神の慈しみと厳しさ 2017年6月11日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

神の慈しみと厳しさ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 11章11節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。
11:12 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
11:13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
11:16 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。
11:17 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、
11:18 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
11:19 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
11:20 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
11:21 神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。
11:22 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。
11:23 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。
11:24 もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。ローマの信徒への手紙 11章11節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 ローマの信徒への手紙の9章から11章までは、イスラエルの問題を扱っているまとまった箇所であります。神の民であるイスラエルが、約束の救い主イエス・キリストを信じないことをどのように理解すればよいのか?また、パウロがそのことをどのように理解しているのかを記している箇所であります。

 前回、私たちは、神様が御自分の民を退けたのでは決してないことを学びました。預言者エリヤの時代に、神様は恵みによって選ばれた者たちを残しておいたように、今もイスラエル中に、恵みによってイエス・キリストを信じる者たちがいるのです。パウロもそうですし、エルサレムの教会もそうであります。しかし、そうは言っても、他の多くの者たちは、心をかたくなにしてイエス・キリストを信じませんでした。その心をかたくなにしているイスラエルについて、今朝の御言葉は記しているのです。

 11節、12節をお読みします。

 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。

 ここでパウロが言っていることは、イスラエルがイエス・キリストを信じないことは、彼らが滅んでしまうことを意味しないということです。イスラエルは確かに、つまずきの石につまずきました(9:32、33)。しかし、それはもう起き上がることもできずに、倒れたままであるという意味ではありません。イスラエルがイエス・キリストを信じないのは一時的なことであって、最終的なことではないとパウロは言うのです。神の民であるイスラエルが約束のメシアであるイエス様を信じようとしない。心をかたくなにして拒み続けている。このことには実は積極的な意味があるわけです。すなわち、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果となったのであります。実際、使徒言行録を見ますと、パウロは福音を最初にユダヤ人に宣べ伝えます。しかし、ユダヤ人が福音を受け入れないので、異邦人に福音が宣べ伝えられていくのです。使徒言行録の13章に、パウロとバルナバがピシディア州のアンティオキアで福音を宣べ伝えたことが記されています。そこでパウロは、自分の話すことに反対するユダヤ人に対してこう語りました。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るのに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」。使徒たちの宣教は神の民であるイスラエルから拒まれるという仕方で、神の民ではない異邦人へと広がっていくのです。そして、その異邦人の中から、イエス・キリストを信じる人がたくさん起こされたのです。イエス・キリストを信じないユダヤ人の罪は、世の富となりました。イエス・キリストを信じないという彼らの失敗によって、異邦人も救いにあずかるという富がもたらされたのです。イスラエルの罪でさえ、世に富をもたらしたのであれば、イスラエルが皆、イエス・キリストを信じて救いにあずかるとしたら、どれほどの富が世にもたされることになるか!とパウロは記すのであります。

 13節から16節までをお読みします。

 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。

 この手紙の宛先であるローマの教会は、ユダヤ人と異邦人からなっておりました。多数の異邦人と少数のユダヤ人からなる教会であったと考えられています。その異邦人のキリスト者たちに、パウロはここで語りかけるのです。パウロは自分が異邦人のための使徒であることを光栄に思っていると記します。パウロは異邦人宣教を不本意から、いやいやしているのではありません。パウロは復活のイエス・キリストから異邦人に福音を告げ知らせるために遣わされた者として、自分の務めを光栄に思い、全身全霊で異邦人宣教に取り組んでいたのです(使徒22:21、一コリント9:22参照)。そして、そこには、何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいという願いがあったのです。ここで「ねたみ」という言葉が出て来ますが、11節にも「ねたみ」という言葉が記されていました。この「ねたみ」は、10章19節にまで遡ることができます。10章19節で、パウロはこう記しておりました。「それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、『わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう』と言っています」。異邦人が救いにあずかるという仕方で、イスラエルにねたみを起こさせる。それは、モーセが言っていたことの実現であるのです(申命32:21参照)。神の民ではなかった異邦人がイエス・キリストを信じて神の民とされ、もろもろの祝福にあずかるようになる。その姿を見て、イスラエルはねたみを起こし、イエス・キリストを信じるようになる。それが、聖書が預言している神様の救いの御計画であるのです。

 そもそも、神様の救いの御計画は、アブラハムの子孫によってすべての民を祝福することでありました(創世12:3参照)。イスラエルはすべての民を祝福する器として、祭司の王国として選ばれたのです(出エジプト19:6参照)。そして、時が満ちて、約束の救い主、イエス・キリストはお生まれになりました。全ての民を祝福するアブラハムの子孫、イエス・キリストは来られたのです。そうであれば、すべてのイスラエルがイエス様を信じて、そして、このイスラエルを通して、異邦人がイエス様を信じるようになると、普通は考えるのだと思います。しかし、実際はそうはなりませんでした。イスラエルの指導者たちは、メシアであるイエス様を十字架につけて殺してしまう。神を冒涜する者として、律法の呪いの死に引き渡したのです。そして、そのイスラエルの罪によって、神の救いは成し遂げられたのであります。異邦人の光となるというイスラエルの使命を担ったのは、復活されたイエス・キリストと見えた弟子たちの群れ、教会でありました。イスラエルの多くの者は、心をかたくなにして、福音を拒み続けている。しかし、そのイスラエルの失敗によって、異邦人に福音が宣べ伝えられ、多くの異邦人が救いにあずかるようになった。そのようにして、神様がアブラハムにされた約束、「すべての氏族はあなたの子孫によって祝福に入る」という約束は実現していくのです。そして、その終わりは、異邦人全体が救いに達し、さらには、全イスラエルが救われるようになると言うのです。パウロは、11章25節、26節でこう記しています。「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するためであり、こうして全イスラエルが救われるということです」。これが、パウロが11節で、「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったことでは決してない」と記した理由であります。パウロは、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでの一時的なことであり、最終的には全イスラエルが救われると信じていたのです。そのような見通しの中で、パウロは今朝の御言葉を記しているのです。

