希望の源である神 2017年10月08日(日曜 朝の礼拝)

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希望の源である神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 15章7節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
15:8 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、
15:9 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。
15:10 また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、
15:11 更に、/「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。
15:12 また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」
15:13 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。ローマの信徒への手紙 15章7節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 以前に申しましたように、ローマの信徒への手紙14章1節から15章13節までは、一つのまとまりをなしています。ローマの教会には、食べ物のことで、争いが起こっておりました。そのことを取り上げて、パウロは、14章1節以下を記しているわけです。今朝の御言葉は、その最後のところであります。7節には、「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と結論とも言える御言葉が記されています。しかし、この後を読んでいきますと、受け入れ合うべき相手が、信仰の弱い人と信仰の強い人ではなくて、ユダヤ人と異邦人に変わっていることに気づきます。ローマの教会は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者から成っておりました。その両者の関係がここで再び取り上げられるのです。パウロは、9章から11章で、イスラエルの選びと救いについて論じました。そこで、異邦人の救いについても記しました。内容としては、そのことを踏まえてのことが、ここに記されているのです。なぜ、パウロは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の関係について論じるのか?考えられる一つの推測は、野菜だけを食べる信仰の弱い人の多くが、ユダヤ人キリスト者であり、何でも食べる信仰の強い人の多くが、異邦人キリスト者であったことです。私は、そのように推測して、これまでお話してきました。弱い人は、肉を食べずに、野菜だけを食べる。また、ある日を他の日よりも尊ぶ。それは、「主のため」という宗教的な理由によることでありました。そのようなことから、弱い人の多くは、旧約の掟に親しんできたユダヤ人キリスト者であったろうと推測したわけです。これは十分考えられることでありますが、もう一つの推測があります。それは、パウロが「小から大へ」と話を進めているという推測です。「小」とは「食べ物の違い」のことであり、「大」とは「民族の違い」であります。パウロは、「キリストがユダヤ人も異邦人も受け入れてくださった。そのような大きな違いを受け入れてくださったのだから、肉を食べるか、食べないかといった小さな違いを受け入れなくてどうするのか」と記していると解釈するのです。これは、どちらも正しい推測ではないかと思います。信仰の弱い人の多くはユダヤ人キリスト者であった。信仰の強い人の多くは異邦人キリスト者であった。そのことを踏まえて、パウロは、教会の争いとなる根本的な問題、ユダヤ人と異邦人の問題を扱っているのだと思います。ちなみに、ローマの信徒への手紙の本文は15章13節までであり、14節から終わりまでは、パウロの個人的な事柄と挨拶が記されております。ローマの信徒への手紙の本文が今朝の御言葉で終わりを迎えることを念頭において、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 7節をお読みします。

 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

 これと同じようなことを、パウロは、14章3節で記しておりました。「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです」。これまで、パウロは、「神様が弱い人を受け入れられたのだから、あなたがたも弱い人を受け入れなさい」と記しておりました。しかし、今朝の御言葉では、「キリストがあなたがたを受け入れてくださった」と記しております。この「あなたがた」とは、「野菜だけを食べる弱い人と何でも食べる強い人」のことであります。また、その背後にいると考えられる「ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者」のことであります。キリストは神の栄光のために、信仰の弱い人も強い人も受け入れてくださった。また、キリストは神の栄光のために、ユダヤ人も異邦人も受け入れてくださった。それゆえ、あなたがたも互いに相手を受け入れなさいと言うのです。私たちにも様々な違いがあります。しかし、その私たちを主イエス・キリストは神の栄光のために受け入れてくださいました。ですから、私たちも互いに相手を受け入れることによって、神の栄光をあらわすべきであるのです。

 8節から9節前半までをお読みします。

 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。

 ここで、パウロは、キリストがユダヤ人と異邦人をどのように受け入れてくださったかを救いの歴史に則して記しています。「キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられた」。神の永遠の御子が、ダビデの子孫として生まれてくださった。そして、自らも割礼を受けて、掟の下に生涯を送られた。そのようにして、割礼ある者たちに仕えられたのは、神の真実を現すためであったと言うのです。キリストは神の御子でありますから、割礼のある者たちのうえに君臨して支配されてもよかったのです。しかし、キリストは神の御子でありながら、割礼ある者たちに仕える者となられたのであります。「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために来た」という御言葉のとおり、イエス様は、割礼のある者たちに仕えられたのです(マタイ20:28参照)。そのようにして、キリストは、先祖たちに対する約束を確証されたのです。ここで「確証された」とありますけれども、内容としては、「成就してくださった」、「実現してくださった」ということであります。「先祖たちに対する約束」とは、旧約聖書に記されている神様のもろもろの約束のことであります。創世記3章15節に、アダムとエバを誘惑した蛇に対する断罪の言葉が記されています。これは、アダムとエバにとっては救いの約束でありました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」。これは女の子孫が、悪魔の頭を打ち砕くという約束でありました。また、創世記12章を見ますと、主は、アブラハムに次のように約束されました。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。この約束(契約)のしるしとして、17章では割礼が命じられているわけです。22章18節では、「地上の諸国はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」とも言われています。また、申命記の18章15節では、主はイスラエルにモーセのような預言者を立てると約束してくださいました。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に、聞き従わねばならない」。さらに、サムエル記下の7章には、神様がダビデとその子孫の王座をとこしえに堅く据えられると約束されたことが記されています。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座は堅く据えられる」(サムエル下7:16)。このような約束を実現するために、キリストはダビデの子孫として生まれ、割礼のある者たちに仕えてくださったわけです。そのようにしてキリストは神様が真実な御方であることを確証されたのです。また、キリストが割礼ある者たちに仕えてくださったのは、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためでありました。「異邦人」とは、神の契約の民であるユダヤ人以外のもろもろの国の人たちのことであります。神の契約と関係のない異邦人、まことの神を知らない異邦人が、神の憐れみのゆえに、神をたたえるようになる。そのためにも、キリストはダビデの子孫として生まれ、十字架に死んで、復活してくださったのです。私たちは、民族としてはユダヤ人ではありませんから、異邦人でキリストを信じた異邦人キリスト者であります。なぜ、異邦人である私たちが、主イエス・キリストを信じて、神をほめたたえることができるのか?それは、ひとえに神様の憐れみによることであるのです。キリストの十字架の死は、異邦人である私たちのためでもあったことを知って、私たちもイエス・キリストを信じて、神様をほめたたえる者とされたわけです。

