約束に従って生まれる子供 2017年4月02日(日曜 朝の礼拝)

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約束に従って生まれる子供

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 9章6節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:6 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、
9:7 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」
9:8 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。
9:9 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。ローマの信徒への手紙 9章6節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、パウロの深い悲しみと絶え間ない心の痛みについて学びました。パウロの深い悲しみと絶え間ない心の痛み、それは肉による同胞であるユダヤ人、イスラエルの民が、イエス・キリストを信じないで拒み続けているということであります。パウロの肉による同胞であるユダヤ人は、イスラエルという名を与えられ、神の民とされ、栄光、契約、律法、礼拝、約束を与えられておりました。パウロが、この手紙で言及してきたアブラハムやダビデも彼らのものであり、キリストも肉によれば彼らから出られたのです。イエス・キリストは、神の永遠の御子が人となれた御方でありますが、イスラエルの一員としてお生まれになったのです。マタイによる福音書の1章に記されているように、イエス・キリストはアブラハムの子、ダビデの子としてお生まれになったのです。しかし、イエス・キリストはユダヤ人だけの救い主ではありません。イエス・キリストはユダヤ人から出ましたけれども、全人類を救う救い主であるのです。なぜなら、この方は、十字架に死んで、復活させられ、天へと上げられ、父なる神の右に座しておられるからです。イエス・キリストを拒み続けるということは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神であるキリストを拒み続けることであるのです。

 ここまでは前回のお話の振り返りであります。今朝はその続きである6節から9節までを御一緒に学びます。

 6節に、「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」とありますが、この言葉は、イスラエルの民が約束のメシア、救い主であるイエス・キリストを拒み続けていることを前提としています。ここでの「神の言葉」は「神の約束」のことであります。神の民であるイスラエルが約束のメシアであるイエス・キリストを拒み続けている。このことは、神の約束が効力を失ってしまったということなのか?決してそうではないとパウロは記すのです。ここでパウロは、神の言葉、神の約束の有効性に先立って、そもそもイスラエルとはどのような人々であるのかを記します。神の民イスラエルとは、どのような者たちのことをいうのか?パウロは次のように記します。「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない」。「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはなら」ない。先の「イスラエル」は、族長ヤコブのことであります。前回申しましたように、イスラエルとは、族長ヤコブに神様から与えられた名前でありました。創世記32章を見ますと、ヤコブが神の御使いと夜通し格闘したことが記されています。その御使いがヤコブにこう言うのです。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と戦って勝ったからだ」。このようにイスラエルとは、ヤコブに神様から与えられた名前であるのです。そして、ヤコブから出た子孫たちもイスラエルという名前を用いたのです。ですから、後の「イスラエル人」とは、ヤコブから生まれた子孫としてのイスラエル人のことであります。さらに、パウロは、「アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない」と記します。ここで、パウロが言いたいことは、ヤコブとの血縁によって、イスラエル人であるかどうかが決まるのではない。また、アブラハムとの血縁によって、アブラハムの子であるかどうかが決まるのではないということです。ユダヤ人たちが自分はイスラエルであるとどうして言えるのか?その根拠は何か?それは、ヤコブの血筋を引く者である。アブラハムの血筋を引く者であるということでありました。しかし、パウロは、そのような血縁関係によるのではないと記すのです。そして、そのことを旧約聖書から論証するのです。続けてパウロはこう記しています。「かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。』すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。約束の言葉は、『来年の今ごろに、わたしは来る。しして、サラには男の子が生まれる』というものでした」。カギ括弧で記されている言葉は、旧約聖書からの引用であります。「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」。これは、創世記の21章12節からの引用であります。旧約の29ページです。創世記の21章には約束の子イサクが誕生したこと、それに続いて、アブラハムの側女であるはハガルと、アブラハムとハガルとの間に生まれたイシュマエルが家から追い出されたことが記されています。9節から13節までお読みします。

 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」このことは、アブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も1つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」

 12節の後半に、「あなたの子孫はイサクによって伝えられる」とあります。この所をパウロは引用して、「イサクから生まれる者があなたの子孫とは呼ばれる」と記したのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の286ページです。

 パウロは、8節で、「すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです」と記しています。ここでの「肉による子供」とは、自然な男女の交わりから生まれて来る子供で、具体的には、アブラハムと側女ハガルとの間に生まれたイシュマエルのことであります。アブラハムの生涯をおさらいしておきますと、神様はアブラハムに大いなる民となる、すべての氏族を祝福する源となるという約束を与え、父の家から召し出されました(アブラム75歳)。しかし、アブラハムと妻サラとの間には子供が授けられない。そこで、サラは、自分の側女であるハガルによって、子供を得ようとするわけです。そして、アブラハムと側女ハガルとの間に男の子が生まれた。それがイシュマエルであります(アブラハム86歳)。アブラハムは、神様との約束がイシュマエルによって実現すると考えておりました。しかし、神様は、そうではない、わたしの約束は、あなたとサラとの間に生まれる男の子によって実現するのだと言われたのです。この所も、旧約聖書から確認しておきたいと思います。旧約の22ページです。創世記17章15節から21節までをお読みします。

 神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。しかし、わたしの契約は、来年の今頃、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる。」

