働く神の言葉 2008年9月07日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

2:13 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。テサロニケの信徒への手紙一 2章13節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、テサロニケの信徒への手紙一第2章13節を中心にしてお話しをいたします。

 13節をお読みいたします。

 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものなのです。

 ここで、パウロは再び神さまへの感謝の言葉を述べています。パウロが絶えず神さまに感謝している理由、それはパウロたちが告げ知らせた言葉を、テサロニケの信徒たちが人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた、ということにありました。これは、いったいどういうことでしょうか。パウロたちが人間には理解できない天上の言葉を語ったということでしょうか。もちろん、そうではありません。「それを人の言葉としてではなく」とありますように、パウロたちが語った言葉は、「人の言葉」でありました。パウロたちは、当時の人々と同じ、ギリシア語を用いて語ったのです。ですから、ここで問題となっているのは、言語そのものではなくて、その中身、その伝えるところの内容であります。このことは、これまで学んできたユダヤ人たちからのパウロたちへの中傷、非難の言葉を思い起こすなら、よりはっきりすると思います。ユダヤ人たちは、パウロたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものであり、ごまかしであると中傷、非難しておりました。また、パウロたちが、相手にへつらい、口実を設けて金銭をかすめ取っているとも中傷、非難しておりました。そして、これらの中傷、非難は、当時、諸国を巡り歩いて教えを広めていた哲学教師や宗教教師たちに対する非難でもあったのです。ユダヤ人たちは、パウロたちを、そのような教師たちの一団に過ぎないと言っていたのです。それに対して、パウロはテサロニケの信徒たち自身と、神さまを証人として、自分たちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったかを弁明したのでありました。このような弁明の言葉のあとに、パウロは再び神さまに対する感謝の言葉を記しているのです。つまり、テサロニケの信徒たちが、自分たちの宣教を、人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたことを改めて思い起こし神さまに感謝しているのであります。「神の言葉」とありますが、これはこれまでの言い方ですと「神の福音」となります。パウロは4節で、「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。」と述べておりますが、神の言葉とは、神さまからゆだねられた言葉、神さまをその起源とする言葉ということであります。パウロの言葉を聞いたとき、テサロニケの信徒たちは、それを人を起源とする言葉ではなく、神を起源とする言葉として受け入れたのです。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙第2章11節、12節で、「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」と述べておりまけども、テサロニケではそのようなことを語る必要はありませんでした。彼らは、パウロが告げ知らせた福音を人を起源とする福音ではなく、神を起源とする福音として受け入れたからです。このことは、テサロニケの信徒たちが、パウロをキリストの使徒として迎え入れたこととも深く結びついています。パウロは7節で、「わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。」と語っておりました。パウロたちは、この権威を主張せず、幼子のようになったのでありますが、しかし、自分たちがキリストの使徒であることを隠そうとはしませんでした。テサロニケの信徒たちにとって、パウロがキリストの使徒であることは自明のことであったのです。そのことは、この手紙の書き出しの言葉からもうかがい知ることができます。第1章1節に、「パウロ、シルワノ、テモテから」とこの手紙の差出人の名前が記されていますけども、ここには、何の修飾語もつけられておりません。「使徒パウロ」とも、「主の僕パウロ」とも記されておらず、ただ「パウロ」と記されているのです。それは、テサロニケの信徒たちにとって、パウロが使徒であることは言うまでもないことであったからです。他方、自分が使徒であることを怪しまれていたガラテヤの信徒たちに対して、パウロは自分が使徒であることの強い主張をもって、その手紙を書き始めているのです。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」。このように、手紙の差出人の記し方一つをとっても、パウロと教会の関係がどのようなものであったかが分かるのであります。

 パウロの宣教を、人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた。これは、言い換えれば、パウロを諸国を巡り歩く宗教教師として受け入れたのではなく、キリストの使徒として受け入れたということであります。使徒とは、「権威と使命を帯びて使わされた者」という意味であります。ユダヤでは、「ある人からの使者は、その人自身である」と言われていたように、キリストの使徒は、キリストの名代、キリストの代理人であったのです。このことは、ヨハネによる福音書第13章20節のイエスさまのお言葉によく示されています。「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 イエスさまは、わたしの遣わす者、わたしの使徒を受け入れる人は、わたしを受け入れるのだと仰せになりました。テサロニケの信徒たちは、使徒パウロの語る言葉を受け入れたとき、そのパウロを遣わされたキリストの言葉を受け入れたのです。そして彼らは、キリストの言葉を受け入れることによって、神の言葉を受け入れたのです。このように、当時の「遣わされた者」という慣習からも、パウロの言葉は、キリストの言葉、神の言葉であると言うことができるのです。

