平和に暮らしなさい 2017年7月30日(日曜 朝の礼拝)

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平和に暮らしなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 12章14節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
12:18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
12:21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。ローマの信徒への手紙 12章14節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロは、ローマの信徒への手紙の12章から15章に渡って、イエス・キリストを信じて教会の一員とされた私たちがどのように生きるべきかを記しています。今朝は、12章14節から21節の御言葉より、イエス・キリストを信じる私たちがどのように生きるべきかを学びたいと願います。

 14節から16節までをお読みします。

 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」。これはイエス様が教えられたことでもあります。マタイによる福音書5章43節から48節に次のように記されています。新約の8ページです。

 あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟だけに挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 ユダヤ人は「シャローム、平和がありますように」と挨拶します。挨拶は祈りでもあったのです。そのことを踏まえて、このイエス様のお言葉を読むと、自分を迫害する者のために祈ることと挨拶することとが重なっていることに気づかされます。イエス様は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と言われました。ルカによる福音書では、「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と言われています(ルカ6:28)。それはなぜかと言えば、「あなたがたの天の父の子となるためである」と言うのです。「父なる神様が悪人をも愛して恵みをくださっている。だから、あなたがたも愛することにおいて、完全なものとなりなさい」とイエス様は言われるのです。そして、イエス様はそのお言葉どおり、十字架のうえで、御自分を殺そうとする者たちのために祈られたのでした。イエス様は、十字架のうえで、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたのです(ルカ22:34)。そのイエス様に倣って、私たちも自分を迫害する者のために祝福を祈ることが求められているのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の292ページです。

 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」とパウロは記しておりますが、パウロ自身もそのような者でありました。パウロは第一コリント書の4章で、次のように記しています。「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」。パウロも、迫害する者のために祝福を祈る者であったのです。それは、パウロ自身が主イエスを迫害する者であったにもかかわらず、祝福を受けた者であったからです。私たちも同じであります。私たちも神の敵でありました(5:10参照)。しかし、その私たちのために、神様は愛する御子イエスを十字架の死に引き渡してくださいました。そして、復活されたイエス様は私たちに、「あなたがたに平和があるように」と言われるのです(ヨハネ20:19)。なぜ、私たちは自分を迫害する者のために祝福を祈らねばならないのか?それは、私たちがかつて神の敵であったにも関わらず、イエス・キリストにあって祝福にあずかる者とされているからです。イエス・キリストに倣う、神の子とされているからです(8:29参照)。ですから、私たちは敵をも愛する愛、神の愛、アガペーに生きることが求められているのです。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。私たちは、一つの体を形づくる者たちとして、喜びも悲しみも共にすることが求められています。私たちは、週に一度、顔を合わせるだけでありますが、長いお付き合いをしています。私がこの教会に赴任して14年になろうとしておりますが、喜ばしいことも悲しいことも、皆様と共にしながら歩んできたと思います。喜ばしいことの代表は、成人洗礼や信仰告白や転入などをあげることができると思います。また、悲しいことの代表は、兄弟姉妹が天に召されたことなどをあげることができると思います。それは、教会としての共通の喜ばしい体験、悲しい体験ですが、ここでパウロが求めていることは、教会員一人一人の喜びや悲しみに、私たちが互いにあずかることであります。これは難しいことだと思います。他人の喜びを自分の喜びとする。他人の悲しみを自分の悲しみとする。これは本来自己中心的な私たちには難しいと思うのです。そのことを弁えたうえで、パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と言うのです。では、どのようにして、私たちは喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことができるのでしょうか?それは、その人のために、とりなしの祈りをささげることによってであります。祈りによって、兄弟姉妹の願いを自分の願いとして祈ることによってです。私たちは、兄弟姉妹のためにとりなしの祈りをささげることにより、その喜びにあずかり、その悲しみにあずかることが求められているのです。

 「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」。互いに思いを一つにするとは、主イエス・キリストに倣う者として思いを一つにするということです(15:5参照)。ですから、「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」と続くわけです。イエス様は高ぶるどころか、へりくだって、徴税人や罪人たちと食卓を共にしてくださいました。その主イエスに倣って、パウロは高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさいと記すのです。この手紙が記された当時のギリシャ・ローマ世界において、実際に身分の差がありました。自由な者と奴隷という身分の違いがあったのです。しかし、パウロは教会の交わりにおいては、身分の違いなく交わりになさいと教えるのです。パウロは、このことについて、ガラテヤ書3章26節から28節で次のように記しています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。教会の交わりにおいて、社会的な地位は問題とされません。私たちは、高ぶらず、互いに交わりを持つべきであるのです。自分で自分を賢い者と思わず、兄弟姉妹の意見に耳を傾けるべきであるのです(箴3:7参照)。

