イエスの栄光 2010年7月18日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの栄光

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 12章36節~43節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:36 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
12:37 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。
12:38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
12:39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
12:40 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
12:41 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
12:42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。
12:43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。ヨハネによる福音書 12章36節~43節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はヨハネによる福音書第12章36節後半から43節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 36節後半に、「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された」と記されております。子ろばに乗ってエルサレムに入城されたイエスさまは、ギリシア人が会いに来たとの知らせを受けて、「人の子が栄光を受ける時が来た」と語り出されました。そのイエスさまの御言葉が群衆との対話を交えて36節前半まで記されていたのであります。特にここで注目したいのは34節から36節前半です。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠におられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか」と問う群衆に対して、イエスさまは次のように言われたのであります。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」。イエスさまはこのように群衆に言われてから、立ち去って彼らから身を隠されたのです。そしてこれ以降、イエスさまは弟子たちへの教えに集中されるのです。第13章から第17章には沢山のイエスさまの御言葉が記されているのですけども、それはすべて弟子たちに対してのものであります。イエスさまが再び群衆の前にその姿を現されるとき、それはイエスさまがポンテオ・ピラトによって裁かれ、十字架につけられるときであります。イエスさまは群衆に、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言われましたけども、群衆はまさに十字架に上げられるイエスさまのお姿を目の当たりにするわけです。そのように考えますと、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」という御言葉は、まだイエスさまに従う決断をしていない全ての人への招きの言葉であることがよく分かるのであります。

 しかし、福音書記者ヨハネは、そのようなイエスさまの招きにも関わらず、彼らはイエスさまを信じなかったと記すのです。37節にこう記されています。「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」。この37節の言葉は、これまでのイエスさまの宣教を総括する言葉であります。イエスさまは世の光である御自分を信じるようにと多くのしるしを彼らの目の前で行われました。福音書記者ヨハネはその多くのしるしから7つを選んで、この福音書に記したのであります(20:30、31参照)。最初のしるしは、ガリラヤのカナの婚宴で、水を極上のぶどう酒に変えるというしるしでありました。第2章11節を見ますと、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」と記されています。また2番目のしるしは、言葉だけで遠く離れた役人の息子を癒すというしるしでありました。第4章54節を見ますと、「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」と記されています。また三番目のしるしはベトザタの池で38年も病気で苦しんでいた人を癒すというしるしでありました。また4番目のしるしは、大麦のパン5つと魚2匹とで、五千人もの人々を満腹されるというしるしでありました。また5番目のしるしは、荒れ狂う湖の上を歩まれるというしるしでありました。また6番目のしるしは生まれつき目が見えない人の目を見えるようにするというしるしでありました。また7番目は死んでから四日もたっていたラザロを生き返らせるというしるしでありました。このように、ヨハネによる福音書はイエスさまがなされた7つのしるしを記してきたのであります。聖書において7は完全数でありますから、福音書記者ヨハネはイエスさまのしるしを7つ記すことによって、イエスさまが神の御子であることが完全に示されたと主張しているのかも知れません。しかし、いずれにせよユダヤ人たちはイエスさまを信じなかったのです。アブラハムの子孫であり、モーセの律法を持つユダヤ人たち、神の民であるユダヤ人たちがイエスさまを信じなかったのです。これは考えてみると本当に不思議なことだと思うのですね。神さまは旧約聖書を通して、ユダヤ人たちにメシア、救い主の到来を約束して来られました。そして、その約束を実現するために、御自分の独り子を人としてこの地上に遣わされたのです。そして、イエス・キリストはユダヤ人たちの目の前で多くのしるしを行われたのであります。しかし、ユダヤ人たちは信じなかったのです。その理由を福音書記者ヨハネは、預言者イザヤの言葉が実現するためであったと語るのです。38節をお読みします。「預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。『主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか』」。ここで預言者イザヤの言葉として引用されているのはイザヤ書の第53章1節であります。元の言葉を見ますと、ヘブライ語旧約聖書のギリシア語訳からそのまま引用されていることが分かります。福音書記者ヨハネは、ヘブライ語旧約聖書のギリシア語訳、いわゆる70人訳聖書からそのまま引用することによって、イザヤ書第53章全体を読者に思い起こさせようとしているのではないかと思うのです。イザヤ書第53章は「主の僕の苦難と死」と小見出しが付けられている所ですが、今朝改めて御一緒にお読みしたいと思います。イザヤ書の第52章13節からお読みします。

