思いわずらうな 2013年9月08日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

思いわずらうな

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章27節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。マタイによる福音書 6章27節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 イエスさまは、25節で、「だから、言っておく。自分の命のことで何をたべようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言われました。新共同訳聖書は、「思い悩むな」と訳していますが、口語訳聖書では「思い煩うな」、新改訳聖書では「心配するな」と訳しております。ちなみに、国語辞典によりますと、「思い悩む」とは「心の中で考え苦しむこと」、「思い煩う」とは「いろいろと考え苦しむこと」、「心配する」とは「心にかけて思い煩う」ことを意味します(『広辞苑』)。イエスさまは、弟子である私たちに、「自分の命や体のことで思い悩むな、思い煩うな、心配するな」と言われるのです。そして、イエスさまは、私たちが思い煩わなくてよい根拠をあげられるのです。私たちは、自分たちが思い煩わずにおれない根拠をいくらでもあげることができますが、イエスさまは、私たちが思い煩わなくてよい根拠をあげられるのです。その根拠として、イエスさまが先ずあげられたのは、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」という事実であります。命と体を与えてくださった神さまが、命を支える食べ物や体を保護するための衣服を与えてくださらないはずはない、とイエスさまは言われるのです。また、イエスさまは、私たちが思い煩わなくてよい根拠として、こう言われます。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか」。ここには、空の鳥を造られた神さまが、空の鳥に食べ物を与え、養ってくださるという聖書の信仰があります(詩104編参照)。すべてのものを造られた神さまは、すべてのものに食べ物を与え養われるお方でもあるのです。空の鳥は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしませんが、天の父は鳥を養ってくださる。そうであれば、天の父は、御自分の子供であるあなたがたを養ってくださらないはずはない、とイエスさまは言われるのです。このイエスさまの御言葉は、私たちに働かないこと、怠惰を勧めているのではありません。このイエスさまの御言葉は、食べ物を得ようと懸命に働く人々に語られた御言葉であります。イエスさまの時代、人々は自給自足のような生活をしておりました。多くの人々が農業を営んでおり、自分と家族の食べるものを自分の畑から収穫していたのです。ここでイエスさまが求めておられることは、私たちが思い煩わないで働くこと、天の父の養いを信じて、神の栄光をあらわすために働くことであるのです。ここまでが、前回お話ししたことでありますが、今朝はその続きである27節から30節までを御一緒に学びたいと願います。

 27節で、イエスさまは次のように言われます。

 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

 ここでも、イエスさまは私たちが思い煩ってはならない根拠をあげておられます。私たちは命のことでいろいろと考え苦しむのでありますが、イエスさまは、「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」と言われるのです。思い悩んだからといって、命のある間の長さをわずかでも延ばすことができないのに、なぜ思い悩むのか、とイエスさまは言われるのです。このイエスさまの御言葉の前提には、天の下の出来事にはすべて定められた時があるという聖書の信仰があります。コヘレトの言葉第3章1節から11節までをお読みします。旧約の1037ページです。

 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時/殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時/泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時/石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時/求める時、失う時/保つ時、放つ時/裂く時、縫う時/黙する時、語る時/愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。

 私たちの寿命があとどれくらいであるのかは、私たちには分かりません。しかし、神さまが、私たちの死ぬ時を定めてくださっています。そして、それは時宜にかなった、もっともふさわしい時であるのです。口語訳聖書は、11節を「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と訳しておりましたが、そのような美しいときが、私たちの死において定められているのです。そうであれば、私たちはだれも、思い煩ったからといって、寿命をわずかでも延ばすことができないのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の10ページです。

 イエスさまは、「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」と言われましたが、ここでイエスさまは、健康管理をしなくてよいと言っているわけではありません。むしろ、イエスさまが求めておられることは、私たちが思い悩まずに与えられている命と体を大切に管理することであるのです。私たちは、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができない事実を認めつつ、死ぬ時まで、与えられている命と体を大切に管理することが求められているのです。

 イエスさまは、25節で、「また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言われましたが、28節から30節では、衣服のことで思い悩む必要がないことを教えられます。

