一つの体を形づくる 2017年7月09日(日曜 朝の礼拝)

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一つの体を形づくる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 12章3節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
12:4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
12:5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
12:6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、
12:7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、
12:8 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。ローマの信徒への手紙 12章3節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエス・キリストを信じた私たちがどのように生きるべきかを学びました。1節、2節の御言葉から、キリストにおける新しい生活の原理・原則を学んだのであります。今朝はその続きである3節から8節までをご一緒に学びたいと願います。

 3節をお読みします。

 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。

 パウロは、1節で、「あなたがたに勧めます」と記しておりましたが、ここでは、「あなたがた一人一人に言います」と記しております。しかも、「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います」と記すのです。「わたしに与えられた恵み」とは、パウロがイエス・キリストによって、使徒とされたことです。パウロは、1章5節でこう記しておりました。「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」。パウロは、イエス・キリストの御名を広めて、異邦人を信仰の従順に導く使徒として、ローマの信徒たち一人一人に、また私たち一人一人に言うのです。使徒とは、復活のイエス・キリストの代理人として遣わされた者でありますから、パウロは、権威をもって、今朝の御言葉を記しているわけです。

 パウロは、ローマの教会にいる一人一人に、「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」と言います。新共同訳聖書の翻訳ですと分かりませんが、ここでパウロは「思う」という言葉を四度用いています。元の言葉から直訳しますとこうなります。「思うべきことを越えて思い上がってはならない。むしろ、神がそれぞれに分け与えてくださった信仰の量りのとおりに、健全な思いで思うべきである」。ここでパウロは、自分をどのように思うべきであるか、あるいは、互いをどのように思うべきであるのかを教えております。このようにパウロが記している背景には、教会における賜物の問題がありました。6節に、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」とありますように、パウロは、賜物を与えられている自分について、また、賜物を与えられている互いについて、どのように思えばよいのかを教えているわけです。

 パウロは、この手紙を紀元56年頃、コリントの町において記しました。使徒言行録の20章2節に、「ギリシアに来て、そこで三か月過ごした」とありますが、このとき、ローマの信徒への手紙は記されたと考えられております。パウロは、第三回宣教旅行の際、コリントに三か月滞在したとき、ローマの信徒への手紙を記したのです。コリントにも教会がありまして、そこでは、賜物によって優越感を抱いたり、あるいは逆に劣等感を抱いたりした人々がおりました。そのことがコリント教会で大きな問題となっていたのです(一コリント12~14章参照)。そのようなコリントの教会の現状を踏まえながら、パウロは、今朝の御言葉を記しているのです。

 パウロは、「自分を過大に評価してはなりません」と言います。新改訳聖書は、「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません」と翻訳しております。私たちには、それぞれ自分について思うべき限度がある。その思うべき限度を超えるとき、思い上げる、過大に評価することになるのです。私たちは、自分のことを過大に評価しがちですが、それが戒められているわけです。では、どのように思えばよいのか?パウロは、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべき」であると言います。この所を新改訳聖書は、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」と翻訳しています。「信仰の度合い」と訳されている言葉は、「信仰の量り」とも訳せる言葉であるのです(口語訳も参照)。「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」。このパウロの言葉を理解するための助けとなる御言葉は、ヨハネによる福音書3章34節であります。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が霊を限りなくお与えになるからである」。ここで「限りなくお与えになる」と訳されている言葉は、「量りを用いないで」という言葉であります。神様は、イエス・キリストには量りを用いないで、限りなく霊をお与えになりました。けれども、イエス・キリストを信じる私たちには、量りを用いて、霊を与えられたのです。そのことが、今朝の御言葉で、「信仰の量り」と言い表されているのです。ですから、ここでの「信仰」は「聖霊」のことであるのです。そもそも、聖霊と信仰は一体的な関係にあります。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」とありますように、聖霊と信仰は一体的な関係にあるのです(一コリント12:3)。神様は信仰の量りに応じて、聖霊の賜物をそれぞれに分け与えてくださいました。ですから、私たちは自分を、また互いを慎み深く評価すべきであるのです。神様が信仰の量りに応じて与えてくださったのですから高ぶったりせずに、いただいた者として慎み深く思うべきであるのです。

 4節、5節をお読みします。

 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。

 パウロは、私たちが自分を慎み深く考える理由として、私たち教会が、キリストに結ばれた一つの体であることを記します。私たちの体は、目や耳、手や足といった多くの部分から成り立っています。それぞれの部分はそれぞれに異なった働きを担っているわけです。そのように、キリストの体である教会も、賜物の異なる多くの人々から成り立っているのです。パウロは、「教会はキリストの体である」と言っておりますが、これは彼自身が栄光のイエス・キリストから教えられたことでありました。使徒言行録9章を読みますと、パウロがダマスコ途上において栄光の主と出会ったことが記されています。栄光の主イエスは、教会を迫害していたパウロに対して、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と仰せになりました。教会を迫害すること、それは主イエスを迫害することであるのです。なぜなら、教会は、キリストの体であるからです。私たちは、イエス・キリストを信じて、洗礼を受けるということによって、キリストの体である教会の一員とされました(ローマ6:3参照)。そのようにして私たちはキリストの体の部分とされたのです。ですから、私たちはそれぞれに神様から分け与えられている賜物を、互いのために用いることが求められているのです。そのとき、私たちは互いの賜物を喜び合うことができるのです。

