偽教師についての警告 2020年4月19日(日曜 朝の礼拝)

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偽教師についての警告

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ユダの手紙 1章8節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:8 しかし、同じようにこの夢想家たちも、身を汚し、権威を認めようとはせず、栄光ある者たちをあざけるのです。
1:9 大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。
1:10 この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します。
1:11 不幸な者たちです。彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。
1:12 こういう者たちは、厚かましく食事に割り込み、わが身を養い、あなたがたの親ぼくの食事を汚すしみ、風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、
1:13 わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星です。
1:14 アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。
1:15 それは、すべての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちのすべての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためである。」
1:16 こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。ユダの手紙 1章8節~16節

原稿のアイコンメッセージ

序.前回の振り返り

 2月9日の夕べの礼拝で、『ユダの手紙』の1節から7節までを御一緒に学びました。そのときに申しましたが、ユダの手紙は、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧める手紙であります。4節にあるように、不信心な者たちは、神の恵みをみだらな楽しみに変え、唯一の支配者である主イエス・キリストを否定していました。このような不信心な者たちへの裁きは昔から記されております。特に、みだらな行いにふけったソドムに対する裁きは有名で、後の世代に対する見せしめとなりました。しかし、偽教師たちは、その意味をまったく理解していなかったのです。

 今朝の御言葉はその続きとなります。

1.夢想家たち

 8節から11節までをお読みします。

 しかし、同じようにこの夢想家たちも、身を汚し、権威を認めようとはせず、栄光ある者たちをあざけるのです。大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します。不幸な者たちです。彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。

 「不信心な者たちは裁きを受ける」と昔から書かれているにもかかわらず、偽教師たちは、身を汚し、権威を認めず、栄光ある者たちをあざけっていました。ここでユダは、偽教師たちのことを「夢想家たち」と呼んでいます。「夢想家たち」とは「夢を見る者たち」であり、彼らは夢によって特別な啓示を受けたと主張していたようです。偽教師たちは、夢によって与えられた特別な啓示に基づいて、身を汚し、権威を認めず、栄光ある者たちをあざけっていたのです。「身を汚し」とは、結婚関係にない異性と肉体関係を持つことです(一コリント6:18「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯している」参照)。また、「権威を認めない」とは、4節の後半に記されていたように、唯一の支配者であり、私たちの主であるイエス・キリストを否定していることです。さらに、「栄光ある者たちをあざける」とは、神に仕える天使たちをあざけることです。なぜ、偽教師たちは、天使たちをあざけったのでしょうか。ある研究者は、「律法が天使たちの手を経て与えられたからだ」と説明していました(使徒7:53、ヘブライ3:19参照)。偽教師たちは、律法からの自由を放縦と履き違えて、みだらな楽しみにふけっていました。偽教師たちにとって、律法は価値のないものであったのです。それで、偽教師たちは、その律法の仲介者である天使たちをあざけったと言うのです。理由はどうであれ、神さまの使いである天使たちは栄光ある者たちであり、その天使たちをあざけることは神さまをあざけることであるのです。

 9節に、大天使ミカエルが、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったことが記されています。このようなことは、聖書には記されていません。外典の『モーセの遺言』という書物に記されているようです。『申命記』の第34章に、モーセの死について記されています。その6節にこう記されています。「主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」。『モーセの遺言』という外典によれば、大天使ミカエルはモーセの遺体を葬ろうとするのですが、悪魔はモーセがひとりのエジプト人を殺したゆえに、天使によって葬られる名誉に値しないと主張したのです(出エジプト2:12参照)。そのとき、大天使ミカエルは、ののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言ったのです。「主がお前を懲らしめてくださるように」。この天使の言葉は、『ゼカリヤ書』の第3章2節で、主の御使いがサタンに言った言葉です。主の御使いは、大祭司ヨシュアを訴えるサタンにこう言いました。「サタンよ、主はお前を責められる」。このように『ゼカリヤ書』においても、主の御使いは、相手をののしって裁こうとせず、主の裁きにゆだねたのです。主の御使い、大天使であるミカエルでもそうなのです。しかし、偽教師たちは、相手をののしって裁いていたのです。そのような偽教師たちについてユダはこう記します。「この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します。不幸な者たちです」。少し先の19節にあるように、偽教師たちは、「霊を持たない者たちです」。彼らは肉の人、生まれながらの人間であり、神の霊を持っていません。それゆえ、彼らは神さまのことを知らないのです。その知らないことを彼らはののしっているのです。そして、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって、滅んでしまうのです。「本能的に知っている事柄」とはみだらな行いであり、肉欲のことでしょう。偽教師たちは肉欲によって滅んでしまう不幸な者たちであるのです。

