聖霊による義と平和と喜び 2017年9月24日(日曜 朝の礼拝)

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聖霊による義と平和と喜び

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 14章17節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
14:18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。
14:19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。
14:20 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。
14:21 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。
14:22 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。
14:23 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。ローマの信徒への手紙 14章17節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 ローマの教会には、何でも食べてよいと考える信仰の強い人と野菜だけを食べる信仰の弱い人がおりました。この手紙を書いている使徒パウロは、信仰の強い人でありました。パウロは14節で、次のように記しています。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それはその人にだけ汚れたものです」。そもそも、食べ物が汚れているとか、汚れていないとか、何のことを言っているのでしょうか?この背後には、二つのことが推測できます。一つは、偶像に献げられた肉のことが言われているという推測であります。信仰の弱い人たちは、偶像に献げられた肉を食べることによって宗教的な汚れを受けると考えて、肉を食べず野菜だけを食べていたのです。もう一つは、旧約の掟に定められていた食物規定のことが言われているという推測であります。弱い人たちは、旧約の食物規定に従って、豚肉などを食べず、野菜だけを食べていたのです。その場合の「汚れている」とは「食べることが禁じられている」という意味であります。どちらの理由にしても、パウロの確信は変わりません。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それはその人にだけ汚れたものです」。そうであれば、パウロは、弱い人たちのことを気にせずに、肉を食べたらよいと言うのでしょうか?そうではありません。パウロは、あなたの食べ物のことで兄弟姉妹が心を痛めるならば、肉を食べる自由を制限しなさいと言うのです。そして、これこそ、愛に従う歩みであると言うのであります。パウロは、「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」とさえ記すのです。それ自体で汚れたものは何もないと確信して、何でも食べることは善いことであります。しかし、その善いことが、教会の一致を損なうそしりの種になることがあるのです。

 ここまでは、前回お話したことの振り返りであります。今朝は、17節から23節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 17節から19節までをお読みします。

 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

 神の国とは、神の王国であり、神の王的御支配のことであります。地上における神の国の中心的な現れ、それがキリストの教会です。ローマの教会において、飲み食いが問題となっていました。肉を食べてもよいか、いけないか。ぶどう酒を飲んでよいか、いけないか。そのことで強い人と弱い人が互いに裁き合っていたのです。しかし、パウロは、神の国の本質は、飲み食いにあるのではない。神の国の本質は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びにあると記すのです。このことは、パウロが5章1節、2節で記していることであります。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みの信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。私たちは、主イエス・キリストへの信仰によって義とされ、イエス・キリストによって神様との間に平和を得ており、聖霊による喜びを与えられているのです。このことは、信仰の強い人たちにも、信仰の弱い人たちにも言えることです。肉を食べるか、食べないか。ぶどう酒を飲むか、飲まないかといった飲み食いによって神の国が表されるのではない。聖霊による義と平和と喜びこそが、私たちが神の国に生きていることを示しているのです。そうであれば、強い人たちは、自分の自由を制限することによって、教会の平和を守るように努めるべきであるのです。そして、そのようにキリストに仕える人は、神様に喜ばれ、人々(兄弟姉妹)から信頼されるであろうとパウロは記すのです。神の国は飲み食いではないのですから、そこにこだわるべきではないのです。むしろ、そこにこだわらずに、弱い人のつまずきとならないように、肉を食べる自由を制限して、平和や互いの向上に役立つことを追い求めよう、とパウロは記すのです。

 20節から23節までをお読みします。

 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い者となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。

 「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません」。ここで「無にしてはならない」と訳されている言葉は、「破壊してはならない」とも訳すことができます(新改訳参照)。これは、19節の「向上に役立つこと」と反対の意味を持っています。19節の「向上に役立つこと」は「建て上げる」という言葉です。パウロは、「互いを建て上げることを追い求めよう」と記した後で、「食べ物のために神の働きを破壊してはならない」と記すのです。このように見てきますと、ここでの「神の働き」が「教会を建て上げること」であることが分かります。神様は、イエス・キリストによって私たちを贖い、御自分の民の群れ、教会としてくださいました。その教会の一員である私たちは、食べ物のことで、教会の交わりを破壊するようなことがあってはならないのです。

