すべての人を憐れむ神 2017年6月25日(日曜 朝の礼拝)

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すべての人を憐れむ神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 11章25節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:25 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、
11:26 こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。
11:27 これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、/彼らと結ぶわたしの契約である。」
11:28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
11:29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
11:30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
11:31 それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
11:32 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
11:33 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
11:34 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。
11:35 だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」
11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。ローマの信徒への手紙 11章25節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 ローマの信徒への手紙の9章から11章までは、イスラエルについて扱っている一つのまとまった記述であります。神の民であるイスラエルが約束のメシアであるイエス様を信じないで、拒み続けているのはなぜか?そのことをパウロは言葉を尽くして、記しております。今朝はその最後の所を学ぼうとしているわけです。

 25節から27節までをお読みします。

 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」

 ここでの「兄弟たち」は、文脈から言えば、異邦人でイエス・キリストを信じた者たちのことであります(13節参照)。パウロは、前回学んだ、19節、20節でこう記しておりました。「すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」。異邦人でイエス・キリストを信じた者たちの中に、イエス・キリストを信じないユダヤ人たちを見下す者たちがいたのです。そのような者たちを念頭に置いて、パウロは、「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」と記すのです。ここで「秘められた計画」と訳されている言葉は、ミュステーリオンという言葉です。口語訳聖書、新改訳聖書を見ますと、「奥義」と訳されています。パウロは、異邦人でイエス・キリストを信じた者たちが、自分を賢い者とうぬぼれることがないように、神の秘められた計画、神の奥義を知ってもらいたいと言うのです。では、その秘められた計画とは何か?それは、「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われる」ということであります。一部のイスラエル人がかたくなになって、イエス・キリストを拒み続けている現状がある。しかし、それは一時的なことであり、最終的なことではないのです。前回学びましたように、イスラエルがイエス・キリストを拒むことによって、異邦人に救いがもたらされることになりました(11節)。ですから、異邦人全体が救いに達するならば、ユダヤ人が心を頑なにし続ける理由はなくなるわけです。異邦人全体が救いに達したならば、全イスラエルはやわらかな心を与えられて、イエス・キリストを信じて救われるのです。ここで「異邦人全体」とか、「全イスラエル」とか言われていますが、これは「一人も洩れることなく」というよりも、民族としての全体を現しています。多くのイスラエル人は、心を頑なにしてイエス・キリストを拒み続けている。しかし、異邦人全体が救いに達するならば、イスラエルがこぞってイエス・キリストを信じて救われるのです。そして、それは旧約聖書が預言していることでもあります。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である」。この御言葉は、イザヤ書59章20節、21節と同じくイザヤ書27章9節からの引用であります。「救う方がシオンから来て」とは、天のエルサレムから主イエス・キリストが来られること、イエス・キリストの再臨を指していると理解できます。天のエルサレムからイエス・キリストが来られるとき、ヤコブから不信心が遠ざけられ、全イスラエルがイエス・キリストを信じることになる。そして、そのときにこそ、全イスラエルはエレミヤが預言していた新しい契約の祝福にあずかることになるのです(エレミヤ31:31~34参照)。

 28節から32節までをお読みします。

 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

 前回学びましたように、神様の御計画は、イスラエルをかたくなにすることによって、救いを異邦人にもたらすことでありました。パウロは、9章18節で、「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」と記しておりました。イスラエルが福音に従わないのは、異邦人に救いをもたらすために神様がされたことであるのです。その福音宣教についてイスラエル人は、異邦人のために神に敵対している。しかし、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で愛されているとパウロは記します。この「先祖たち」とは、神様から召され、契約を結んだ先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブたちのことであります。イスラエルは福音に従わないで神様に敵対している。しかし、それはイスラエルが神の選びからもれているということではない。なぜなら、神の賜物と招きとは取り消されないものであるからです。イスラエルが真実でなくても神様は真実であられる。イスラエルの先祖たちと契約を結ばれた神様は真実であられる。それゆえ、イスラエルが神の選びからもれてしまった、神の愛の対象でなくなってしまったということはあり得ないのです。神様がイスラエルを不従順にされたのは、不従順であった異邦人を憐れむためでありました。それによって憐れみを受けていたイスラエルが不従順になったわけです。こうして、異邦人もイスラエルも不従順の状態に閉じ込められたのです。異邦人は、まことの神を知らない者たちでありますから、ずっと不従順であったわけです。しかし、それは異邦人だけではありません。イエス・キリストの福音を従わないイスラエルも不従順な者となったわけです。そして、それは神様がすべての人を憐れむためであったのです。ここで言われていることは、信仰義認について記している理屈と同じであります。パウロは、この手紙の1章から3章に渡って、異邦人の罪について、またユダヤ人の罪について記しました。ユダヤ人も異邦人も皆、罪のもとにあると記したのです。それに続けて、パウロは、ユダヤ人も異邦人もただイエス・キリストへの信仰によって救われるのだと記したわけであります。それと同じことを、パウロは救済の歴史として記しているのです。異邦人もイスラエルも不従順な者たちとなった。それは、異邦人もイスラエルもただ神様の憐れみによって救われるためであるのです。

