知っていくことと一つのことであるのです。ちょうど、私たち人間が、人から愛されることによって、愛することを学ぶように、私たちはイエス・キリストにおいて表された神の愛を知ることによって、愛することを学ぶのです。カルヴァンが言っておりますように、信仰とは「我々に対する神の愛についての確固とした認識」に他ならないのです(ジュネーブ教会信仰問答 問111)。ですから、主がテサロニケの信徒たちを聖霊の賜物である愛で豊かに満ちあふれさせてくださいますようにとの願いには、彼らが神さまの愛をますます深く知ることができるようにとの信仰の成長への願いが含まれているのです。そして、主イエス・キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものであるかを知ったとき、私たちは、お互いの愛とすべての人への愛とに豊かなものとなることができるのです。私たちキリスト者が目指す豊かさ、それは何より主から賜る愛の豊かさであります。神さまを私たちの父と呼び、イエスさまを私たちの主と呼ぶことのできる兄弟姉妹に限られない、すべての人への愛に私たちは豊かなものとなることができるのです。なぜなら、私たちの主イエス・キリストは、御自分の弟子たちたけではなくて、すべての人に豊かな愛を注がれたお方であるからです。パウロが、「すべての人への愛とで」と記したとき、そこにはテサロニケの信徒たちを苦しめていた同胞も含まれていたと思います。パウロは、主がテサロニケの信徒たちを、自分たちを苦しめる同胞をも愛することができるように、それほどまでに愛に豊かなものとしてくださいと祈っているのです。主イエスが、自分を十字架につけ、嘲る者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と執り成しの祈りをささげられたように、私たちも自分たちを苦しめる者のために祈り、愛することができるようにと願い求めなければならないのです。

 パウロはここで「わたしたちがあなたがたを愛しているように。」と書き加えております。パウロがテサロニケの信徒たちに注いできた愛、それも主からいただいた聖霊の賜物としての愛であったということであります。私たちは、これまでパウロの愛の豊かさを思わされてきたわけでありますが、ここでパウロ自身が、わたしは主イエスからいただいた愛で、あなた方を愛しているのだと告げているのです。そして、このことは、パウロが深く主イエスの愛を知っていたからに他ならないのです。パウロは、ローマの信徒への手紙第5章で、神さまの愛について次のように述べています(5:5b-10)。

 わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

 ここでパウロは、わたしたちは神の御前に罪人であった、神の敵であったと述べています。これはパウロの体験から出てくる、実存的な言葉であると思います。使徒言行録の第9章を読めば分かりますように、パウロはまさしくキリストの敵であったのです。パウロはかつてキリストの教会を迫害し、滅ぼそうとしていたのです。けれども、ダマスコ途上において現れてくださった栄光の主イエスは、パウロを滅ぼすどころか、御自分の名前を運ぶ器として召してくださったのであります。パウロは、イエス・キリストを通して神を知ったとき、まことに大きな愛で、自分が包まれ、育まれていることを知ったのです。キリストの十字架に、神の愛の確かなしるしを見たのです。キリストの十字架が、このわたしのためであったということを知れば知るほど、パウロはまたそのキリストの愛に生きる者とされたのであります。わたしだけではない、キリストの十字架がすべての人への愛のしるしであることを知ったとき、パウロは、すべての人への愛に生きる者とされたのです。そして、このすべての人への愛から、パウロはすべての人に福音を宣べ伝えたのです。そのようにして、神さまを私たちの父と呼び、イエスさまを私たちの主と呼ぶことのできる教会の交わりが生まれたのです。 

