神の力に生きる教会 2021年1月03日(日曜 朝の礼拝)

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神の力に生きる教会

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ネヘミヤ記 7章72節~8章12節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:72 第七の月になり、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、
8:1 民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。
8:2 祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。
8:3 彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。
8:4 書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立ち、その右にマティトヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが、左にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカルヤ、メシュラムが立った。
8:5 エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。
8:6 エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
8:7 次いで、イエシュア、バニ、シェレブヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、ヨザバド、ハナン、ペラヤというレビ人がその律法を民に説明したが、その間民は立っていた。
8:8 彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。
8:9 総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。
8:10 彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
8:11 レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」
8:12 民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。

ネヘミヤ記 7章72節~8章12節

原稿のアイコンメッセージ

序.年間聖句、年間テーマ

 今朝は、2021年最初の礼拝であります。新年の最初の礼拝では、年間聖句からお話ししています。今年の年間聖句は、『ネヘミヤ記』の第8章10節、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」であります。また、年間テーマは、「神の力に生きる教会」であります。今朝の説教題は、「年間テーマ」と同じであります。昨年から、コロナウイルス感染症の拡大に伴い、教会の活動も様々な制約を受けています。そのような状況にあって、明らかになったことは、「教会とは礼拝共同体である」ということです。教会のアイデンティティー(自己の存在証明)は、礼拝にあるということです。私たちは、イエス・キリストによって贖われた神の民として、主の日ごとに礼拝に集い、神さまからの祝福と力をいただいているのです。そのことを、今朝は、『ネヘミヤ記』の第8章の御言葉から、御一緒に教えられたいと願います。

1.エズラ、律法を朗読する

 「第七の月になり、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民は皆、水の門にある広場に集まって一人の人のようになった」とあります。第七の月は、イスラエルの暦では、新年(正月)にあたります(イスラエルはその歴史において、春と秋に新年を祝っていた)。しかも、この日は一日(元旦)でありました。『レビ記』の第23章24節に、「第七の月の一日は安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい」と記されています。この主の御言葉に従って、イスラエルの人々は、第七の月の一日に、水の門にある広場に集まって一人の人のようになったのです。「一人の人のようになった」とは、烏合の衆として集まったのではなくて、一つの神の民として集まったということであります。このイスラエルの人々は、捕囚の地バビロンから帰って来た人々であります(『エズラ記』と『ネヘミヤ記』は、バビロン捕囚後のイスラエルの歴史について記している書物)。このとき、彼らは、すでに神殿と城壁を再建して、それぞれの町に住んでいました。そのイスラエルの人々が、聖なる集会を持つために、エルサレムの水の門の広場に集まって来たのです。彼らは、祭司であり、書記官であるエズラに、モーセの律法の書を持って来るように求めました。ここで注意したいことは、イスラエルの人々が、エズラに、モーセの律法を持って来て、読むことを求めたということです。エズラが、イスラエルの人々に、無理矢理、モーセの律法を読み聞かせたのではなくて、イスラエルの人々がそのことを求めたのです。そして、エズラは、会衆に向かって、夜明けから正午までのおよそ6時間、モーセの律法の書を読み上げたのです。そして、民は皆、その律法の書に耳を傾けたのです。

 4節から8節には、エズラが律法の書を読み上げた様子が詳しく記されています。「書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立ち」とありますが、この「木の壇」を作ったのも、イスラエルの人々でありました。エズラが作ったのではなくて、律法の書の朗読を聞きたいと願ったイスラエルの人々が作ったのです。エズラはその木の壇の上に立ったのです。その右には、マティトヤを始めとする6人が、その左には、ペダヤを始めとする7人が立っていました。この人たちについてはよく分かりませんが、おそらく祭司であり、エズラと交代して、律法を朗読したのでしょう。エズラひとりで、夜明けから正午まで、律法を読むことは肉体的にも不可能であったと思います。今と違って、マイクがあるわけではありませんから、大声で朗読したはずです。ですから、エズラの右と左にいる人たちと、代わる代わる、律法を朗読したと考えられるのです。木の壇に立ったエズラは人々よりも高い所にいたので、人々からその姿がよく見えました。エズラがモーセの律法の書を開くと、民は皆、立ち上がりました。イスラエルの人々は、基本的に立って、礼拝をささげていたのです。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を広げて、「アーメン、アーメン」と唱和しました。「アーメン」とは、「真実です」とか「そのとおりです」という意味のヘブライ語であります。イスラエルの人々は、エズラの祈りに「アーメン、アーメン」と言うことによって、エズラの祈りを自分たちの祈りとしたのです。そして、彼らはひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝したのです。

 この聖なる集会は、律法をただ朗読しただけではありませんでした。イエシュアに始まるレビ人が、律法を民に説明したのです。その間も、イスラエルの人々は立っていました。私たちは、聖書の朗読とその解き明かしである説教を聴くとき、座って聞いています。しかし、イスラエルの人々は、立って、御言葉に耳を傾けていたのです。レビ人は、神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げました。神の律法の書は、ヘブライ語で記されていますが、イスラエルの人々はアラム語(当時の公用語)を用いていました。バビロン捕囚の期間が70年と言われますから、多くの人々は、ヘブライ語が分からなかったのです(エレミヤ25:11参照)。それで、レビ人が翻訳をして、意味を明らかにしながら読み上げたのです。聖書朗読と説教を織り交ぜながら、礼拝は行われたのです。それで、人々はその朗読されたことを理解したのでありました。