 使徒言行録の第17章にパウロたちがテサロニケで宣教した様子が描かれています。ここでは、1節から5節までをお読みいたします。

 パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケについた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。

 この使徒言行録の御言葉を背景として、今朝の御言葉である13節を読むとよくお分かりいただけると思います。パウロは、三回の安息日にわたって、ユダヤ人の会堂で、神の言葉を宣べ伝えました。しかし、それを信じたほとんどが、神をあがめる多くのギリシア人であったのです。そして、この神をあがめる多くのギリシア人こそ、この手紙の宛先人であるテサロニケの信徒たちであったのです。神をあがめる多くのギリシア人、これは「神を畏れる人々」とも言われますが、聖書の神に心ひかれながら、割礼を受けてユダヤ人になるまでには至っていない人々のことであります。割礼を受けて、律法の重荷を負うまでには至らないけども、ユダヤ人の会堂に集い、神さまを礼拝していた人々のことです。その神を畏れる異邦人たちが、パウロたちから神の言葉を聞いたとき、人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたのです。神の言葉として受け入れるとは、誰の言葉よりも重い言葉として受け入れるということであります。パウロはテサロニケのユダヤ人会堂において、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証しました。これを、パウロの言葉、人の言葉として聞くならば、聞き流すことができます。それはあなたがそう思うだけで、わたしはそうは思わないと反論することもできるのです。けれども、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」というパウロの言葉を、神の言葉として聞くならば、これはもはや聞き流すことはできません。神さまがそう仰せになるのですから、イエスをメシアとして喜んでお迎えしなければならない、となるわけです。このように、神の言葉として聞くとは、その言葉に従うことも含み持っているのです。聖書において「聞く」とは、「聞き従う」ことを意味しているのです。 

 例えば、ヨハネによる福音書第13章34節に、次のような主イエスの有名な御言葉があります。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」この御言葉を人の言葉として聞くか、神の言葉として聞くかによって、その応答の仕方はまったく異なってきます。単なる偉大な教師の言葉として聞くならば、ここで言われていることは、理想的だが、無理な話だと聞き流すことができます。けれども、これを神の言葉、主イエス・キリストの言葉として聞くならば、この言葉は、日々私たちに与えられる新しい掟として、私たちに従順を迫る言葉となるのです。そればかりか、私たちを造りかえ、主にある交わりを造り上げる言葉となるのです。パウロが、今朝の御言葉の13節後半で言っていることもそのことであります。「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」

 神の言葉とは、生きて働く言葉であると言えます。創世記のはじめに記されているように、神が「光あれ」と言われると、そのとおりになる。神の言葉には無から有を生じさせる創造的な力がある言葉なのです。神の言葉の力について記している代表的な個所は、旧約聖書のイザヤ書第55章であります。ここでは8節から11節までをお読みいたします。

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種を蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

 神さまの言葉、それは空しい言葉ではなくて、神さまの望むことを必ず成し遂げる言葉なのです。私たちが神の言葉を受け入れるとき、神の言葉が私たちを神さまの望まれる者へと造り変えてくださるということが起こるのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というイエスさまの言葉を心の板に刻みつけ歩むときに、その御言葉が、私たちを互いに愛し合う者へと造り変えてくださるのです。私たちを生かしてくださっている神の言葉、その急所は何といっても福音であります。テサロニケの信徒への手紙一第2章には、「神の福音」という言葉が三度も出てくるのですが(2節、8節、9節)、その内容についての説明はありません。パウロが福音について明確に記しているのは、コリントの信徒への手紙一第15章であります。ここでは、1節から5節までをお読みいたします。

 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

 この神の福音をいつも念頭において、私たちは神の言葉、聖書の言葉を読み、心に蓄えていかなくてはなりません。もし、この福音を忘れて神の言葉を読むならば、神の言葉を正しく理解することができなくなってしまうのです。先程のイエスさまのお言葉もそうです。ただ「互いに愛し合いなさい」という言葉だけを読むならば、それは負いきれない軛となるのです。けれども、イエスさまがいのちを捨てられるほどに私たちを愛してくださっていること。復活したイエスさまが聖霊において御自身の愛を私たちに注いでくださっていることを覚えるとき、「互いに愛し合いなさい」という掟が負いやすい軛、軽やかな軛となるのです。

