ラザロよ、出て来なさい 2010年5月23日(日曜 朝の礼拝)

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ラザロよ、出て来なさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 11章38節~44節 

聖句のアイコン聖書の言葉

11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。ヨハネによる福音書 11章38節~44節 

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は教会の暦によりますと聖霊降臨を祝うペンテコステの礼拝であります。それで今日は午後2時半から東川口教会において、埼玉東部地区ペンテコステ合同集会が開催されることになっております。大宮教会、せんげん台教会、草加松原教会、南越谷コイノニア教会、南浦和教会、羽生栄光教会、東川口教会の7つの教会が一つの場所に集まって礼拝をささげ、交わりの時を持ちます。どうぞ、午後のペンテコステ合同集会にも出席していただければと願っております。

 今朝は聖霊降臨をお祝いするペンテコステの礼拝なのですが、いつものようにヨハネによる福音書の第11章38節以下を読んでいただきました。今朝はこのところからご一緒に御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 38節に、「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」と記されています。「再び心に憤りを覚えて」とありますように、33節にイエスさまが心に憤りを覚えられたことが記されておりました。イエスさまは、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちが泣いているのを見て、心に憤りを覚えられたのです。イエスさまが何に対して憤りを覚えられたのかについては、前にお話ししましたので詳しくは申しませんが、二つのことが考えられます。一つは、マリアとユダヤ人たちの不信仰に対して憤られたということです。復活であり、命であるイエスさまが目の前におられるにも関わらず、嘆き悲しむマリアとユダヤ人たちの不信仰に対してイエスさまは心に憤りを覚えられた。これが一つの解釈であります。そして、二つ目の解釈は、マリアとユダヤ人たちの悲しみの源である死に対してイエスさまが憤られたという解釈であります。愛する者との交わりを奪う死の力に対して、イエスさまは心に憤りを覚えられたのです。38節で、「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」というときも、この2つの解釈は当てはまると思います。といいますのも、このときイエスさまは36節、37節のユダヤ人たちの言葉を聞いて、再び心に憤りを覚えられたとも読むことができるし、墓という死の領域に向かうことによって、再び心に憤りを覚えられたとも読むことができるからです。「墓は洞穴で、石でふさがれていた」とありますように、ラザロの遺体は土に埋められていたのではなくて、洞窟の中に横たえてあったのです。そして、その洞窟の入り口に円盤のかたちの石で蓋をしていたのです。しかし、再び心に憤りを覚えて墓に来られたイエスさまは、「その石を取りのけなさい」と言われるのです。そのイエスさまの御言葉を聞いて、死んだラザロの姉妹マルタがあわてて次のように言いました。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。以前にも申しましたように、ユダヤ人たちは死んだ人の魂が三日までは遺体の近くをうろつくが、四日目になるとその体が腐敗し始めるのを見て 陰府に行くと信じておりました。ですから、墓に葬られて既に四日もたっていたラザロは完全な死人であったのです。そのラザロの遺体が置かれている墓の石を取りのけたらどうなるか。マルタが「もうにおいます」と言っていますように、ラザロの死臭を嗅ぐことになるわけです。そのことは姉妹でありますマルタにとって耐えがたいこと、恐るべきことであったに違いないと思います。しかし、そのようなマルタに対してイエスさまは、「もし、信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われるのです。

 このイエスさまの御言葉を読むと、私たちは21節以下に記されていたイエスさまとマルタとの対話を思い起こします。そこには次のように記されておりました。21節から27節までをお読みいたします。

 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 マルタは、イエスさまから「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われたとき、このイエスさまとの対話を思い起こしたと思います。しかし、ここには「神の栄光が見られる」というイエスさまの御言葉は記されておりません。イエスさまは、「もし、信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われましたけども、ここには「神の栄光」という言葉は記されていないのです。では、どこに記されているかと申しますと、それは4節であります。3節からお読みいたします。