2.律法を理解した人々の反応

 律法の朗読を理解した人々は、どのような反応を示したのでしょうか。彼らは、嘆いたり、泣いたりしたのです(列王下22:19参照)。イスラエルの人々は、自分たちの身に降りかかった災いが、自分たちの罪に対する報いであることを知って、嘆き、涙を流したのです。ここで、エズラが読み上げたモーセの書は、『創世記』、『出エジプト記』、『レビ記』、『民数記』、『申命記』の、いわゆるモーセ五書であると考えられています。もちろん、6時間で、すべてを朗読することはできませんから、重要なところだけを読み上げたのでしょう。エズラは、モーセ五書に記されている、神とイスラエルの歴史を朗読し、レビ人はそれを解き明かしたのです。神とイスラエルの歴史、それは、イスラエルの民が、神に背き続けた歴史でありました。その先祖の歴史を、人々は自分たちの歴史として受け入れ、自分たちの罪を嘆き、涙を流したのです。その人々の心が、第9章に記されているレビ人の祈りの中に記されています。私たちは、第9章のレビ人の代表祈祷から、エズラが朗読した律法がどのようなものであったかを知ることができます。また、律法の朗読を聞いて、嘆き、涙を流したイスラエルの人々の心を知ることができるのです。

 律法の朗読を聞いて、嘆き、涙を流すイスラエルの人々に、エズラは、レビ人と共に、こう言いました(「総督ネヘミヤ」はおそらく後代の加筆と思われる。10節の「彼らは更に言った」の「彼ら」は原文では「彼」であることもそのことを支持する)。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」。更に、エズラはこう言いました。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である」。ここで、エズラは、「悲しむな。むしろ、喜べ」と言います。それは、主が罪を赦し、恵みを与えてくださる御方であるからです。自分たちの罪に心を向けるとき、私たちにできることは、嘆くことだけです。しかし、罪を赦し、恵みを賜る主に心を向けるならば、私たちは喜ぶことができるのです。確かに、イスラエルの人々は、主に背いて大きな罪を犯しました。その結果、バビロン帝国によって、エルサレムは滅ぼされたのです。神殿と城壁は破壊され、おもだった人々は、バビロンの地に連れ去られたのです。しかし、主は、そのバビロンの地からイスラエルの人々を連れ戻してくださいました。そして、神殿と城壁を再建させてくださり、新しい年の最初の日に、聖なる集会を開かせてくださったのです。「そのような主の恵みをいただいているのだから、あなたたちは悲しんではならない」とエズラは言うのです。そして、「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である」と言うのです(聖書協会共同訳「主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ」、新改訳2017「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」参照)。私たちを神の民として生かす力は、私たちの内からは出て来ません。私たちを神の民として生かす力は、主を喜び祝う礼拝において、上から与えられるのです。

 イスラエルの民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝いました。その理由を、聖書は、「教えられたことを理解したからである」と記しています。人々が律法の朗読を理解したとき、彼らは嘆き、悲しみました。それは、自分たちの罪に心を向けてのことでありました。これは大切なことですが、そこで終わってはなりません。そこで終わってしまうならば、彼らはまだ理解の途上にあるのです。教えられたことを本当に理解したとき、彼らは、大いに喜んだのです。主を喜び祝い、上からの力を与えられたのです。そして、その喜びが良い肉を食べ、甘い物(ぶどう酒)を飲み、それを分かち合うという仕方で、具体的に示されたのです。

3.神の力に生きる教会

 私たちは、主イエス・キリストの復活を祝い、週の初めの日である日曜日に集まって、礼拝をささげています。そして、日曜日ごとに、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架の死を死んでくださり、私たちを正しい者とするために栄光の体で復活されたことを聞きます。そのとき、私たちの心に起こることも、イスラエルの人々と同じであると思います。私たちは十字架につけられたイエス・キリストに心を向けることによって、自分が神さまの御前に罪人であるかを嘆きます。そして、栄光の体で復活されたイエス・キリストに心を向けて、神さまがその自分にどれほど大きな恵みをくださったかを喜ぶのです。イエス・キリストの十字架と復活は、私たちの悲しみと喜びに対応しています。そのことに思いを向けるとき、悲しむことも大切であることが分かります。悲しむことは、喜ぶために必要なことなのです(ローマ7:24、25「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」参照)。そのために、私たちは、金曜日に、イエスさまが十字架の死を死んでくださったことを、深く覚えたいと思います。そのために、断食することも必要であるかも知れません。金曜日に、主イエス・キリストが、自分の罪を担って、苦しく恥ずかしい十字架の死を死んでくださった。それほどまでに、自分は罪深い者である。そのことを覚えることなくして、日曜日に、主イエス・キリストの復活を喜び祝うことはできないと思います。しかし、金曜日ごとに、主イエス・キリストの十字架の死を思い、自分の罪を悲しむなら、私たちは、日曜日ごとに、主イエス・キリストの復活を喜び祝い、上からの力をいただくことができるのです。

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