 神の言葉、神の福音に豊かにあずかれるところ、それが主の日の礼拝においてであります。神の言葉である聖書が、教会の正しい手続きによって召された説教者によって説き明かされるとき、私たちは今日においても、神の言葉を聞くことができるのです(第二スイス信条)。テサロニケの信徒たちが、パウロの言葉を神の言葉として聞いたように、私たちは、説教者の語る言葉を、神の言葉として聞くことができるのです。そして、そのことを可能としてくださるのが、私たちに内に働く神の霊、聖霊なのです。そのことは、第1章6節の「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」という御言葉からも明かであります。それゆえ、パウロは、今朝の御言葉である13節でも、テサロニケの人々ではなく、神さまに感謝をささげるのです。パウロは、わたしたちの語る言葉を、神の言葉として受け入れてくれてありがとうとテサロニケの信徒たちに感謝を述べているのではありません。パウロが感謝をささげているのは、神さまに対してであります。なぜなら、テサロニケの信徒たちがパウロの言葉を神の言葉として聞くことができたのは、聖霊なる神のお働きによるものであったからです。今朝の御言葉である13節は、「このようなわけで」と始まっておりますけども、その前の12節には、「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあたがたを招いておられます。」と記されておりました。なぜ、テサロニケの信徒たちが神さまから招かれていると語ることができたのでしょうか。それは彼らが、パウロたちの語る言葉を、神の言葉として受け入れたからです。パウロたちの語る言葉の中に、御自身の国と栄光にあずからせようとする神の招きの言葉を聞き取ったからです。神の言葉を神の言葉として聞くことができるということ、それは神さまから御自身の国と栄光にあずからせようと招かれていることの証拠と言えるのです。

 聖霊なる神が、私たちの心に働き、神の言葉を神の言葉として受け入れさせてくださる。この聖霊のお働きについて、パウロは、コリントの信徒への手紙一の2章10節以下で詳しく述べております。

 わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。

 パウロたちが語る言葉は聖霊によって教えられた言葉である。よって、それを理解するためには聞く者にも聖霊が求められるとパウロは語るのです。また、聖霊の働きは、イエス・キリストへの信仰という形であらわれますから、信仰をもって聞かなければ、神の言葉を、神の言葉として聞くことができないとも言えます。このことは、今朝の御言葉である13節も述べていることであります。神の言葉は、「信じているあなたがたの中」に働かれるのです。私たちが聖書を神の言葉として読むことができるのは、また、説教を神の言葉として聞くことができるのは、私たちに信仰を与えてくださった聖霊のお働きによるものなのです。それゆえ、私たちも神さまに絶えず感謝をささげることができるのです。

 この説教を準備していて、自分が求道中のことを思い起こしていたのですが、礼拝に初めて出席したとき、当たり前かも知れませんが、説教を人の言葉としてしか聞くことができませんでした。不信仰なのですけども、「なんかうさんくさいなぁ」と思いながら、聞いていたのです。そのように思いながら、礼拝に出席していたのであります。けれども、いつ頃からかは分かりませんけども、説教をを神の言葉として受け入れている自分に気づいたのです。それは、わたしの中にも聖霊なる神さまが働いてくださったということであります。そして、このわたしも神の福音を喜んで受け入れ、洗礼を受けることができたのです。このようなことをお話ししたのは、聖霊が御言葉を通して働かれることを申し上げたかったからです。聖霊は神の言葉と通して働き、聞く者を造り変えてくださる。このことを覚えるとき、私たちは聖霊のお働きを信じ祈りつつ、根気よく福音を語り続けることができるのです。先程、使徒言行録第17章を読みましたけども、テサロニケの信徒たちの多くは、旧約聖書にすでに親しんでいた神を畏れる人々でありました。けれども、私たちの宣教の対象である日本人の多くはそうではないのです。そのことを考えるだけでも、私たちの宣教には、祈りと忍耐が求められると思うのですが、いかがでしょうか。聖霊が神の言葉を神の言葉として受け入れさせてくださる。そのためには、神の言葉が神の言葉として語られなければならないのです。そして、ここに私たちの宣教の意義があるのです。私たちの宣教の最前線、それは何と言っても主の日の礼拝であります。私たちの宣教の労苦、それは何より主の日の礼拝をこの地でささげ続けるための労苦であると言えるのです。その労苦をも聖霊なる神が豊かに用いてくださり、新しい方をこの礼拝へと招いてくださることを信じて、神の言葉を告げ知らせてゆきたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す