主に向かって嘆きの叫びをあげよ 2020年5月03日(日曜 朝の礼拝)

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主に向かって嘆きの叫びをあげよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨエル書 1章1節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 ペトエルの子ヨエルに臨んだ主の言葉。
1:2 老人たちよ、これを聞け。この地に住む者よ、皆耳を傾けよ。あなたたちの時代に、また、先祖の時代にも/このようなことがあっただろうか。
1:3 これをあなたたちの子孫に語り伝えよ。子孫はその子孫に/その子孫は、また後の世代に。
1:4 かみ食らういなごの残したものを/移住するいなごが食らい/移住するいなごの残したものを/若いいなごが食らい/若いいなごの残したものを/食い荒らすいなごが食らった。
1:5 酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた。
1:6 一つの民がわたしの国に攻め上って来た。強大で数知れない民が。その歯は雄獅子の歯、牙は雌獅子の牙。
1:7 わたしのぶどうの木を荒らし/わたしのいちじくの木を引き裂き/皮を引きはがし、枝を白くして投げ捨てた。
1:8 泣き悲しめ/いいなずけに死なれて/粗布をまとうおとめのように。
1:9 献げ物の穀物とぶどう酒は主の宮から断たれ/主に仕える祭司は嘆く。
1:10 畑は略奪され、地は嘆く。穀物は略奪され/ぶどうの実は枯れ尽くし/オリーブの木は衰えてしまった。
1:11 農夫は恥じ、ぶどう作りは泣き叫ぶ。小麦と大麦、畑の実りは失われた。
1:12 ぶどうの木は枯れ尽くし、いちじくの木は衰え/ざくろも、なつめやしも、りんごも/野の木はすべて実をつけることなく/人々の楽しみは枯れ尽くした。
1:13 祭司よ、粗布を腰にまとって嘆き悲しめ。祭壇に仕える者よ、泣き叫べ。神に仕える者よ、粗布をまとって夜を明かせ。献げ物の穀物とぶどう酒は、もはや/あなたたちの神の宮にもたらされることはない。
1:14 断食を布告し、聖会を召集し/長老をはじめこの国の民をすべて/あなたたちの神、主の神殿に集め/主に向かって嘆きの叫びをあげよ。
1:15 ああ、恐るべき日よ/主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る。
1:16 わたしたちの目の前から食べ物は断たれ/わたしたちの神の宮からは/喜びも踊ることもなくなったではないか。
1:17 種は乾いた土の下に干からび/穀物は枯れ尽くし/倉は荒れ、穀物倉は破壊された。
1:18 なんという呻きを家畜はすることか。牛の群れがさまよい/羊の群れが苦しむのは/もはや、牧草がどこにもないからだ。
1:19 主よ、わたしはあなたを呼びます。火が荒れ野の草地を焼き尽くし/炎が野の木をなめ尽くしたからです。
1:20 野の獣もあなたを求めます。流れの水は涸れ/火が荒れ野の草地を焼き尽くしたからです。ヨエル書 1章1節~20節

原稿のアイコンメッセージ

序.ヨエルに臨んだ主の言葉

 今朝は、『ヨエル書』第1章1節から20節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 1節に、「ペトエルの子ヨエルに臨んだ主の言葉」とあります。「ヨエル」という名前は、「ヤハウェは神」という意味です。ヨエルがいつ頃、この書物を記したのかについては、諸説があります。私としては、「バビロン捕囚後の神殿が再建された紀元前5世紀頃」という説を取りたいと思います。そうしますと、『ヨエル書』は十二小預言書の中でも、比較的新しい書物であると言えます。十二小預言書の最後の書物は『マラキ書』ですが、『ヨエル書』はその少し前に記された書物であるのです。

1.バッタによる荒廃

 2節から4節までをお読みします。

 老人たちよ、これを聞け。この地に住む者よ、皆耳を傾けよ。あなたたちの時代に、また、先祖の時代にも/このようなことがあっただろうか。これをあなたたちの子孫に語り伝えよ。子孫はその子孫に/その子孫は、また後の世代に。かみ食らういなごの残したものを移住するいなごが食らい/移住するいなごの残したものを/若いいなごが食らい/若いいなごが残したものを/食い荒らすいなごが食らった。