 続く13節も、一つの願いのように読むことができますが、ここにはむしろ、愛が豊かに満ちあふれるように願う、その目的が記されています。11節から13節をみると、1節ごとに「何々してくださいますように」とありますから、ここには3つの願いがあるように思えるのですが、もとの言葉を見ますとパウロがここで願っているのは2つのことだけなのです。すなわち、11節の「わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように」との願いと、12節の愛で「豊かにみちあふれさせてくださいますように」との願いの2つです。このことを新共同訳聖書は、「どうか」という言葉に着目すると分かるように翻訳しております。11節と12節には「どうか」という言葉がありますが、13節には「どうか」という言葉がありません。これは、13節が一つの願いではなく、むしろ12節の目的であることを示しているのです。13節には、主がテサロニケの信徒たちの愛を豊かにし満ちあふれさせてくださるようにと願う、その目的が記されているのです。なぜ、パウロは、主がテサロニケの信徒たちを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますようにと願うのか。それは主の愛が豊かに満ちあふれるとき、テサロニケの信徒たちの心が強められ、聖なる非のうちどころのない者となるからです。主の愛が豊かに満ちあふれることによって、心が強められ、聖なる、非のうちどころのない者となることができるのです。この「聖なる、非のうちどころのない者」という言葉は、もとの言葉から言えば、「聖において非のうちどころのない者」「清さにおいて非のうちどころのない者」となります。つまり、ここでパウロが言っていることは、イエス・キリストに結ばれて聖とされた私たちの成長についてであるのです。ウェストミンスター小教理問答の言葉で言えば、聖化の進展についてパウロはここで述べているのです。そして、パウロによれば、主の愛が豊かに満ちあふれる者となることと、清さにおいて非のうちどころのない者となることとは一つのことなのです。

 パウロのこの祈りは、「主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき」という大きな展望を持つ祈りであります。パウロは、テモテからテサロニケの信徒たちが主にしっかりと結ばれて歩んでいると聞いて、もう大丈夫だと祈ることを止めはしませんでした。むしろ、ますます熱心な祈りへと導かれたのです。なぜなら、パウロの関心は、今だけにあるのではなくて、主イエスが天使たちと共に来られるときに、彼らの心が強められ、聖において非のうちどころのない者となることにあったからです。私たちもそうでありますね。今、イエス・キリストを信じているというだけではなくて、私たちは天に召されるまで、あるいは主イエスが来られるときまで、信仰を持ち続けていなければならないのです。それもただ持ち続けているというのではなくて、それを確かなもの、豊かなものへと成長させて行かなければならないのです。私たちは、主の愛で豊かに満ちあふれさせていただき、心が強められ、聖において非のうちどころのない者へと成長していくことを願い求めなくてはならないのです。

 「心が強められる」これは「信仰が強められる」ということであります。自分がキリストのものであることを確かなものとすることができるということであります。私たちが神さまを父と呼び、イエスさまを主と呼べることの確かさは、どこにあるのか。それは私たちがお互いの愛とすべての人への愛とで豊かに満ちあふれていることにあるのです(一ヨハネ4:16、17参照)。また、愛が豊かに増し加わることと、聖において非のうちどころのない者となることの関係を理解するには、ローマの信徒への手紙第13章8節から10節までの御言葉が大きな助けとなります。

 互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです。

 ここに、主の愛に豊かに満ちあふれることによって、聖において非のうちどころのない者となることができる、その理由が記されています。聖書において、聖なる者となるということは何か抽象的なことではありません。聖なる神の掟に従うという具体的なことであります。私たちは主からの愛で、隣人を自分のように愛するとき、その聖なる掟を全うすることができるのです(ガラテヤ5:13、14参照)。

 そして、何より忘れてはならないのは、すべての聖なる者たちと共に来られる私たちの主イエス御自身が、私たちの聖、私たちの清さの源であるということです。聖なる者たちと共に来られるイエス御自身が、私たちを愛して、聖なる者としてくださったお方なのです。私たちを聖なる者としてくださったイエスさまを待ち望むとき、私たちが聖において非のうちどころのないものとなることを願うのは当然なことなのです。ヨハネの手紙一第3章2、3節にこう記されています。

 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

 私たちが自分を清めるにはどうすればよいのか。私たちが聖において非のうちどころのない者となるにはどうすればよいのか。パウロは、お互いの愛とすべての人への愛とで豊かに満ちあふれるように主に願い求めることからその歩みは始まると語るのです。

 どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように。

 ここに、私たちが夜も昼も切に願い求めなければならない祈りがあるのです。

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