思い悩むな 2013年9月01日(日曜 朝の礼拝)

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思い悩むな

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章25節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。マタイによる福音書 6章25節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、マタイによる福音書第6章25節から34節までをお読みしましたが、今朝は、25節と26節を中心にして学びたいと願っております。

 25節で、イエスさまは次のように言われます。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」。「だから」という言い出しの言葉からも分かるように、この言葉は、前の言葉を受けてのものであります。イエスさまは、24節で、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました。この言葉に続けて、イエスさまは、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言われるのです。この24節と25節のつながりについて、今朝は初めに考えてみたいと思います。私の第一印象から言うと、24節と25節はうまくつながっていない印象を受けました。イエスさまは、「あなたがたがは、神と富とに仕えることはできない」と言われた後で、なぜ、「だから、言っておく。・・・・・・思い悩むな」と言われたのでしょうか?私は、2つの解釈ができるのではないかと思います。一つ目の解釈は、イエスさまが、富に仕える者の心にある思い悩みを見抜いて、「だから、言っておく・・・・・・思い悩むな」と言われたと読む解釈です。なぜ、神だけではなく、富にも仕えようとするのか?それはその人が自分の命について思い悩んでいるからです。思い悩むことにより、この地上の富によって自分の命を確保したいと考えるのです。イエスさまは、そのことを見抜かれて、「だから、言っておく。・・・・・・思い悩むな」と言われたと読むことができるのです。また、二つ目の解釈は、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。あなたがたは、神にのみ仕える者である」という事実を受けて、イエスさまは、「だから、言っておく。・・・・・・思い悩むな」と言われたと読む解釈です。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」というイエスさまの御言葉は、「だれも、二人の主人に仕えることはできない」という事実を示すだけでなく、キリストの弟子である私たちが富ではなく、神に仕える者であることを教えております。そのことを受けまして、イエスさまは、「だから、言っておく。・・・・・・・思い悩むな」と言われたと読むことができるのです。

