私たちを通して働くキリスト 2017年10月15日(日曜 朝の礼拝)

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私たちを通して働くキリスト

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 15章14節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:14 兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。
15:15 記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、
15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。
15:17 そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。
15:18 キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、
15:19 また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。
15:20 このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。
15:21 「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙 15章14節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 ローマの信徒への手紙の本論は、15章13節までと言われています。ですから、今朝の御言葉、15章14節以下は手紙の結びの言葉であります。15節に、「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」とありますように、14節以下は、あとがきの言葉であるのです。そのことを念頭に置いて、今朝の御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 14節から15節前半までをお読みします。

 兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。

 「兄弟たち」とありますが、元の言葉ですと「わたしの兄弟たち」と記されています。パウロは、ローマの信徒たちに、大変親しく呼びかけています。パウロは、ローマの教会に起こっていた強い人と弱い人の争いについて、かなり踏み込んで記しました。しかし、それは、ローマの教会が悪意に満ちた、知識のない、互いを戒め合うことのできない未熟な教会であると思ってのことではありません。パウロ自身は、ローマの教会が善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができる成熟した教会であることを確信しているのです。「このわたしは確信しています」と、強調して、このことが言われています。パウロは、ローマの信徒たちから誤解されないように、このところを記しているわけです。また、パウロは、「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」と記しております。パウロは、まだ訪れたことのないローマの教会に、自分が宣べ伝えている福音を書き記したわけですが、それは、ローマの信徒たちが初めて聴く教えではなかったようです。ローマの信徒たちも、「人は律法の行いによらず、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる」と信じておりました。ローマの信徒たちも「神様の御前にすべての人が罪人であり、イエス・キリストによらなければ救われないことを信じていた」わけです。しかし、パウロはそれをかなり思い切って、徹底的に書いたわけであります。パウロは、気を遣って、「記憶を新たにしてもらおうと」と記しましたが、彼の気持ちから言えば、「福音の豊かさを知ってもらおうと」、ところどころ思い切って書いたのです。それは、パウロが恵みによって異邦人の使徒とされたからであるのです。

 15節後半から16節までをお読みします。

 それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。

 パウロが「わたしは神から恵みをいただいた」と記すとき、この恵みは、使徒とされたという恵みのことであります。かつてパウロは、キリストの教会を迫害する者でありました。しかし、栄光の主イエスは、ダマスコ途上において、パウロに現れてくださり、異邦人に福音を宣べ伝える使徒としてくださったのです。パウロは、「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めている」と記しております。パウロは、異邦人に福音を宣べ伝えることによって、彼らを聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物としてささげているのです。このパウロの言葉の背後には、イザヤ書に記されている終末の預言があります。旧約1171ページ。イザヤ書66章18節から20節前半までをお読みします。

 わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕篭、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。

 20節に、すべての兄弟が主への献げ物として、エルサレムに連れて来られることが記されています。このところを背景にして、パウロは、自分が福音のための祭司の務めをしており、異邦人を神に喜ばれる供え物としていると記しているのです。つまり、パウロにとって、福音宣教によって、すべての国の民が、イエス・キリストにあって神を崇めるようになることは、イザヤが預言した終末の出来事の実現であったのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の296ページです。

 パウロは「自分が神の福音のために祭司の役を務めている」と記しておりますが、異邦人を聖なるものとしてくださるのは、福音によって彼らの心に働かれる聖霊であります。聖霊が、私たちの心にイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださり、私たちをイエス・キリストと結び付けて聖なる者、神の民としてくださるのです。また、聖霊が私たちを日々罪に死に、義に生きる者としてくださり、私たちを神に喜ばれる供え物としてくださるのであります。