 イスラエルが捨てられる、神様によってかたくなにされることによって、異邦人に福音が宣べ伝えられ、多くの異邦人はイエス・キリストにあって神様と和解することができた。そうであれば、イスラエルが受け入れられるとき、イスラエルがイエス・キリストを信じることになれば、それこそ、死者の中からの命ではないか。イエス・キリストが死者の中から復活させられた神の力は、全イスラエルのうえに力強く働くことになるのです。これは、根拠のないパウロの期待なのでしょうか。そうではありません。なぜなら、16節にありますように、「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうで」あるからです。「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうである」。この御言葉は、民数記15章の初物の麦粉で作った輪形のパンを献納物としてささげる規定を背景としています。麦の初穂でパンを作って献げることにより、その他の麦で作ったパンすべてが聖別されると考えられたのです。私たちもそれぞれの収入の中から、十分の一を目安として献金をささげます。その献金によって、私たちのすべての収入が聖別されるわけです。そのようにして、私たちは残りの収入を神様の賜物として感謝して使うことができるようになるわけです。「根が聖なるものであれば、枝もそうである」。これは、根と枝とは一体的な、有機的な関係にあるということです。ここでの「聖なるものである麦の初穂」、また、「聖なるものである根」とは、イスラエルの族長たち、特に、アブラハムのことです(11:28,29参照)。「練り粉全体」と「枝」はその子孫であるイスラエルの人々のことです。なぜ、パウロは最終的に全イスラエルが救われると信じることができたのか?その根拠は、麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうであるという真理にあるのです。

 17節から24節までをお読みします。

 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになります。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。

 ここで、パウロは、オリーブの接ぎ木にたとえて、異邦人とユダヤ人のことを記しています。聖書辞典で「オリーブ」という言葉を調べますと、次のように記されていました。「オリーブは接ぎ木する必要があり、野生のオリーブの若枝が高さ2メートルほど伸びた時、その幹を切って良いオリーブの枝を接ぎ木する。成長は遅く、10~14年で結実を始め、30年以上で完全な収果が出来る。パウロの語っているオリーブの接ぎ木のたとえは、普通の接ぎ木とは逆の方法について述べている」。通常は、野生のオリーブを幹に、良いオリーブの枝を接ぎ木するのですが、パウロのたとえだと、これが反対になっており、良いオリーブの幹に野生のオリーブが接ぎ木されたことになっています。パウロは自分が言いたいことに合わせて、変えているわけです。オリーブは、旧約聖書において神の民イスラエルを指します(エレミヤ11:16参照)。ですから、オリーブに接ぎ木されるとは神の民とされることであり、オリーブから折り取られることは、神の民ではなくなることを意味します。オリーブに接ぎ木された野生のオリーブはイエス・キリストを信じた異邦人を、オリーブから折り取られた枝は、イエス・キリストを信じないユダヤ人を指しています。旧約の区分から言えば、私たちは異邦人でありました。キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていたのです(エフェソ2:12参照)。そのような私たちが神の民イスラエルの一員とされたのはどのようにしてであったか?それは、神様によって、オリーブの木に接ぎ木されるという仕方によってでありました。そのようにして、私たちは根から豊かな養分を受けるようになった。神様がアブラハムと結ばれた恵みの契約に私たちもあずかるようになったのです。しかし、そのことによって一つの問題が生じた。接ぎ木された異邦人が、折り取られた枝であるユダヤ人に対して思い上がるようになったのです。このような思い上がりは、異邦人の救いが神の計画の最終目的であるという誤解から生じるものであります。確かに、ユダヤ人は不信仰のために折り取られました。しかし、同じことは、異邦人においても言えるわけです。接ぎ木されるのも、折り取られるのも、どちらも神様がなされることであります(神的受動態)。そうであれば、接ぎ木された異邦人は自分たちに神様の慈しみを、折り取られたユダヤ人に神様の厳しさを見るべきではないか。その神様の慈しみと厳しさを考えるならば、思い上がることなどできずに、むしろ恐れるべきではないか、とパウロは言うのです。パウロは、23節で、ユダヤ人も不信仰にとどまらないなら再び接ぎ木されると記します。実際のオリーブの接ぎ木においてこのようなことはしませんが、意味としてはよく分かると思います。「野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう」。神の民でない異邦人にイエス・キリストを信じる信仰を与えて神の民とされた神様は、神の民であるイスラエルにイエス・キリストを信じさせることができないはずはない。それは異邦人を神の民とするよりもたやすいことであるのです。私たちは、旧約の区分から言えば、異邦人であり、神の民ではありませんでした。神の契約とは関係なく、まことの神を知らずに生きていたのです。その私たちをイエス・キリストにあって御自分の民としてくださった神様は、終わりの時に、イスラエルをイエス・キリストにあって御自分の民として回復されるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す