 「すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には、悪い物となります」。信仰の弱い人たちは、偶像に献げられた肉を食べると、再び偶像の支配下に引き戻されるのではないかと考えておりました。そのような弱い人たちにとって、肉を食べることは偶像崇拝の罪に誘うことになり、その人にとって肉は悪い物となるのです。あるいは、信仰の弱い人たちは、旧約の食物規定になじんできた習慣から、豚肉を汚れたものと考えておりました。そのような弱い人たちにとって、豚肉を食べることは食物規定を破る罪に誘うことになり、肉は悪い物となるのです。客観的には、「すべてのものは清い」のですが、それを食べる人が主観的に、それを食べることによって罪に誘われると考えるならば、その人にとって、それは悪い物であるのです。それゆえ、パウロは、強い人たちに対して、「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい」と記すのです。信仰の弱い人たちは、肉を食べ、ぶどう酒を飲むことによって、罪を犯すと考えておりました。その彼らを罪に誘うことがないように、信仰の強い人たちも、肉も食べずぶどう酒を飲まないことが望ましいとパウロは記すのです。肉やぶどう酒だけに限らず、信仰の弱い人たちを罪に誘うようなことを何でもしないことが、強い人たちに求められているのです。しかし、パウロは、強い人たちの考えを否定しているのではありません。「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい」と記すのです。ここで「確信」と訳されている言葉(ピスティス)は、「信仰」とも訳せる言葉であります(口語訳、新改訳参照)。「何でも食べてもよい」という信仰を捨てる必要はありません。その信仰を自分の心の内に神様の御前に持っていればよいのです。その信仰によって、弱い人を裁き、滅ぼしてはなりませんが、その信仰は自分の信仰として神様の御前に持ち続けてよいのです。

 「自分の決心にやましさを感じない人は幸いです」とありますが、この所をもとの言葉から直訳すると次のようになります。「幸いなるかな、自分自身を裁かない人は、自分で正しいと思うことについて」。パウロは、「自分で正しいと思うことについて、自分自身を裁かない人は幸いです」と記すのです。信仰をもって肉を食べる人たちは、幸いな人たちであるのです。パウロは、何でも食べてもよいと信じて、肉を食べている強い人たちを幸いな人たちと呼んでいるのです。パウロは、信仰の強い人たちに、肉を食べることを全面的に禁じているのではありません。ただ、弱い人たちのいる前で、肉を食べる自由を制限することを求めているのです。「自分で正しいと思うことについて、自分自身を裁かない人は幸いです」。このことは、野菜だけを食べている信仰の弱い人たちにも言えます。ですから、問題は、信仰の弱い人たちが疑いながら肉を食べることであるのです。「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないのです、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」。ここで、「確信」と訳されている言葉(ピスティス)も「信仰」と訳すことができます(口語訳、新改訳参照)。22節の「確信」が「信仰」と訳せるように、23節の「確信」も「信仰」と訳すことができるのです。

例えば、新改訳聖書は、22節、23節を次のように翻訳しています。「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」。疑いながら食べる。偶像に献げられた肉を食べると自らに汚れを招くのではないか?旧約の食物規定に禁じられている肉を食べると罪を犯すことになるのではないか?そのように疑いながら肉を食べるならば、それは信仰に基づいて行動していないので、罪に定められるのです。このパウロの言葉を読んで、「罪とはもっと客観的なことではないか?」と疑問に思う人もおられるかも知れません。例えば、ヨハネの手紙一の3章4節に、「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです」と記されています。これは、客観的ですね。しかし、罪には、主観的な面もあるのですね。なぜなら、罪を罪として認めるのは、ひとりひとりの良心であるからです。それぞれの確信に反して行動するとき、それはその人にとって罪となるのです。なぜなら、その信仰の根本には、「主イエスのため」という信仰があるからです(6節参照)。

 「確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」。これは、言い換えれば、「主イエスのためにという信仰に基づいていない行いはすべて罪である」ということです。罪とは、「的外れ」という意味でありますが、主イエスのものとされた私たちが、主イエスのためにという信仰に基づいて歩んでいないならば、それは、的外れな生活を送っていると言えるのです。そのような的外れな行いを兄弟姉妹がしないように、私たちは自分の確信を心の内で神様の御前に持っているべきであるのです。何でも自分の確信を明らかにする必要はありません。教会の平和と一致を損なう恐れがある場合は、自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていることが求められるのです。

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