父から受けた掟 2010年3月21日(日曜 朝の礼拝)

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父から受けた掟

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 10章7節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
10:19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
10:20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
10:21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」ヨハネによる福音書 10章7節~21節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝もヨハネによる福音書第10章7節から21節までをお読みいただきました。前回も申しましたが、7節から18節までに記されているイエスさまの講話、説教は1節から5節までに記されているイエスさまのたとえ話を受けてのものであります。イエスさまは指導者であるファリサイ派の人々に次のようなたとえを語られました。

 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

 イエスさまはこのたとえ話の言葉や概念を用いて、7節以下で御自分が何者であるのかをお示しになられたのです。そのことは「わたしは何々である」という言い回しに着目すると分かります。「わたしは何々である」という言い回しは、ヨハネによる福音書においてイエスさまが御自分は何者であるかを示す決まった言い回しであります。7節に「わたしは羊の門である」とあり、9節に「わたしは門である」とあり、11節に「わたしは良い羊飼いである」とあり、14節にも「わたしは良い羊飼いである」と記されています。イエスさまは、たとえ話の言葉や概念を用いて、御自分が羊の門、また門であり、同時に御自分が良い羊飼いであることを示されたのです。前回は11節から13節より、イエスさまが良い羊飼いであることを学びましたが、今朝は14節から18節より、さらに深くイエスさまが良い羊飼いであることを学びたいと思います。

1.わたしは良い羊飼いである

 14節、15節をお読みいたします。

 「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」

 ここでイエスさまは、再び「わたしが良い羊飼いである」と言われ、「わたしは羊のために命を捨てる」と繰り返し語っておられます。ここでの「羊飼い」と「羊たち」は、「指導者」と「民」を表す象徴的な表現であります。イエスさまは旧約聖書、特にエゼキエル書第34章を念頭に置きつつ、たとえを語られたと考えられておりますけども、その23節から25節までに次のような御言葉が記されておりました。エゼキエル書第34章23節から25節までをお読みいたします。

 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。悪い獣をこの土地から断ち、彼らが荒れ野においても安んじて住み、森の中でも眠れるようにする。

 主なる神は、「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それはわが僕ダビデである」と約束されておりましたけども、イエスさまは「わたしは良い羊飼いである」とお語りになることによって、御自分こそが主が約束されていた牧者であると宣言されたのです。ここで「牧者」が「君主」と言い換えられているように、牧者とは群れを統治する王であります。しかし、良い羊飼いであるイエス・キリストは、羊のために自分の命を捨てる君主、王であるのです。そのようにイエス・キリストは神さまと平和の契約を結んでくださるお方なのです。

 ヨハネによる福音書に戻りましょう。

 イエスさまは「わたしが良い羊飼いである」と仰せになりましたが、そのように言える一つの根拠は、イエスさまが御自分の羊を知っており、羊もイエスさまを知っているという親しい交わりにあります。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。ここでの「知っている」は知識を持っているというよりも、人格的に知っている。人格的な交わりのうちにあるということです。聖書において「知る」とは「愛する」ことでもあります。それゆえ、この所は「わたしは自分の羊を愛しており、羊もわたしを愛している」と読むことができるのです。羊飼いと羊たちの親しい交わりについては3節、4節にこう記されておりました。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」。ここに「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とありますように、良い羊飼いであるイエスさまは、私たち一人一人の名前を知っておられるのです。名前はその人の全存在をも表しますから、イエスさまが私たち一人一人の名前を知っているということは、私たち一人一人の性格などすべてを知っておられるということであるのです。それでは、「羊もわたしを知っている」という御言葉はどういう意味でしょうか。主イエス・キリストの民である私たちは、イエスさまのことを何から何まで知っているわけではありません。知識という点から言えば、私たちがイエスさまについて知っていることは聖書に記されている断片的なことです。しかし、イエスさまは、「羊もわたしを知っている」と言ってくださるのです。なぜなら、ここでの「知る」は知識を持つことだけではなく、人格的な交わりの中に生かされ、愛することを意味しているからであります。羊たちが羊飼いの声を知っているのでついて行くように、私たちはイエスさまが良い羊飼いであることを知っているがゆえに従っていくのです。

 続けてイエスさまは御自分と私たちとの関係を御自分と御父との関係と同じであると仰せになりました。「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」。このイエスさまの御言葉は驚くべきものではないでしょうか。「イエスさまが私たちを知っている」のと「御父がイエスさまを知っている」のが同じであるというのは肯けます。しかし、「私たちがイエスさまを知っている」のと「イエスさまが御父を知っている」のが同じであるというの言い過ぎではないか、イエスさまは私たちを過大評価されているのではないかと思うわけです。しかし、イエスさまが「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と言われる以上、私たちはそのことを真実として受けとめなくてはなりません。そもそもイエスさまが「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と言われるとき、御父と御子イエス・キリストとの交わりはどのような交わりであるのでしょうか。ひと言で言えば、それは聖霊における交わりであります。この聖霊における交わりという点において、イエスさまと私たちとの交わりと御父とイエスさまとの交わりは同じであるということができるのです。それゆえイエスさまは再び「わたしは羊のために命を捨てる」と言われるのです。御父の御心を知っているイエスさまが、罪の中にある私たちをも知っているがゆえに、イエスさまは御自分の命を捨てられるのです。