 ヨエルは老人たちも経験したことがなく、先祖の時代にもなかった「このようなこと」を子孫たちに語り伝えよと記します。「このようなこと」とは、大量のバッタによって農作物が徹底的に食い荒らされたことです。新共同訳聖書は「いなご」と翻訳していますが、新しい翻訳聖書(聖書協会共同訳)は「ばった」と翻訳しています。その理由として、「いなごは日本特有の種を指すので、誤訳であるとの指摘を長く受けてきたこと」があげられています。実際、バッタはイナゴよりも倍ほど大きいそうです(バッタ5㎝、イナゴ3㎝)。また、イナゴは食べられますが、バッタは食べられないとのことです。現在、アフリカ東部でも、バッタが大量発生して、農作物を食い荒らすという被害が出ています(2月2日ソマリア政府、国家非常事態宣言)。サバクトビバッタは、小さな群れでも、一日で3万5000人分もの食糧を食い荒らすそうです。「バッタによる荒廃」は過去の話ではなく、現代の大問題でもあるのです。ユダの人々にとって、バッタによる荒廃は、『出エジプト記』の第10章に記されている「ばったの災い」を思い起こさせました。そこには、バッタの大群が「地の全面を覆ったので、地は暗くなり、地のすべての草、雹を免れたすべての木の実を食い尽くした。エジプト全土には木も野の草も、緑のものは一つも残らなかった」と記されています(聖書協会共同訳『出エジプト記』10:15)。そのような災いがユダの国に起こったのです。ここで、私たちが見落としてはならないことは、ヨエルがバッタによる荒廃を、主なる神さまの御手から受け取っていることです。このことは、神さまが御心のままにすべてのことを保ち、統べ治めておられると信じるならば、当然の帰結であると言えます。ハイデルベルク信仰問答は、問27で「神の摂理について、あなたは何を理解していますか」と問い、次のように告白しています。「全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって/今なお保ち支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって/わたしたちにもたらされるのです」。この摂理の信仰をもって、ヨエルはバッタによる荒廃を主の御手から受け取ったのです。また、ヨエルは、バッタによる荒廃を、ユダの人々の罪に対する刑罰として受け取りました。『申命記』の第28章にある呪いの一つにこう記されています。「畑に多くの種を携え出ても、いなごに食い尽くされて、わずかの収穫しか得られない。ぶどう畑を作って手を入れても、虫に実を食われてしまい、収穫はなく、ぶどう酒を飲むことはできない」(申命28:38,39)。ヨエルは、ユダの人々が神さまの命じる掟を忠実に守らないので、バッタによる荒廃がもたらされたと理解しました。それゆえ、ヨエルはユダの人々に悔い改めを求めるのです。

2.主に向かって嘆きの叫びをあげよ

 5節から14節までをお読みします。

 酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた。一つの民がわたしの国に攻め上って来た。強大で数知れない民が。その歯は雄獅子の歯、牙は雌獅子の牙。わたしのぶどうの木を荒らし/わたしのいちじくの木を引き裂き/皮を白くして投げ捨てた。泣き悲しめ/いいなずけに死なれて/粗布をまとうおとめのように。献げ物の穀物とぶどう酒は主の宮から断たれ/主に仕える祭司は嘆く。畑は略奪され、地は嘆く。穀物は略奪され/ぶどうの実は枯れ尽くし/オリーブの木は衰えてしまった。農夫は恥じ、ぶどう作りは泣き叫ぶ。小麦と大麦、畑の実りは失われた。ぶどうの木は枯れ尽くし、いちじくの木は衰え/ざくろも、なつめやしも、りんごも/野の木はすべて実をつけることなく/人々の楽しみは枯れ尽くした。祭司よ、粗布を腰にまとって嘆き悲しめ。祭壇に仕える者よ、泣き叫べ。神に仕える者よ、粗布をまとって夜を明かせ。献げ物の穀物とぶどう酒は、もはや/あなたたちの神の宮にもたらされることはない。断食を布告し、聖会を召集し/長老をはじめこの国の民をすべて/あなたたちの神、主の神殿に集め/主に向かって嘆きの叫びをあげよ。