 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。

 イエスさまの時代、多くの人々は自分の手で衣服を作りましたが、その働きの担い手は女性でありました。26節の「種蒔きや刈り入れ」が男性の仕事であったのに対して、衣服を「紡ぐこと」は女性の仕事であったのです(箴言31:19参照)。衣服は体を保護するためのものであると同時に、体を飾るためのものでありました。衣服には機能性とデザイン性が求められるわけです。イエスさまは、ガリラヤの山の上で弟子たちに話しておられますが、そこにはたくさんの美しい野の花が咲いていたのでしょう。その野の花を指差しながら、「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」とイエスさまは言われるのです。野の花は働きもせず、紡ぎもしません。しかし、イエスさまは、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つ程にも着飾っていなかった」と言われるのです。ソロモンとは、ダビデ王の跡を継いで、イスラエルの王となった人物でありますが、その知恵と繁栄は有名でありました(列王上10章参照)。栄華を極めたソロモンは、どれほど着飾っていたでありましょうか。しかし、イエスさまは、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」と言われるのです。ここで、イエスさまは、野の花を神さまが装ってくださる衣服に譬えておられます。このことは、私たちにとって意外なことではないでしょうか?野の花を見て、神さまが美しく咲かせてくださっているとは考えても、神さまがその花を美しく装ってくださっていると考えたことがあったでしょうか?しかし、そのようなものの見方こそ、今朝、イエスさまが私たちに教えてくださっているものの見方であるのです。私たちは野の花を注意して見ることにより、栄華を極めたソロモン以上に装ってくださる神さまの御配慮を見るようにと招かれているのです。しかも、その野の花は、今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草であるのです。神さまは、今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草に花を咲かせ、ソロモン以上に装ってくださる。そうであれば、神さまは、御自分の子供であるあなたがたに衣服を与え、装ってくださらないはずはない、とイエスさまは言われるのです。それゆえ、私たちは自分の時を神さまの御手にゆだねて、神さまが装ってくださることを信じて、働くべきであるのです。ここでも、イエスさまは、働かないこと、怠惰を勧めているのではありません。ここでイエスさまが言われていることは、「今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草に花を咲かせ美しく装ってくださる神さまは、あなたがたの寿命の長さに関わりなく、あなたがたに衣服を与え、装ってくださる」ということです。その天の父の御配慮を信じて、安心して今日を生きなさい、とイエスさまは言われるのです。

 イエスさまは、30節の終わりで、「信仰の薄い者たちよ」と言われていますが、ここに、私たちが思い煩わずにはおれない究極的な原因があります。なぜ、私たちは自分の命や体のことで思い煩うのでしょうか?それは、私たちの信仰が薄いからであるのです。イエスさまはこれまで、思い悩まなくてよい根拠として、神さまが私たちの命や体を賜物として与えてくださったこと。天の父が種も蒔かず、刈り入れもせず倉に納めもしない空の鳥を養ってくださっていること。神さまが私たちの命の長さを定めておられること。神さまが働きもせず紡ぎもしない野の花を装ってくださっていること、をあげられました。そのようにして、イエスさまは、私たちが自分の命と体を神さまとの関係において考えるようにと教えられたのです。しかし、私たちはしばしば、自分の命と体について神さまを抜きにして考えてしまうのです。神さまがすべてのものを作り、すべてのものを保ち支えておられると信じながら、そのことを自分の命と体に当てはめて考えないのです。しかし、イエスさまは、空の鳥を見なさい、野の花がどのように育つのかを考えなさいと、私たちの心を創造と摂理の神である父へと向けさせてくださいます。そもそも、神さまはどのようにして、私たちの父となってくださったのでしょうか?それは、私たちすべてのために、御子をさえ惜しまず死に渡されることによってでありました。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第8章31節から39節で次のように記しています。今朝はこのところを読んで終わりたいと思います。新約の285ページです。

 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 パウロは、38節で、「わたしは確信しています」と記していますが、「確信する」ことこそ、「思い悩む」ことの反対であると言えます。イエスさまは、「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」と言われました。しかし、そのように言われて、私たちは思い悩みから解放されるでしょうか?私たちは、あとどのくらい自分は生きられるだろうかと思い悩むのでありますが、しかし、それだけではありません。私たちには、死んだらどうなるのだろうかという思い悩みもあるのです(コヘレト3:11参照)。その思い悩みから私たちを解放してくださるのは、私たちの罪のために死に、私たちを正しい者とするために復活されたイエス・キリストだけであります(ローマ4:25参照)。復活されたイエス・キリストの聖霊をいただき、神さまを父と呼ぶ、神の愛の確信に生きるとき、私たちはあらゆる思い悩みから解放されるのです。そのとき、私たちは、パウロと共に、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずはありましょうか」と言うことができるのです。そして、この「すべてのもの」の中には、私たちの命を支える食べ物や飲み物、私たちの体を保護し、装う衣服も含まれているのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す