 17節から19節までをお読みします。

 そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。

 ここでパウロは自分の働きについて記しています。パウロは、ローマの信徒たちとの多くとは、面識がありませんでした。それゆえ、パウロは自分の使徒としての働きについて記す必要があったのです。しかし、パウロは、自分はこれだけのことをしたと、自分の功績を誇っているのではありません。ここでもパウロは、誤解されないように、大変気を遣って記しています。「わたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りにしています」。ここで「キリスト・イエスによって」と訳されている言葉は、「キリスト・イエスにあって」「キリスト・イエスに結ばれて」と訳すことができます(エン クリストー イエスー)。キリストに結ばれた者として、神のために働くことができた。それはパウロの誇りであり、使徒としての拠り所であったのです。パウロは、「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」と記すことによって、自分の働きがキリストの働きであったことを記します。天におられるキリストが聖霊によってパウロと共にいてくださり、パウロの言葉と行いを通して異邦人を神様に従順な者とされたのです。キリストは、パウロを用いて、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働いてくださったのです。「しるしや奇跡の力」とは、悪霊追放や病の癒しの奇跡のことでありましょう。使徒言行録を読みますと、パウロが悪霊を追い出したことや足の不自由な人を歩けるようにしたことが記されています。また、「神の霊の力」とは、パウロが語る福音と共に働く、聖霊の力のことであります。聖霊が心を開き、パウロが語る福音を信仰をもって聞くことができるようにしてくださるのです。キリストはパウロを通して働いてくださった。そのことは、キリストに結ばれている私たちにも言えることであります。私たちは、パウロのように癒しの奇跡を行うことはできません。しかし、私たちの語る福音と共に、聖霊は働いてくださるのです。そして、福音を聞く者たちの中から信じる者たちを起こしてくださるのです。そのようにして、私たちも神の福音のための祭司の務めを果たすことができるのです。天におられるイエス・キリストは、御自分の弟子である私たちを用いて、今も、働いてくださっています。ですから、私たちも神のために働くことを、キリスト・イエスにあって誇ることができるのです。それが私たちの教会が確かに立つ拠り所であるのです。私たちが、週に一度、このところに集まって礼拝をささげているのなぜか?異教の国である日本において、イエス・キリストの福音を語り続ける、その拠り所はどこにあるのか?それは、天におられるイエス・キリストが私たちを通して働いてくださることにあるのです。パウロはそのことを確かな拠り所として、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えたのです。イリリコン州とは、マケドニア州の北、アドリア海に面している州であります(聖書地図9 パウロのローマへの旅参照)。現在のボスニア・ヘルツェゴビナがある辺りです。パウロは、イエス・キリストが自分を用いて働いてくださることを拠り所として、当時の世界の半分とも言える東地中海世界を福音で満たしたのです。

 20節、21節をお読みします。

 このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に立てたりしないためです。「彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。

 ここには、パウロの宣教方針が記されています。パウロは異邦人の使徒として、キリストの名がまだ唱えられていない所で福音を告げ知らせることを名誉としてきました。ここで「熱心に努めてきた」と訳されている言葉は、「名誉としてきた」とも訳せる言葉であります。パウロは、他人の築いた土台のうえに立てないことを名誉としてきたのです。パウロは異邦人の使徒として、一番困難なことを自分に課していたわけです。パウロの宣教は、土台を据えては他の人に任せて、他の地へ行って、また土台を据えるという働きでありました。パウロはそのようにして、キリストの教会を建てていったたわけです。ヨーロッパに初めて福音を伝えたのはパウロでありました。パウロは、フィリピに、テサロニケに、ベレアに、コリントにと次々と教会の土台を据えていったのです。パウロは、このような働きを、聖書の御言葉の実現として理解しておりました。「彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」。これは、イザヤ書52章15節からの引用であります。イザヤ書52章15節は、主の僕の第四の歌の始まりの言葉であります。今朝はその所を読んで終わりたいと思います。旧約の1149ページ。イザヤ書の52章13節から15節までをお読みします。

 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高くあげられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

 これに続いて、主の僕の苦難と死が語られていきます。多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った僕の姿。そのようにして、主の望まれることを成し遂げる僕の姿が記されます。罪人の一人に数えられ苦難の死を遂げる僕、死から復活させられ、はるかに高く上げられる僕こそ、イエス・キリストであるのです。そのことを聞いたことのない人々に告げ知らせる。そのことを、パウロは名誉なこととしてきたのです。私たちが、まだイエス・キリストを知らない人々に、福音を宣べ伝える。それはまことに名誉なこと、光栄なことであります。私たちを通して、キリストが働いてくださる。キリストと共に、神のために働くことができる。そのような光栄に、私たちもあずかる者とされているのです。

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