 11節の後半で、ユダは偽教師たちがどのような者であるかを旧約聖書を用いて説明しています。第一に、偽教師たちは「カインの道」をたどっています。カインについては、『創世記』の第4章に記されています。カインは罪を支配することができず、罪に支配されて弟のアベルを殺しました。そして、呪われる者となったのです。偽教師たちは、間違った教えによって主にある兄弟姉妹の魂を殺す、呪われる者の道を歩んでいるのです。第二に、偽教師たちは、金もうけのために「バラムの迷い」に陥っています。バラムについては、『民数記』の第22章から第24章までに記されています。バラムは神の民イスラエルを呪うことができなかったので、金もうけのために、ミディアン人の女たちを唆して、イスラエルに罪を犯させました(民数25:1,2、31:16、黙示2:14参照)。偽教師たちは、金もうけのために、神の民である教会を惑わせていたのです。第三に、偽教師たちは、「コラの反逆」によって滅んでしまいます。「コラの反逆」については『民数記』の第16章に記されています。そこには、コラが徒党を組んで、モーセとアロンに逆らったことが記されています。モーセとアロンに逆らうことは、彼らを立てた神さまに逆らうことでありました。それゆえ、コラとその仲間たちは、生きたまま大地に飲み込まれ滅んでしまったのです。偽教師たちは主イエスによって立てられた指導者たちに逆らうことによって、主イエスに逆らい、滅んでしまうのです。

2.親ぼくの食事を汚すしみ

 12節と13節をお読みします。

 こういう者たちは、厚かましく食事に割り込み、わが身を養い、あなたがたの親ぼくの食事を汚すしみ、風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こそぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちうける迷い星です。

 ユダは、偽教師たちを「あなたがたの親ぼくの食事を汚すしみ」と言っています。ここで「親ぼくの食事」と訳されている言葉は「アガペー」で「愛」と訳される言葉です。この食事は主にある愛の交わり、愛餐であるのです。初代教会において、主の晩餐の礼典は、食卓の交わりの中で行われていました(一コリント11章参照)。偽教師たちは主イエス・キリストを恐れることなく食卓に連なり、わが身を養っていたのです。『エゼキエル書』の第34章に、「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは」とありますが、偽教師たちの関心は、何よりもわが身を養うことにあるのです(エゼキエル34:2)。そのような偽教師たちによって、主にある親ぼくの食事と主の晩餐が汚されていたのです。もし、私たちが放縦な生活をする者を主の晩餐にあずからせたら、どうでしょうか。それこそ、私たちの主にある交わりは汚されてしまうのです。そのようなことがないように、小会には、罪を犯した者に陪餐停止を命じる権能が与えられているのです(一コリント5章参照)。

 ユダは、偽教師たちを四つのものに譬えています。第一に、偽教師たちは、風に追われて雨を降らさぬ雲に似ています。彼らは教会に何の益ももたらさないのです。第二に、偽教師たちは、実らず根こそぎにされ枯れ果ててしまった晩秋の木に似ています。彼らは聖霊の実を何一つ結びません。それは彼らが主イエス・キリストにつながっておらず、霊的に死んでいるからです。第三に、偽教師たちは、わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波に似ています。彼らは、自分の恥を口にして、教会の交わりを損なうのです。第四に、偽教師たちは、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星に似ています。彼らは主の道から迷い出て、永遠の暗闇へと落ちていくのです。

3.不信心な者たちへの裁き

 14節から16節までをお読みします。

 アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。それは、すべての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちのすべての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためである。」こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。

 ここで、ユダは外典である『第一エノク書』を引き合いに出しています。この手紙の宛先である教会では、外典もよく読まれていたようです。エノクについては、『創世記』の第5章に記されています。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世5:24)とあるように、エノクは死を経験せずに、神さまのもとへ召された人物でした。エノクの預言の「聖なる者たち」とは天使たちのことですね。偽教師たちは、天使たちをあざけっていました。しかし、主は、多くの天使たちを引き連れて来られるのです。それは、すべての人を裁くため、ことに不信心な者たちを責めるためであります。15節に、「不信心」という言葉が三度記されています。不信心とは「不敬虔」のことで、「神を畏れない」ことです。主は御自分を畏れない者たちの行動と言葉を責め、罰を与えられるのです。ここに記されていることは、『申命記』の第33章2節にも記されています。「主は千(ち)よろずの聖なる者を従えて来られる。その右の手には燃える炎がある」。また、『ゼカリヤ書』の第14章5節にもこう記されています。「わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に/あなたのもとに来られる」。このような旧約の預言を受けて、イエスさまは、「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」と言われたのです(マタイ16:27)。ですから、多くの天使たちを引き連れて、不信心な者たちに罰を与える主とは、主イエス・キリストのことであるのです(黙示19:11~17参照)。偽教師たちは唯一の支配者である主イエス・キリストの権威を認めませんでした。しかし、その主イエス・キリストが彼らを裁いて、罰を与えられるのです。

 16節に、偽教師たちがどのような者たちであるかが改めて記されています。『新共同訳聖書』は、「自分の運命について」と記していますが、元の言葉には「自分の運命について」という言葉はありません。おそらく、補足として加えたのでしょう。偽教師たちは不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大きなことを言って、利益のために人にこびへつらいます。このような不信心な者たちを、やがて来られる栄光の主イエス・キリストは必ず罰せられるのです。

 このような偽教師についての警告は、御言葉の教師である私にとって、自己吟味を迫られる御言葉であります。自分も「カインの道」をたどり、「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのではないか。あるいは、自分も不平不満を鳴らし、欲望のままに振るまい、大きなことを言って、利益のために人にへつらっているのではないか。そのような自己吟味を迫られるのです。そして、そのことは、御言葉の教師だけではなくて、主の晩餐にあずかっているすべての信徒に求められるのです。そのような自己吟味を経て、私たちは信仰と悔い改めをもって、主の晩餐にこれからもあずかりたいと願います。

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