 6節で、バッタがユダの国に攻め上る軍隊に譬えられています。実際、バッタは、隊を組んで一斉に出動するのです(箴30:27参照)。また、バッタの歯が雄獅子の歯に譬えられています。バッタはその歯によって、ぶどうの木を荒らし、いちじくの木を引き裂くのです。バッタの襲来によって、穀物も果物も略奪され、その作り手たちは泣き叫びます。そのようにして、人々の楽しみは枯れ尽くしてしまったのです。ヨエルは、13節で、「祭司よ、粗布を腰にまとって嘆き悲しめ」と言います。それは、朝と夕に献げる穀物とぶどう酒がもはやないからです。日ごとの献げ物をささげられないことは、イスラエルにとって、神さまとの関係が断たれてしまう危機的な状況でした。このような危機的な状況において、ヨエルは祭司たちに、「断食を布告し、聖会を召集し/長老をはじめこの国の民をすべて/あなたたちの神、主の神殿に集め/主に向かって嘆きの叫びをあげよ」と言うのです。「断食を布告し」と訳されている言葉は、もとの言葉を直訳すると「断食を聖別し」となります(口語訳参照)。食べる物がないから断食するのではなくて、神さまのために断食することが命じられているのです。断食はへりくだりと嘆きの表現であります。そのような断食をして、国民全体が神殿に集まり、主に向かって嘆きの叫びを上げよ、とヨエルは言うのです(列王上8:37~40参照)。

3.主の日が近づく

 15節から20節までをお読みします。

 ああ、恐るべき日よ/主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る。わたしたちの目の前から食べ物は断たれ/わたしたちの神の宮からは喜びも躍ることもなくなったではないか。種は渇いた土の下に干からび/穀物は枯れ尽くし/倉は荒れ、穀物倉は破壊された。なんという呻きを家畜はすることか。牛の群れがさまよい/羊の群れが苦しむのは/もはや、牧草がどこにもないからだ。主よ、わたしはあなたを呼びます。火が荒れ野の草地を焼き尽くし/炎が野の木をなめ尽くしたからです。野の獣もあなたを求めます。流れの水は涸れ/火が荒れ野の草地を焼き尽くしたからです。

 17節に「種は乾いた土の下に干からび/穀物は枯れ尽くし」とあり、20節にも「流れの水は涸れ」とありますから、干ばつによる被害も生じていたようです。19節と20節で、「バッタ」が「火」や「炎」に譬えられていますが、ユダの国を襲ったのは大量のバッタと長い間雨が降らない干ばつであったのです。そのような危機的な状況から、ヨエルは、「ああ、恐るべき日よ/主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る」と言うのです。ヨエルは、大量のバッタと干ばつを、主の日の到来の前兆と見做しているのです。主の日とは、「主なる神さまが歴史に介入される日」のことです。主の日は、神の民イスラエルにとって救いの日であり、異邦人にとって滅びの日であると考えられていました(イザヤ13:6参照)。けれども、後に、主の日は、神の民イスラエルにとっても、裁きの日として語られるようになります。預言者アモスはこのように語っています。「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない」(アモス5:18)。主の日がイスラエルにとっても闇であるのは、イスラエルが正義を行っていないからです。ここで、ヨエルも、主の日を恐るべき日、全能者による破滅の日と呼んでいます。ヨエルは、バッタによる荒廃と干ばつによる危機的な状況において、主の日は全能者による破滅の日として来ると警告するのです。

結.新型コロナウイルスという災いの中で

 私たちは、今、新型コロナウイルス感染症拡大という災いの中にあります。私たちはイエス・キリストを信じる者として、この災いをも、父なる神さまの御手から受け取りたいと思います。ヨエルは、バッタの災いを律法違反に対する刑罰であると理解しましたが、私たちキリスト者は、そのように考えてはなりません。なぜなら、イエス・キリストが私たちに代わって、律法の呪いをあますところなく受けてくださったことを知っているからです(ガラテヤ2:13「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」参照)。しかし、そのことは、この世に起こる災いが罪に対する刑罰ではないことを意味していません。なぜなら、この世はイエス・キリストを受け入れようとしない世であるからです。そのような神に敵対する世に住んでいながらも、私たちキリスト者が、災いを罪に対する刑罰ではないと信じることができるのは、イエス・キリストの十字架が自分の身代わりであったと信じているからです。では、私たちキリスト者は、災いをどのように受けとめたらよいのでしょうか。一つの解釈は、今朝の御言葉で教えられているように、悔い改めの招きとして受けとめるということです。私たちにも、断食して、自分の罪を嘆き悲しむことが求められているのです。もう一つの解釈は、神さまからの試練(訓練)として受けとめるということです。父なる神さまは、私たちを救いにあずからせる目的で試練に遭わせられます(ヘブライ12:10「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」参照)。兄弟姉妹が集まって礼拝をささげることができない。これは、私たち一人一人にとっても、教会にとっても大きな試練(訓練)です。そのような訓練を受けている者として、私たちは、今週も神さまとイエス・キリストを信じて歩んでいきたいと願います。そして、神さまがこの災いを収束させてくださるように嘆きの叫びをあげたいと願います。

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