 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

 ここに、「神の栄光」という言葉が記されています。イエスさまは21節以下のマルタとの対話だけではなく、この4節の言葉を念頭に置いて、「もし、信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」と言われたのです。このことから私たちは、4節の御言葉は、遣わされた人に託されたマルタとマリアへの御言葉であったことが分かるのです。姉妹たちは、イエスさまのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせました。この言葉には、イエスさまにすぐにでも来ていただきたいとの願いが込められています。姉妹たちは自分たちが遣わした人と一緒にイエスさまがベタニアに来てくださることを期待していたはずです。しかし、戻ってきたのは自分たちが遣わした人だけでありました。そして、その人が4節のイエスさまの御言葉をマルタとマリアに伝えたのです。前にも申しましたように、ユダヤのベタニアとイエスさまがおられたヨルダン川の向こう側はおよそ一日分の距離でありました。移動に一日かかるわけです。そして、遣わされた人がベタニアに戻って来たときには、すでにラザロは死んでいたと考えられるのです。愛する弟のラザロが死んでしまったその日に、遣わされた人は姉妹たちに、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」というイエスさまの御言葉を伝えたのです。「もし、信じるなら神の栄光が見られる」。それは、ラザロが病であることを伝え聞いたときから、イエスさまがマルタに告げておられたことであったのです。

 このイエスさまの御言葉を聞いて、マルタはイエスさまの御言葉どおりにいたしました。「人々が石を取りのけると」とありますが、このことがマルタの意思によってなされたことは明らかであります。その開かれた墓を前にして、イエスさまは天を仰いでこう言われたのです。

 「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

 イエスさまが天を仰いで言われたことは、この言葉が神さまへの祈りの言葉であることを示しています。イエスさまが上を向いて語られたことは、周りにいる群衆に自分が神さまに祈っていることを示すジェスチャーであったのです。このとき、人々の目はイエスさまへと向けられていたと思います。石を取りのけさせて、いったい何をなされるつもりであろうかと、皆がイエスさまに注目していたと思います。しかし、イエスさまはそこで天を仰がれ祈られるのです。そのことによって、周りの人々の目をも天へと向けさせるのです。イエスさまは神さまを「父よ」と呼びかけて、祈られました。イエスさまは神の独り子としての全き信頼を込めて「父よ」と祈られたのです。このイエスさまの祈りはこれから願い事を申し述べるのではなく、願い事を聞いてくださったことへの感謝の祈りであります。ヨハネの手紙一第5章14節、15節に次のような御言葉が記されています。

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。

イエス・キリストにあって神の子とされた私たちでさえ、このように言えるならば、神の独り子であるイエスさまはなおさらであります。イエスさまは「わたしと父とは一つである」と言われる神の独り子であられるゆえに、御自分の祈りに御父がいつも耳を傾けてくださることを知っているのです。では、イエスさまはいつラザロを生き返らせることを御父に願われたのでしょうか。これはわたしの推測でありますけども、ラザロが病気であると聞いて、なおヨルダン川の向こう側に留まられたときではなかったかと思います。6節に、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」と記されておりました。わたしはこのとき、イエスさまはラザロを生き返らせることを御父に願われたのではないかと思うのです。そして、その願いが聞き入れられたことを確信してイエスさまはユダヤのベタニアへと来られたのではないかと思うのです。「わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」と言われるイエスさまが、開かれた墓を前にして天を仰いで祈られたのは、周りにいる群衆のためでありました。イエスさまは、神さまが御自分を遣わされたことを信じさせるために、御父に祈られたのです。それは彼らがイエスさまを単なる奇跡を行う者として信じるのではなく、イエスさまを通して神さまが働いておられることを信じるためでありました。第9章で生まれつき目の見えなかった人が、「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいることなど、一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と語りましたように、イエスさまが生まれつき目の見えない人を見えるようにされたのは、イエスさまの祈りを御父が聞いてくださったからであったのです。また、マルタがイエスさまに、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と言ったときも、同じ真理を言い表していたわけです。イエスさまが行ういわゆる奇跡は、イエスさまに不思議な業をする力があるというよりも、イエスさまの祈りを御父が聞いてくださり、イエスさまを通して御父が働いてくださることによってなされるのです。そのことを周りにいる群衆にはっきりと教えるために、イエスさまは、御父が御自分の願いをいつも聞いてくださることを知っておりながら、天を仰いで祈られたのです。ある研究者は、周りにいる群衆にはイエスさまが何を言われたかまでは聞こえなかったのではないかと推測しています。そうしますと、周りにいる群衆には、まさしくイエスさまが神さまに祈り願っているように見えたはずであります。

