神の子たちを一つに集めるために 2010年5月30日(日曜 朝の礼拝)

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神の子たちを一つに集めるために

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 11章45節~57節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
11:54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
11:55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
11:56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
11:57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。ヨハネによる福音書 11章45節~57節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、ヨハネによる福音書第11章45節から57節までを読んでいただきました。今朝はこのところから御一緒に御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。私たちは前回、イエスさまがラザロを生き返らせるお話しを学びました。45節、46節には、そのしるしを目撃したユダヤ人たちの反応が記されています。マリアのところに来て、イエスさまのなさったことを目撃したユダヤ人の多くはイエスさまを信じましたけども、しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスさまのなさったことを告げる者もおりました。死者を生き返らせるというしるしを見ても、イエスさまが神さまから遣わされたことを信じない者たちがいたのです。18節に、「ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった」とありましたように、ベタニアとエルサレムは3キロメートルほどしか離れていませんでした。信じない者たちは、エルサレムにいるファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスさまが死人を生き返らせたことを告げたのでありました。この知らせを受けて、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集いたします。最高法院とは大祭司を議長とする祭司、長老、律法学者の代表者71人から構成されるユダヤ人の自治機関であります。マルコによる福音書の第14章53節には次のように記されています。「人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た」。このように最高法院は、大祭司を議長とする祭司、長老、律法学者の代表者71人からなる議会であったのです。今朝の御言葉の47節に、「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して」とありますが、マタイによる福音書の並行箇所を見ますと「そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕え、殺そうと相談した」と記されています。また、マルコによる福音書の並行箇所を見ますと、「祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを殺そうと考えていた」と記されています。さらに、ルカによる福音書の並行箇所を見ますと、「祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた」と記されています。このようにマタイは「祭司長たちや民の長老たち」と記し、マルコとルカは「祭司長たちや律法学者たち」と記しています。しかし、ヨハネは「祭司長たちとファリサイ派の人々」と記すのです。先程も申しましたように、最高法院は、祭司と長老と律法学者の代表者からなっております。ですから、ヨハネのように「祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して」と記すのは本来おかしなことなのです。確かに律法学者の多くはファリサイ派に属していたと言われますけども、それならマルコとルカのように、「祭司長たちと律法学者たちは」と記すはずだと思うのです。しかし、ヨハネは「祭司長たちとファリサイ派の人々は」と記すのです。これはおそらく、ヨハネによる福音書が執筆された紀元90年ごろにファリサイ派の人々が指導力を持っていたことが反映されているためであると思います。ヨハネによる福音書の一つの特徴は、紀元30年ごろのイエスさまの時代と紀元90年ごろの福音書記者ヨハネの時代が二重写しに記されていることであります。第9章22節に、「ユダヤ人たちは既にイエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」と記されておりました。これはイエスさまの時代のことではなくて、この福音書が執筆されたヨハネの時代のことであります。それと同じように、ヨハネが「祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して」と記しますとき、イエスさまの時代に指導力を持っていた祭司長たちと自分たちの時代に指導力をもっているファリサイ派の人々を組み合わせて一つのものとして記しているのです。

 祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して次のように言いました。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、われわれの神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。私たちはこのところから、最高法院がもはや放っておくことができないほどに、イエスさまが民衆から支持を得つつあったことを教えられます。この男がこのまましるしを行い続ければどうなるか。皆がこの男を神から遣わされたメシア、救い主と信じることになると祭司長たちやファリサイ派の人々は考えたのです。そして、その結果として、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろうと言うのです。この繋がりは少し分かりづらいかもしれません。なぜ、皆がイエスさまを信じるようになると、ローマ人が来て神殿も国民も滅ぼしてしまうことになるのか。それは、イエスさまを来るべきメシアと信じる民衆が、イエスさまを王に担ぎ出して暴動を起こしかねないと最高法院の議員たちは考えたからです。かつて学んだ第6章15節に次のように記されておりました。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」。ここに、5千人養いに預かった人々がイエスさまを王にするために連れて行こうとしたことが記されております。また、これから学ぶ12章に、イエスさまがエルサレムに迎えられる場面が記されていますが、そのとき、大勢の群衆はなつめやしの枝を持って迎えに出ました。そして、次のように叫び続けたのです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」。エルサレムに入られるイエスさまを群衆はまさしくイスラエルの王として迎えたのでありました。また、このような群衆の熱狂ぶりを福音書記者ヨハネは17節、18節で次のように説明しています。「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである」。ですから、祭司長たちとファリサイ派の人々の「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」という危惧は極めて現実的なものであったのです。当時、ユダヤの国はローマ帝国の属州となっておりました。神の民であるユダヤ人にとって異邦人に支配されていることは耐え難い屈辱でありました。イエスさまの時代、ローマ帝国による異邦人支配を拒み、メシアの支配を武力を用いて実現しようとする熱心党もおりました。そのような者たちがイエスを王として担ぎ出すことになれば、ローマ軍が介入してエルサレム神殿も国民も滅びてしまうことになると彼らは考えたのです。48節に「われわれの神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」とありますが、ここで「滅ぼしてしまうだろう」と訳されている言葉は、「奪い取る」とも訳すことができます。新改訳聖書はこのところを、「そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる」と訳しています。わたしは先程、ユダヤの国はローマの属州であったと申しましたけども、ユダヤの国は自治権が与えられておりました。しかし、民衆がイエスを王に祭り上げて暴動を起こせばどうなるか。それは自分たちに民衆を治める能力がないことのしるしとなり、自分たちが今得ている利権を失うことになるわけです。ここで最高法院の議員たちが何より恐れていることは、自分たちが得ている利権を失うということであります。ローマ人によって、自分たちの神殿と国民が自分たちから奪われること。それこそ、最高法院の議員たちの危惧するところであったのです。