 9節後半から12節までをお読みします。

 「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、更に、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」 

 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになる。このことは、旧約聖書に預言されていたことでありました。そのことを論証するために、パウロはいくつかの旧約聖書の御言葉を引用しております。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」。これはダビデの詩編からの引用であります(詩編18:50、サムエル下22:50)。「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。これは申命記32章に記されているモーセの歌からの引用であります(申命記32:43)。「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」。これは詩編117編1節からの引用であります。このように見ていきますと、パウロがここで、段々と異邦人が主を賛美するようになる様子を記していることが分かります。異邦人の中で主をたたえているのは、主の民であるユダヤ人です。しかし、異邦人が主の民と共に喜ぶことになる。さらには、異邦人も主体的に主を賛美するようになるのです。パウロは、詩編と律法から、引用してきましたが、預言者イザヤの言葉を引用します。当時の聖書は、律法と預言者と諸書の三つの区分からなっておりました(ルカ24:44参照)。その三つの区分すべてから、引用するのです。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける」。これはイザヤ書11章10節からの引用であります。「エッサイ」とはダビデの父親の名前であります。ですから、「エッサイの根から芽が現れ」とは、「ダビデの子孫から救い主がお生まれになる」という意味であります。また、「異邦人を治めるために立ち上がる」の「立ち上がる」と訳されている言葉は、死者の中から立ち上げる、「復活する」とも訳される言葉であります。イエス・キリストが死者の中から復活され、天へと上げられたのは、もろもろの国々の民を治めるためであったのです。私たちは、イエス・キリストが復活され、天へと上げられ、父なる神の右に座しておられると信じております。それは、イエス様が、私たちの王となられるためであったのです。神の右に座しておられるイエス・キリストは、もろもろの国々の民を治める王として君臨されているのです。そして、私たちも、この御方に、望みをかけているのです。十字架の死から三日目に復活させられ、天にあげられているイエス・キリストこそ、私たちがすべての罪を赦され、正しい者として公に受け入れられることの確かな保証であるのです。

 13節をお読みします。

 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

 パウロは祈りの言葉をもって、今朝の御言葉を閉じております。5節で、パウロは、「忍耐と慰めの源である神」と記しましたが、ここでは、「希望の源である神」と記しております。ちなみに、元の言葉には、「源である」という言葉はありません。「忍耐と慰めの神」、「希望の神」と記されているのです。パウロは、エフェソの教会に宛てた手紙の中で、次のように記しています。「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約とは関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」(エフェソ2:11,12)。キリストを信じる前の私たちは、希望を持たないものであったのです。しかし、今は、キリストに希望を置いて、神様を希望の源として歩むことができるのです。この世は、イエス・キリストを信じなくても、希望を持って歩むことができるかのように誘惑してきます。しかし、この世が与える希望は、本当の希望とは言えません。パウロは、そのことを「見えるものに対する希望は希望ではありません」とはっきりと記しています(ローマ8:24b)。では、神様がイエス・キリストにあって、私たちに与えてくださる希望とはどのような希望でしょうか?それはイエス・キリストと同じように栄光の体に復活して、神の子とされ、神の栄光にあずかる者となることです(ローマ5:2「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」、8:23,24a「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体が贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」参照)。神様がイエス・キリストによって、私たち人間に与えてくださった希望、それは罪と悲惨の世界から贖われて、神様の御心が完全に実現している世界で、神の子として、神様をほめたたえることであります。そして、その祝福を、罪の悲惨の世界のただ中で味わうことができるのが、キリストの名によってささげられる礼拝においてであるのです。私たちがしばしば想い起こすべきことは、パウロの手紙が礼拝において朗読されたということです。パウロの祈りは、礼拝の中で祈られ、礼拝において実現する祈りであるのです。高齢の兄弟姉妹とお話している中で、週ごとに行われる礼拝が楽しみであるということをよく伺います。それは、考えてみれば当然のことであるのです。なぜなら、礼拝においてこそ、私たちは神様から与えられている希望を味わうことができるからです。そのような天の祝福を味わうことができるように、私たちも希望の源である神に、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和で私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるよう祈りたいと願います。

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