 異邦人でイエス・キリストを信じた私たちは、神様の憐れみを受けた者たちであります。そして、その背後には、イスラエルが不従順とされるということがあったわけですが、そのイスラエルも憐れみを受ける時が来る。それは「今憐れみを受けるためなのです」と言いうるほどに差し迫ったこと、確実なことであるのです。神様はすべての人を不従順な状態に閉じ込められました。それはすべての人を憐れむためであったのです。すべての人を憐れむとは、すべての人が救われるという万人救済を教えているのではありません。すべての人が神様の憐れみの対象である。イエス・キリストを信じて救われるとすれば、それはひとえに神様の憐れみによるということであります。不従順であった私たち、異邦人であった私たちが、主イエス・キリストを信じることができたのは、私たちが賢かったからではありません。そうではなくて、神様が私たちを憐れんでくださったからであるのです。

 33節から36節までをお読みします。

 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

 ここでパウロは神様の奥義を知った者として、神様をほめたたえています。神様の救いの御計画、すべての人を不従順の状態に閉じ込め、すべての人を憐れまれるという神様の秘められた計画は、まことに人間が考えつかない御計画でありました。それゆえ、パウロは、神の富と知恵と知識の深さを賛美せずにはおれないのです。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。これは旧約聖書のイザヤ書40章13節とヨブ記41章3節からの引用です。34節の「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか」は、神様の知恵と知識の深さを教えている聖句であります。主の御心を知っているものは誰もいない。被造物である人間に創造主である神様の心を知り尽くすことはできないのです。ただ、神様が示してくださった限りにおいて、私たちは神様の御心を知ることができるのです。神様は捉え尽くすことのできない永遠、無限の御方であるのです。また、神様は誰にも相談する必要のない御方、知恵においても永遠、無限の御方であるのです(ウェストミンスター小教理問答 問4「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において無限、永遠、不変のかたです」を参照)。35節の「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」は、神様の富の深さ、豊かさを教える聖句であります。神様は誰からも与えられる必要のない御方です。なぜなら、天の下にあるすべてのものは神様のものであるからです。私たちは、神様に何かを与えて、その報いとして憐れみを受けたのではありません。パウロは、11章6節で、「もしそれが恵みによるとすれば、行いによりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります」と記しておりました。これと同じことが憐れみについても言えます。憐れみは、恵みと同じように、神様の一方的な主権によるものであるのです。このように見ていきますと、私たちの救いが徹頭徹尾、神様の憐れみによることが分かります。なぜなら、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」からです。神様こそすべてのものを始められ、すべてのものを支配し、すべてのものを完成される御方であるのです。この神様から憐れみを受けて、イエス・キリストを信じた者たちとして、私たちは「栄光が神に永遠にありますように」と神様をほめたたえるのです。

 私たちには異邦人全体が救いに達するために福音を宣べ伝えるという使命が与えられております。イエス様は、マルコによる福音書の13章で、世の終わりのしるしとしてこう言われました。「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(マルコ13:10)。福音があらゆる民に宣べ伝えられ、救われる異邦人の数が満ちるとき、全イスラエルが救われるのです。そして、すべての民が、イエス・キリストにあって、「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と神様をほめたたえることになるのです。

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