 そのとき、最高法院の議長であり、その年の大祭司であったカイアファが次のように言いました。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」。ここで「好都合」と訳されている言葉は「益になる」とも訳すことができます。口語訳聖書はこのところを、「あなたがたは、何も分かっていないし、一人の人が人民に代わって死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」と訳しています。カイアファはイエスという男をどうするかという問題を損得で考えた。大勢の人々が死ぬよりも、イエス一人に死んでもらえばよい。イエス一人を殺せばそれで済むことではないかと言ってのけたのです。このカイアファの言葉について、福音書記者ヨハネは次のように解説しております。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」。その年の大祭司であったカイアファは、意図せずしてイエスさまの死の意味を語ることになりました。確かにイエスさまは国民に代わって、国民のために死ぬのです。50節に、「民の代わりに」とあり、51節に「国民のために」とありますが、ここで「代わり」、「ために」と訳されているのは同じ言葉であります。ですから、50節は、「一人の人間が民のために死に」とも訳すことができるし、51節は、「イエスが国民の代わりに死ぬ」とも訳すことができるのです。イエスさまは、大祭司であるカイアファが意図せずして預言したように、ユダヤの民のために、身代わりの死を遂げることになるのです。ユダヤの民ばかりでなく、すべての人のために、身代わりの死を遂げられるのです。イエスさまは11章25節で、「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われましたけども、それは罪のないイエスさまがすべての人の罪を担って刑罰としての十字架の死を死んでくださるからなのです。旧約聖書のイザヤ書第53章に、「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」とありましたように、イエスさまは私たちのために、私たちに代わって死んでくださったのです。また、イエスさまが死なれるのは散らされている神の子たちを一つに集めるためでもありました。ここでの「散らされている神の子たち」とは、離散しているユダヤ人たちのことではなくて、異邦人であってもイエスさまを信じる人々のことであります。第12章20節以下に、ギリシア人がイエスさまに会いに来たことが記されております。そのことを聞いたイエスさまは、「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになりました。このことは私たちに、異邦人であるギリシア人も散らされている神の子たちに含まれていることを教えているのです。私たちは、今朝も主の日の礼拝へと集って参りました。でもどうして私たちはこのように一つに集まることができたのでしょうか。それはイエスさまが散らされている神の子たちを一つに集めるために死んでくださったからであるのです。イエス・キリストが私たちのために、私たちに代わって十字架の死を死んでくださった。その事実のゆえに、十字架のもとに集い、このように罪赦された者として、神さまを父として礼拝することができるのです。イエスさまの死、それは神の子たちを一つに集める力を持つ死であるのです。先程も引用したイザヤ書第53章には、「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち死んで/罪人のひとりに数えられたからだ」と記されています。ここに集まっております私たちは、イエスさまの血によって贖われたイエス・キリストの民であるのです。それゆえ、私たちは「イエスは主である」と告白しているわけです。

 先日の5月22日に、坂戸教会のN・M長老の葬儀が行われました。わたしも坂戸教会で洗礼を受け、信仰生活を送ったものとして、葬儀に参列して参りました。そのとき思いましたことは、人の死には人を集める力があるということであります。そして、イエスさまの死もそのような力があるのではないかと思わされたわけです。もちろん、私たちはイエスさまの葬儀を行うために日曜日に教会に集い、礼拝をささげているのではありません。私たちが週のはじめの日に礼拝をささげているのは、イエスさまが死から復活されたことを記念するためであります。ですから、私たちは悲しみに沈みこんでこの場に集うのではなくて、喜びと希望をもってこの場へと集うのです。十字架の上に死んで、三日目に復活されたイエス・キリスト、今も生きておられるイエス・キリストが私たち一人一人をこの場へと招いてくださるがゆえに、私たちは一つに集まることができたのです。それは時間と場所を共にするということに留まりません。私たちは主イエス・キリストに結ばれて、一つの霊にあずかるものとされているのです。ここに集っている私たちは烏合の衆ではなく、一人の主を仰ぎ、一つの霊に生かされている神の子たちであるのです。

 53節に「この日から彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」とありますけども、これまで何度か語られてきたユダヤ人たちの殺意が最高法院において決定されました。このようにしてイエスさまは愛する者ラザロを生き返らせることにより、御自分の死を手繰り寄せることになるわけです。そして、これこそイエスさまが言われた「神の栄光」であったのです。4節でイエスさまは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われましたけども、神の栄光は、ラザロの生き返りに留まることなく、イエス・キリストの十字架の死によって表されるのです。それゆえ、このことはカイアファの思いを越えて、神さまのご意思によって実現されるのです。イエスさまが第10章18節で、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」と言われたように、イエスさまが神の子たちを一つに集めるために死なれることは、神さまのご意思によることであるのです。そのことを知っているがゆえに、イエスさまは荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在されたのです。イエスさまはユダヤ人たちを恐れたのではありません。そうではなくて、過越祭が来るのを待っておられるのです。イエスさまは過越しの小羊としてご自分を十字架のうえにささげるために、過越祭を待っておられる。そして、イエスさまは永遠の大祭司として、自らを世の罪を取り除く神の小羊として十字架のうえにささげられるのです。そのようにして神殿はもはや必要ないものとなるのです。ローマ人が来て、祭司長たちから神殿も国民も奪っていくのではありません。永遠の大祭司であるイエスさまが、自らを世の罪を取り除く神の小羊としてささげられるゆえに、もはや神殿は意味をなさなくなるのです。

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