 ここで神様は、はっきりと、御自分の契約を受け継ぐのは、アブラハムとサラとの間に生まれてくる男の子、イサクと名付けられる男の子であると言われています。そして、そのことを、主は二人の御使いと共にアブラハムの天幕を訪れることによってサラにも告げられるのです。18章には、暑い真昼に、三人の人がアブラハムの天幕を訪れたこと、そして、その一人がイサクの誕生を予告したことが記されています。18章9節から14節までをお読みします。

 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」

 10節の御言葉、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」。これが、パウロが引用した約束の言葉であります。アブラハムとサラとの間に男の子が生まれる。この神様の御言葉を聞いて、アブラハムもサラも笑いました。それゆえ、主はその男の子をイサク(笑い)と名付けるように言われるのです。それにしても、なぜ、主はアブラハムだけではなく、サラにも現れ、約束の言葉をお語りになったのでしょうか?その理由が12節のサラの思いの中にあります。サラは心の中で笑って、こう思いました。「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに」。ここでの「楽しみ」は、夫婦の楽しみ、夫婦の交わりのことを意味しています。17章で、アブラハムは神様から、サラとの間に男の子が生まれるという約束をいただいておりましたが、夫婦の交わりは持っていなかったのです。アブラハムは100歳であり、サラは90歳でありました。しかも、サラは月のものがとうになくなっていたのです。それゆえ、アブラハムとサラとの間には夫婦の交わりが途絶えていたのです。しかし、それでは、いつになってもアブラハムとサラとの間に男の子は産まれません。ですから、主は旅人の姿でアブラハムの天幕を訪れ、アブラハムとサラとの前で、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」との約束をお語りになったのです。老夫婦である自分たちに子供が生まれるはずはないと笑ったサラに、「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」と言われるのです。そのようにして、アブラハムとサラに、「主に不可能なことはない、神の約束は必ず実現するとの信仰」を与えられたのです。この信仰をもって、アブラハムとサラは、夫婦の交わりを持ったのです。そして、神様はアブラハムとサラとの夫婦の交わりを用いて、約束の子イサクを彼らに授けられたのであります。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の286ページです。

 イサクが約束の子であるとどうして言えるのか?それは神様がそのように言われたからでありますが、それだけではありません。イサクは人間的に考えれば不可能な状況の中で産まれたからです。パウロは、4章17節で、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです」と記しました。サラは子を宿すことにおいては死者も同然でありました。しかし、アブラハムはそのサラに命を授ける神を信じたのです。また、アブラハムは、存在していない子供をイサクと呼び、存在させる神を信じたのであります。神様は御自分の約束を受け継ぐ子孫を、百歳のアブラハムと九十歳のサラから生まれさせることによって、その子が神様の約束を受け継ぐ者、神様の契約を受け継ぐ者であることを示されたのです。

 ところで、神様がアブラハムに与えられた約束、結ばれた契約とはどのようなものであったのでしょうか?創世記の12章1節から3節で、主はアブラムにこう言われました。「あなたの生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」。

 また、22章16節から18節で、主はアブラハムにこう言われました。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 イスラエルとはどのような者を言うのか?それは、アブラハムと血が繋がっている者のことを言うのではなくて、神様とアブラハムとの約束を受け継ぐ者を言うのです。神様がアブラハムと結ばれた契約を受け継ぐ者、それが神の民イスラエルなのであります。そして、聖書は、この約束がイスラエルの民の一員としてお生まれになったイエス・キリストにおいて実現したと教えているのです。そのことを示すために、イエス・キリストは、男の人を知らないおとめマリアの胎に、聖霊によって宿るという仕方でお生まれになったのです。

 聖書は、イエス・キリストこそ約束の子であり、この御方において、神様の約束はことごとく実現したと教えております。そして、イエス・キリストを信じる者たちこそ、神の契約を受け継ぐ神の民イスラエルであると教えているのです(ガラテヤ6:14~16参照)。私たちは血筋から言えば、アブラハムともヤコブともつながっておりません。けれども、約束の子であるイエス・キリストと聖霊によって、また信仰によってつながっているゆえに、神の民イスラエルであるのです。イエス・キリストを信じて教会の一員とされている私たちは、神の約束、契約を受け継ぐ神の民とされております。神様は、私たちを通して、すべての民を祝福しようとしておられるのです。そして、その祝福はイエス・キリストの福音を宣べ伝えることによって実現していくのです。ですから、復活されたイエス様は、その弟子たちに、「すべての民に福音を宣べ伝えよ」と命じられたのです(マルコ16:15参照)。先程、私は、「アブラハムとサラが信仰をもって夫婦の交わりをしたこと、そのことがあったからこそ、イサクが生まれた」と申しました。このことは、私たちの福音宣教においても言えることであります。イエス様は、「この町にはわたしの民がたくさんいる」と約束しておられます(使徒18:10参照)。しかし、その約束も、私たちが信じて、福音を伝えなければ実現することはないのです。なぜなら、神様は私たちを用いて、すべての民を祝福しようとしておられるからです。来週は受難週であり、再来週の4月16日はイエス・キリストの復活を記念するイースターであります。そのために、伝道委員会の兄弟姉妹が準備をしてくださっています。日本において、福音宣教は難しい。確かにそう思います。しかし、そう思って私たちが何もしなければ、神様は約束を実現することができないのです。年老いたアブラハムとサラが神様の約束を信じて夫婦の交わりを持ったように、私たちも神様の約束を信じて、福音を宣べ伝えて行きたいと思います。そのようにして、私たちも神様の祝福にあずかり続けたいと願います。

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