 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 長く読みましたけども、第52章13節に「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」とあります。この御言葉は、前回学んだイエスさまの御言葉と深い関係があります。そこには、イエスさまが地上から上げられることによって、御父の、またイエスさまご自身の栄光が現れることが記されておりましたが、それはイザヤ書第52章13節を背景としているわけです。そして、ヨハネ福音書が、「地上から上げられる」ことを、「十字架に上げられる」ことと「天上に上げられる」ことの2重の意味を持たせているように、イザヤ書も主の僕の苦難と死について語り出すのであります。福音書記者ヨハネは、ユダヤ人たちが多くのしるしを目の当たりにしながらイエスさまを信じなかった理由として、第53章1節の御言葉が実現するためであったと記すのですが、そこで言いたいことは、ユダヤ人たちが苦難から栄光へと上げられるメシアを誰も思い描くことはできなかったということであります。私たちキリスト者は、イザヤ書第53章を読むと、ここに十字架に苦しまれるイエスさまのお姿が預言されていると読むのでありますけども、ユダヤ人たちはそのように読みませんでした。ユダヤ人たちは主の僕とはイスラエルであり、ここに自分たちの姿が描かれていると読むのです。いずれにせよ、ユダヤ人たちはイザヤ書第53章にメシアの姿が描かれているとは読みませんでした。それゆえ、彼らは十字架にあげられねばならないと言われるイエスさまをメシア、王として受け入れることはできなかったのです。それは彼らが思い描いていたいメシアとは似ても似つかないメシアの姿でありました。群衆が待望していたのは、エルサレム入城の際に示されたように、軍事力をもって自分たちをローマ帝国から解放してくれるメシア、王でありました。ですから、彼らはローマの法廷において裁かれ、十字架に上げられてしまうイエスさまを到底メシアとして受け入れることはできなかったのです。ではヨハネによる福音書に戻りましょう。 

 福音書記者ヨハネは、ユダヤ人たちがイエスさまを信じなかった理由として、もう一個所イザヤ書の御言葉を引いております。39節、40節を読みます。「彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。『神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない』」。ここで引用されているのはイザヤ書第6章9節、10節の御言葉であります。イザヤ書第6章はイザヤが預言者として召されたことを描く有名な所であります。少し長いですが、ここも御一緒にお読みしたいと思います。

 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。

 福音書記者ヨハネは、9節、10節のイザヤに対する主の御言葉を引用しているのですが、少し変えております。例えば、イザヤ書では「この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ」と命令形で記されているのですが、ヨハネ福音書では、「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた」と直接法で記されています。イザヤ書において不信仰なイスラエルの民に御言葉を語ることによって、「この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ」と主なる神は語られるわけでありますが、ヨハネ福音書では、そのイザヤの御言葉をユダヤ人たちがイエスさまを信じなかった理由として引用しているのです。すなわち、神の民であるイスラエルの不信仰は、神が遣わされた独り子である神、イエス・キリストを信じないことによってその極みに達するのです。そして、それは福音書記者ヨハネが記しておりますように、神さまによることなのです。なぜ、ユダヤ人たちは多くのしるしを目の当たりにしながらイエスさまを信じなかったのか。福音書記者ヨハネは、「神さまが彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされたからだ」と記すのです。それゆえ、ユダヤ人たちは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰ることができない。それゆえ、彼らは神さまの癒し、すなわち神さまの救いにあずかることができないのです。ヨハネによる福音書に戻りましょう。