 「思い悩むな」。この言葉は、口語訳聖書では「思い煩うな」、新改訳聖書では「心配したりしてはいけません」と翻訳されておりました。ちなみに、国語辞典を引きますと、「思い悩む」とは「心の中で考え苦しむ」こと、「思い煩う」とは、「いろいろと考え苦しむ」こと、「心配する」とは「心にかけて思いわずらうこと」を意味します(『広辞苑』)。このことからも分かりますように、イエスさまが「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言われる「思い悩み」は、食べる物がたくさんあって、今日は何を食べようかしらといった「思い悩み」ではありません。レストランに入って、メニューを見ながら、今日は何を食べようか、何を飲もうかといったことを、ここでイエスさまは言われているのではありません。また、クローゼットにあるたくさんの衣服を前にして、今日は何を着ようかしらといったことをイエスさまは言われているのではないのです。イエスさまがここで言われている「思い悩み」とは、命を支えるために必要な食べ物や飲み物がない貧しさから生じる思い悩みであります。朝、目を覚まして、今日は何を食べればよいのか、何を飲めばよいのか、と途方に暮れるような思い悩みであるのです。また、体を保護するための衣服がなく、何を着たらよいのかとため息をつくような思い悩みであります。このような思い悩みは、イエスさまの時代の労働者の賃金が日当で支払われたことに関係していると思います。イエスさまは第20章で、「ぶどう園の労働者のたとえ」を語られましたが、そのたとえ話に出てくる、夕方の五時まで雇ってもらえなかった人は、文字通り、「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩んでいたと思います。では、現代に生きる弟子である私たちはどうでしょうか?私たちは、自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むことはなくなったでしょうか?確かに、私たちは、今日、食べるものがない、飲むものがないといった貧しさの中にはいないかも知れません。また、着る物がないという貧しさの中にはいないかもしれません。しかし、そうであっても、私たちは、自分の命のことで、また自分の体のことで思い悩んでいるのではないでしょうか?そして、その思い悩みから解放されたいと、富に仕える誘惑に心引かれるところがあるのではないでしょうか?そのような私たちに、イエスさまは今朝、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言われるのです。そして、イエスさまは、私たちが思い悩んではならないその根拠をあげられるのです。私たちは、自分が思い悩まずにはおれない根拠をたくさんあげることができると思います。しかし、イエスさまは、私たちが思い悩まなくてよい根拠をあげられるのです。イエスさまは、私たちが思い悩まなくてよい根拠として、次のように言われます。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。これのどこが、私たちが思い悩まなくてよい根拠なのか?と思われるかも知れませんが、このイエスさまの御言葉は、命も食べ物も、体も衣服も神さまが与えてくださる賜物であることを前提としています。食べ物は命を支えためのものであり、衣服は体を保護するためのものであります。そうであれば、命を与えてくださった神さまが、その命を支えるための食べ物を与えてくださらないはずがあろうか?体を与えてくださった神さまが、その体を保護するための衣服を与えてくださらないはずがあろうか?とイエスさまは言われるのです。塚本虎二という人が、このところを、言葉を補いながら次のように翻訳しています。「命は食べ物以上、体は着物以上の賜物ではないか。命と体とを下さった天の父上が、それ以下のものを下さらないわけはない」。私たちの命も、体も神さまが与えてくださったものであります。そうであれば、その命を支えるための食べ物も、またその体を保護するための衣服も神さまは必ず与えてくださるはずだ、とイエスさまは言われるのです。イエスさまが、私たちに思い悩むなと言われる根拠は、私たちの命も体も神さまによって造られたものであるという神の創造の御業にあるのです。このように聞くと、何だそんなことかと思われるかも知れません。しかし、自分の命と体が神さまによって造られたものである。自分の命と体が神さまによって与えられている賜物であることは、多くの人々にとって当たり前のことではありません。32節に、「異邦人」という言葉が出て来ますが、イエス・キリストの父なる神を信じていない多くの人々は、自分の命と体が神さまによって造られ、神さまによって与えられていることを知らないのです。私は、大学生のときに、洗礼を受け、キリスト者となりましたが、それまで、自分の命と体が神さまによって造られ、与えられていることを知りませんでした。ですから、文字通り、思い悩んでいたわけです。なぜ、生まれて来て、何のために生きているのか?文字通り、思い悩んでいたのであります。しかし、イエス・キリストの父なる神を知ったときに、私の命と体が神によって造られ、与えられていることを知ったのです。私の命の背後には、神さまの御意志があり、神さまの御計画があることを知ったのであります。そのことをイエスさまは、思い悩む私たちにもう一度思い起こさせようとしておられるのです。あなたの命、あなたの体、それを与えてくださったのは父なる神ではないか?そうであれば、その命を支える食べ物や飲み物、体を保護する衣服を父なる神が与えてくださらないはずはないではないか?とイエスさまは言われるのです。

 また、私たちが思い悩まなくてよい根拠として、イエスさまは次のように言われます。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。イエスさまは、この言葉をガリラヤの山の上で語っておられます。ですから、イエスさまと弟子たちの周りには空の鳥が飛んでいたのでしょう。その空の鳥を指差しながら、「空の鳥をよく見なさい」とイエスさまは言われるのです。私たちは思い悩むとき、自分の事ばかりに目を注いでしまいがちです。しかし、イエスさまは、その私たちの眼差しを空の鳥へと向けさせるのです。そして、イエスさまは、「空の鳥は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしないが、天の父は鳥を養ってくださる。そうであるならば、鳥よりも価値のあるあなたがたを天の父が養ってくださらないはずがあろうか」と言われるのです。ここにも、神さまがすべてのものをお造りになり、その必要なものを与えてくださるという聖書の信仰があります。すべてのものを力ある御言葉によってお造りになった創造の神は、すべてのものを保ち、支えておられる摂理の神であられます。この神さまの創造と摂理の御業を歌った詩編に、詩編第104編があります。今朝はその一部を読みたいと思います。旧約の942ページ。詩編第104編13節から30節までをお読みします。