 6節から8節までをお読みします。

 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物をもっていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

 パウロは、3節で、「わたしに与えられた恵みによって」と記しましたが、ここでは、すべてのローマの信徒たちが、神様から恵みを与えられて、それぞれ異なった賜物を持っていると記します。恵みはギリシャ語でカリスと言います。そして、賜物はカリスマと言います。恵みと賜物は密接な関係にあるわけです。日本語でも「賜物」とは「たまわったもの。くだされたもの」を意味します(広辞苑)。私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているのです。賜物をもっていない人は、だれもいないのです。パウロは、ここで具体的な賜物をあげておりますが、これは、どのような視点からあげられているのでしょうか?それは、キリストの一つ体を形づくるという視点によってであります。キリストに結ばれている私たちを一つの体として形づくり、保ち続ける。そのための賜物が、ここに記されているのです。「預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し」とあります。この預言の賜物についてだけ、「信仰に応じて」とあります。預言とは、今で言えば、聖書の説き明かしである説教のことであると言えます。私は預言の賜物、説教の賜物を持っている者として、この「信仰に応じて」という言葉を読んで、妙に納得してしまったのです。「説教には、その説教者の信仰が出る」と言われます。説教を聞けば、その説教者が聖書をどのように理解しているのか、神様を、イエス様をどのように信じているかが分かってしまうというのです。私も説教の賜物を持っている者の一人として、他の説教の賜物を持っている者と自分を比べて、優越感を持ったり、劣等感を持ったりすることがあります。羽生栄光教会において、御言葉の教師は私一人ですが、東部中会には、30数名の教師がおり、大会には、120名ほどの教師がいるわけです。そのような教師たちの集まりにいますと、やはり自分と他人とを比べて、いろいろ考えるわけです。私にも「あの人のように語りたい」という理想とする説教者がおりますが、しかし、説教も自分の信仰に応じてしか語れないということを思わされたのです。それは、あきらめではなくて、私は私でよいのだ、ということであります。このことは、預言の賜物だけではなくて、続く奉仕や、教え、勧め、施し、指導、慈善といったすべての賜物においても言えることであるのです。奉仕にも様々な奉仕があります。私たちの教会で言えば、奏楽の奉仕があります。礼拝当番の奉仕があります。伝道委員会の奉仕があります。伝道委員会に入らなくても、特別伝道集会の看板のヒモ通しや掲示、チラシ配布などの奉仕があります。また、会堂掃除やトイレ掃除の奉仕があります。会堂のお花の奉仕、説教題を書く奉仕、床のワックスがけや除草作業などの奉仕もあります。教える奉仕にも、教会学校の先生としての奉仕、中高生を教える奉仕などがあります。そのような奉仕の賜物を持っている人は、そこに専念するようにとパウロは記すのです。ここでパウロが言いたいことは、私たち一つの体を形づくっている者たちとして、それぞれに与えられている賜物に専念すればよいということです。

 8節の施し、指導、慈善の賜物については、それをどのように行うべきかが記されています。「施しをする人は惜しまず施し」とありますが、ここで「惜しまず」と訳されている言葉は、「単純に」とも訳せる言葉であります。施しをする人は、それによって自分にどのような益があるのかなどと考えずに、単純に施すことが求められているのです。また、指導する人は、熱心に指導することが求められています。それは相手の救いを求める熱心でありますね。そのような意味で神様から与えられる熱心であります。また、「慈善を行う人は快く行いなさい」とあります。慈善とは憐れみの業ですが、新改訳聖書は「喜んでしなさい」と翻訳しています。カルヴァンは、この所を解説して、「慈善を行うときは、喜びをもって明るい顔でするようにしなさい。そうしないと、慈善を受ける側は侮辱された思いになる」という主旨のことを言っておりました。これは人のお世話をするときや病人を訪問するときに、忘れてはならないことだと思います。重い病の人を訪問するとき、どのような顔をして訪問すればよいのか分からないことがありますけれども、その人にお会いできたことを先ず喜んで、明るい顔で訪問したいと思うのです。

 今朝の御言葉で、パウロが記している賜物の多くは、時代を経て、職務として担われていくことになります。私たちの教会で言えば、教える賜物は牧師に、指導する賜物は長老に、奉仕の賜物は執事にと担われていくわけです。しかし、それは、牧師、長老、執事ではない信徒が賜物を与えられていないということでは決してありません。私たちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているのです。その賜物を慎み深く思い、一つの体を形づくるために用いていきたいと願います。また、用いていただきたいと願います。

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