 17節から21節までをお読みします。

 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

 ここでは、教会の交わりを越えた、世間一般の人々との交わりのことが教えられています。イエス・キリストを信じる私たちは、だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うよう心がけることが求められているのです。ここでの善は、神様の御心のことであります。私たちは誰に対しても、誰の前であっても、神様の御心である善を行うよう心がけるべきであるのです。それは言い換えれば、どのようなときも御言葉と聖霊に導かれて歩むということであります。パウロは、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と記します。実際、すべての人と平和に暮らすことは難しいことです。なぜなら、世はイエス・キリストを憎み、その弟子である私たちをも憎むからです(ヨハネ15:18参照)。パウロは、テモテへの手紙二で、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」と記しています(二テモテ3:12)。ですから、パウロは、「できれば、せめてあなたがたは」と記すのです。パウロは、「できるかぎり、あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」、「あなたがたの方からすべての人との平和を乱してはならない」と言うのです。これは、この世と妥協することを勧めているのではありません。信仰や真理の問題については、私たちは妥協することはできません。争いを避けて、神ではないものを神として拝むことはできないこと、してはならないことであります。ここでパウロが言おうとしていることは、19節以下に記されているように、復讐してはならないということです。私たちは、自分で復讐することによって、人々との平和を乱してはならないのです。

 「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」。この「神の怒り」は世の終わりの裁きにおいてくだされる神の怒りのことであります。私たちを愛しておられる神様は、私たちに対してなされた悪に、怒りをもって報いてくださいます。なぜなら、聖書に、「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあるからです(申命32:35)。悪人を裁き、その報いを与えることは、神様の特権であるのです。主イエス・キリストを信じる私たちを迫害する者に対して、自分で復讐する必要はありません。なぜなら、終わりの日に、主イエス・キリスト御自身が栄光の主として、報復してくださるからです(二テサロニケ1:8参照)。

 私たちは、自分で復讐して、人々との平和を乱してはならない。いや、神様から愛されている私たちには、自分を迫害する者をも愛して、平和を造り出すことが求められているのです。20節の「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」は、旧約聖書の箴言25章21節と22節からの引用であります。飢えている人に食べさせる。渇いている人に飲ませる。これは愛の業の典型であります。敵とも呼べる自分を迫害する者であっても、愛の業を行いなさい。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになるというのです。「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。これには大きく二つの解釈があります。一つの解釈は、燃える炭火を神様の怒りとする解釈であります。親切にしてもらいながらも、なお、迫害するならば、それだけその人のうえに神様の怒りが積まれ、厳しい裁きを受けるようになると言うのです。二つ目の解釈は、燃える炭火を赤面するような恥ずかしい思いとする解釈であります。あなたに悪意を抱いている人であっても、親切にされれば、自分がしたことを恥ずかしく思って、もはや悪く言うことはないだろうという解釈であります。わたしは、二つ目の解釈の方がよいのではないかと思います。このパウロの言葉どおりの事が、かつてイスラエルの歴史に起こりました。列王記下の6章18節から23節までをお読みします。旧約の587ページです。

 アラム軍が攻め下って来たので、エリシャが主に祈って、「この異邦の民を打って目をくらましてください」と言うと、主はエリシャの言葉どおり彼らを打って目をくらまされた。エリシャは彼らに、「これはあなたたちの求める町ではない。わたしについて来なさい。あなたたちの捜している人のところへわたしが連れて行ってあげよう」と言って、彼らをサマリアに連れて行った。彼らがサマリアに着くと、エリシャは、「主よ、彼らの目が開いて見えるようにしてください」と言った。主が彼らの目を開かれ、彼らは見えるようになったが、見たのは自分たちがサマリアの真ん中にいるということであった。イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに、「わたしの父よ、わたしが打ち殺しましょうか。打ち殺しましょうか」と言ったが、エリシャは答えた。「打ち殺してはならない。あなたは捕虜とした者を剣と弓で打ち殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさい。」そこで王は彼らのために大宴会を催した。彼らは食べて飲んだ後、自分たちの主君のもとに帰って行った。アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった。

 敵に食べさせ、飲ませる愛の業によって、アラムの部隊のうえに赤面するような恥ずかしい思いが起こり、彼らは二度とイスラエルの地に来ませんでした。そのようにして、イスラエルとアラムの部隊のうえに平和が造り出されたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の292ページです。

 最後、21節を学んで終わりたいと思います。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。ここでの悪に負けるとは、悪に悪をもって返すようになる。相手が抱いている悪意に巻き込まれて、自分も悪意を抱くようになってしまうということであります。相手の悪に悪をもって返すとき、私たちは悪に負けてしまっているのです。しかし、私たちが相手の悪意に巻き込まれることなく、愛する対象として親切に振る舞うならば、私たちは悪に勝つことができるのです。私たちは愛されている者たちとして、善をもって悪に勝つこと、そのようにしてすべての人と平和に暮らすことが求められているのです。

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