 主は天上の宮から山々に水を注ぎ/御業の実りをもって地を満たされる。家畜のためには牧草を茂らせ/地から糧を引き出そうと働く人間のためにさまざまな草木を生えさせられる。ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ/パンは人の心を支える。主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち/そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。あなたが闇を置かれると夜になり/森の獣は皆、忍び出てくる。若獅子は餌食を求めてほえ/神に食べ物を求める。太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き/それぞれのねぐらにうずくまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったもので満ちている。同じように、海も大きく豊かで/その中を動き回る大小の生き物は数知れない。舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。彼らはすべて、あなたに望みをおき/ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手が開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。

 すべての生き物を造られた神は、すべての生き物に食べ物を与え、養ってくださる神であります。それゆえ、天の父は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない鳥を養ってくださるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の10ページです。

 イエスさまは、26節後半で、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と言われていますが、このイエスさまの御言葉は、神さまが人を御自身に似せてお造りになったことと結びつけて読むことができます。創世記の第1章によれば、神さまは、人を御自分に似せて、御自分に代わって世界を治めるものとして造られました。それゆえ、すべての人が神のかたちを持つ、鳥よりも価値あるものであるのです。また、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」というイエスさまの御言葉は、その前の文に出てくる「天の父」と結びつけて読むことができます。キリストの弟子である私たちは、神さまを「天の父」と呼ぶ神の子とされております。それゆえ、私たちは鳥よりも価値のあるものなのです。父親がペットの鳥に餌を与えながら、自分の子供に食事を与えないなどということは考えられないことです。そうであれば、空の鳥を養ってくださる父なる神は、イエス・キリストにあって神の子とされた私たちを養ってくださらないはずはありません。イエスさまが、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と言われるとき、それは誰もが認めざるを得ない説得力を持つ言葉であります。なぜなら、イエスさまは、私たちを罪から救うために、御自分の命を捨ててくださったからです。私たちが神さまの御前に、鳥よりも価値があることを本当に確信させていただけるのは、イエス・キリストの十字架の死が自分のためであったことを知ったときであります。ヨハネによる福音書第3章16節に、「神はその独り子を与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とありますが、神さまは独り子イエス・キリストを十字架につけられるほどに、私たちを愛してくださったのです。そのようにして、私たち一人一人が神さまの目にどれほど高価で尊い者であるのかを示してくださったのです。その父なる神が、あなたを養ってくださらないことがあろうか、とイエスさまは言われるのであります。

 今朝は、最後に、一つの誤解を取り除いて終わりたいと思います。その一つの誤解とは、このイエスさまの御言葉は、私たちに、働かないこと、怠惰を勧めているのではないということです。このイエスさまの御言葉は、日ごとの糧を得ようと働く人たちに語られた言葉であります。イエスさまは、働こうとしない怠惰な者たちを弁護しようとこのように言われたのではありません。日ごとの糧を得ようと懸命に働く者たちに、イエスさまはこの言葉を語られたのです。そもそも、神さまは人間を働く者としてお造りになりました。神さまは、御自身に似せて造られた人間を、男と女を祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と言われました(創世1:27、28参照)。そして、神さまは、初めの人アダムをエデンの園に住まわせ、そこを耕し、守るようにされたのです(創世記2:15参照)。神さまが人を働くものとしてお造りになったことは、先程お読みした詩編の第104編を読んでも分かります。その14節に、「家畜のために牧草を茂らせ/地から糧を引きだそうと働く人間のために/さまざまな草木を生えさせられる」とありましたし、23節には、「人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く」と記されておりました。このように神さまが私たちを養ってくださることと、私たちが働くことは対立することではなく、むしろ、一つのことであるのです。神さまは、私たちの手の働きを祝福して、私たちを養ってくださるのです(申命記8:18参照)。そして、そのことを知るとき、私たちは思い悩みから解放されて、主に仕えるように働くことができるのです。神さまの栄光を現すために、この世界を御心に従って治める人間として働くことができるのです。

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