天を仰いでいたイエスさまはその眼差しを開かれた墓へと向けて、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。すると死んでいた人が、手と足を布でまかれたまま出て来たのであります。聖書はイエスさまが大声で叫ばれたと記しておりますけども、この大声こそ死んだ者に命を与える神の大声であります。使徒パウロはローマの信徒への手紙第4章17節で、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ」たと記しておりますけども、神さまとは死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる御方であるのです。それゆえ、御父にいつも願いを聞いていただける御子イエス・キリストの大声は死んでいたラザロに命を与えることができる大声となったのです。

この説教の始めに今朝は聖霊降臨を祝うペンテコステの礼拝であると申しましたけども、旧約聖書のエゼキエル書第37章を見ますと、枯れた骨に霊が吹き込むように預言すると生き返ったという幻が記されています。そのように神の御子であるイエス・キリストの御言葉は命を与える霊であるのです(声は言葉と息〈プニューマ〉からなる!)。

イエスさまはラザロを生き返らせることによって、御自分こそ復活であり、命であることを明らかとされました。墓から出て来たラザロは手と足を布で巻かれたままであり、顔は覆いで包まれていたとありますけども、イエスさまはその布や覆いを人々にほどくようにと言われました。そのことによって、人々はラザロが死臭を漂わせるゾンビとしてではなく、温かな血の通った者として生き返ったことを確認することができたはずであります。このようにして、4節に記されていたイエスさまの御言葉、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」という御言葉が実現したのです。

しかし、このように聞きましても、結局ラザロは死んだではないかと思われるかも知れません。イエスさまはラザロを生き返らせたけども、それは彼の死を先送りしたにすぎないではないかと思われると思います。この地上の生涯だけを考えるならば、確かにそのように言うことができます。けれども、イエスさまがラザロを生き返らせたことは、地上の生涯を越えた死後の裁きをも指し示しているのです。イエスさまは第5章24節から29節で次のように仰せになりました。

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自分の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

人間は死んだ後に神の裁きを受けなくてはならない。これは聖書が教える真理であります。そして、神さまはその裁きを人の子であるイエス・キリストにゆだねられたのです。それゆえ、死んだ後に私たちが神の裁きを受けるとき、そこで問われることは、イエスさまの御言葉を聞いて、イエスさまを遣わされた御方を信じたかどうかであるのです。前にも申しましたように、ラザロという名前は、「神は助けられた」という意味であります。また、イエスさまは「ラザロを愛しておられた」と記されておりますから、ラザロがイエスさまの弟子であり、キリスト者であったことは明らかであります。そのラザロをイエスさまは終末の裁きを待たずして、墓から呼び出されたのです。そのことは、ラザロが死後の裁きにおいても、人の子の声を聞き、復活して命を受けるために墓から出て来ることを指し示しているのです。そして、そのことはラザロ個人のことだけではありません。ラザロの生き返りは、主から愛されている私たち一人一人が死後の裁きにおいて、復活して命を受けるために墓から出て来ることの保証でもあるのです。私たちはラザロの生き返りの物語に、終末の裁きにおいて、イエス・キリストを信じている私たちが必ず命へと復活することの約束を聞きとることができるのです。ラザロの生き返りの物語は、イエス・キリストを信じる者たちが死を越えた永遠の命に生きることのしるしであるのです。

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