 41節に、「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」と記されています。この御言葉は、イザヤ書第6章に記されていた神顕現、イザヤが「高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」ことと結びつけて解釈されます。イザヤが活動したのはイエスさまがお生まれになる700年以上前のことでありました。ですから、このとき、言は神と共におられたわけです。神の独り子はまだ人となっておらず、御父と共におられたわけです。それゆえ、イザヤに現れた神は、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と言われるのであります。イザヤに現れた神は、御自身を「我々」と言われる父と子と聖霊の三位一体の神であるのです。それゆえ、福音書記者ヨハネが、イザヤの言葉を引用して、「わたしは彼らをいやさない」と記すとき、その「わたし」とは他ならないイエスさまであるのです。イエスさまは、肉となる前、人としてお生まれになる700年以上も前に、神さまがユダヤ人の心を頑なにされるがゆえに、彼らが自分の救いにあずかることができないことを予めイザヤを通して告げておられたのです。人がイエス・キリストを信じるか、信じないかを決断する究極的な根拠は、神の主権にあることを私たちはここから教えられるのです。

 しかしそう聞きますと、ユダヤ人たちがイエスさまを信じなかったことの責任を問えないのではないかと思われるかも知れません。これは神の主権と人間の自由というデリケートな問題でありますけども、結論から言いますと、人はイエスさまを信じないことの責任を問われます。なぜなら、その人は自分の意志でイエスさまを信じないという決断をするからです。そのことを教えているのが、42節、43節の御言葉であります。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」。第3章に、夜にイエスさまのもとを訪ねてきたニコデモのお話しが記されておりましたけども、ニコデモは、議員の中でイエスさまを信じる者を代表する人物と言えます。ここで、「ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」とありますけども、これはイエスさまの時代というよりも、この福音書が執筆された紀元一世紀のヨハネの時代のことであります。第9章22節に、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」と記されておりましたけども、これも福音書記者ヨハネの時代のことでありました。何度も申しますように、ヨハネは、イエスさまの時代と自分たちの時代の状況を重ね合わせてこの福音書を記しているのです。ヨハネによる福音書において、ファリサイ派が指導者として描かれるのもそのためであります。ヨハネの時代において、エルサレム神殿はすでにローマ帝国によって滅ぼされており、サドカイ派は没落し、ファリサイ派が指導的立場を占めていたのです。福音書記者ヨハネはイエスさまの時代と自分の時代を重ね合わせて記しているのでありますが、それができたのは、その根本にあることが同じであるからです。そして、それは現代においても同じであると言えるのです。つまり、イエスさまを信じない根本にあるものは、「神からの誉れよりも、人間からの誉れを好む」という人間の態度であるのです。ここで、「誉れ」と訳されている言葉は、「栄光」と訳されている言葉と同じ言葉です。また、「好んだ」と訳されている言葉は、「愛した」とも訳される言葉であります。ヨハネによる福音書第3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とありましたが、ここで「愛された」と訳されている言葉が「好んだ」と訳されているのと同じ言葉です。議員たちはイエスをメシアと公に言い表すことにより、ユダヤ社会から排除され、社会的地位を失うことを恐れたのです。すなわち、彼らはイエスをメシアと公に表すことによって与えられる神からの誉れよりも、今、与えられている人から誉れを愛したのです。ここで思い起こすべきは第1章11節、12節の御言葉であります。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。神からの誉れ、神からの栄光とは何でしょうか。それはイエス・キリストにあって神の子となる資格を与えられるということです。「イエスは主である」と公に言い表しすことによって、たとえ社会的な地位を失ったとしても、神の子として父なる神さまとの交わり生きることを愛する心、その心がなければ人々を恐れず、イエスは主であると告白することはできないのです。ここでもう一つ思い起こすべき御言葉があります。それはローマの信徒への手紙第10章9節、10節であります。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」。私たちはただ心の中でイエスさまを信じていればよいのではありません。パウロが言っておりますように、口で公に言い表して救われるのです。そして、このことは難しいことだと思うのです。教会の礼拝においては容易いことですけども、それによって自分の利益が損なわれたり、生活に支障を来すような状況においては、やはり難しいと思うのです。しかし、そのとき私たちは、私たちの主であるイエスさまが、人の誉れよりも神からの誉れを愛して歩まれたお方であったことを思い起こしたいと思います。イエスさまが、十字架にあげられるときを迎えて、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈られたことを思い出したいと思います。私たちが人からの誉れよりも神からの誉れを愛して、イエスは主であると告白するとき、その私たちを通しても神の栄光は現れるのです。

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