2.囲いに入っていない他の羊

 16節をお読みいたします。

 「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」  

 ここでの「この囲いに入っていないほかの羊」とは、ユダヤ人以外の、いわゆる異邦人であるイエス・キリストの民を指していると思われます。すなわち、ユダヤ人ではなくてイエス・キリストを信じている私たちこそ、「この囲いに入っていない他の羊たち」であるのです。イエスさまは「その羊をも導かねばならない」と仰せになりましたが、ここで「何々せねばならない」と訳されている言葉は、神さまの必然を表す言葉であります。イエスさまはユダヤ人ばかりでなく、異邦人の中にいる御自分の民を導くことが神さまの御心であると言われたのです。私たちが用いている新共同訳聖書では分かりづらいのですが、もとの言葉を見ると16節の動詞は未来形で記されています。ですから、口語訳聖書は16節を次のように翻訳しています。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなるであろう」。このようにイエスさまは、様々な民族から御自分を信じる人が起こされ、一つの群れになることをあらかじめ告げておられたのです。民族の枠組みを超えて、イエス・キリストにあって一つの群れが形成されることをイエスさまは告げておられたのです。そして、このイエスさまの御言葉通りに、あらゆる民族の中からイエス・キリストに導かれた者たちが、キリストの教会という一つの群れを形成しているのです。この16節の御言葉は、日本でイエス・キリストを信じ、礼拝をささげている私たちにおいて実現しているのです。また、私たちも通してこれからも実現されていく御言葉なのです。良い羊飼いであるイエス・キリストは、私たちを通して、御自分の羊をこの囲いの中へと導き、一つの群れとしてくださるのです。

3.わたしは命を再び受けるために捨てる

 17節、18節をお読みいたします。

 「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」  

 イエスさまは15節で「わたしは羊のために命を捨てる」と言われましたが、ここでは「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」と言われています。イエスさまは羊のために命を捨てるのでありますが、それは命を再び受けるためでもあるのです。そして御父は、イエスさまが命を再び受けるために捨てるからこそ、イエスさまを愛してくださると言うのです。続けてイエスさまは「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」と仰せになりました。これは何を言っておられるのかと言うと、イエスさまは自らの意思によって死ぬということであります。第7章22節で、イエスさまが「わたしの行くところに、あなたたちは来ることができない」と言われたのを受けて、ユダヤ人たちが「自殺でもするつもりなのだろうか」といぶかっておりましたけども、これはある意味では当たっているのです。なぜなら、イエスさまは自分で命を捨てられるからです。しかし、もちろんイエスさまは死そのものを目的として命を捨てられるのではありません。イエスさまが命を捨てられるのは、それを再び受けるためであるのです。なぜなら、イエスさまは、「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」と仰せになるお方でありました。「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」。この新共同訳聖書の翻訳を読んでも分かりませんが、もとの言葉には、権威とか力と訳されるエクスーシアという言葉が用いられています。それゆえ新改訳聖書はこの所を次のように訳しています。「わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります」。また口語訳聖書はこの所を次のように訳しています。「わたしにはそれを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」。イエスさまは命を捨てる権威、力をもっており、それを再び受ける権威、力をも持っているのです。新共同訳聖書では、新改訳聖書が「権威」、口語訳聖書が「力」と訳しているエクスーシアという言葉を、他の所では「資格」(1:12)とか権能(5:27、17:2)とか権限(19:10、11)と訳しています。わたしとしては、「権威」と「力」を併せ持つ「権能」という訳がよいのではないかと思います。ちなみに『広辞苑』によれば、「権能」とは「ある事柄について権利を主張し行使できる能力」を意味します。「わたしは命を捨てる権能を持っており、またそれを再び受ける権能をも持っている」。イエスさまはそのような御自分の権能についてお語りになった後で、「これは、わたしが父から受けた掟である」と言われるのです。一体これは何のことを言っているのでしょうか。それを理解する手がかりは、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書に記されていた「死と復活の予告」にあると思います。イエスさまはフィリポ・カイサリアでのペトロの信仰告白の後に、御自分の死と復活について予告されました。ルカによる福音書第9章20節から22節には次のように記されています。

 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

 今朝の御言葉は、この「死と復活の予告」のヨハネ版と言うことができるのです。イエスさまは「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」と語られることによって、御自分の十字架の死と復活を予告されたのです。

むすび.父から受けた掟

 以前、ルカによる福音書の連続講解説教をしたとき、イエスさまの死と復活の予告についても説教しました。わたしはそのとき、イエスさまが御自分についてのこのような神さまの御計画を旧約聖書を通して知ったのであろうと申しました。そして、イエスさまが御自分を「人の子」と言われていることを手がかりとして、ダニエル書の第7章に記されている栄光の人の子と、イザヤ書第53章に記されている苦難の僕である人の子を重ね合わせた所に、イエスさま独自のメシア理解があると語ったのであります。しかし、ヨハネによる福音書に記されている死と復活の予告は旧約聖書を通してというよりも、御父から御子であるイエスさまが直接受けた掟として描かれています。ヨハネによる福音書は、その冒頭で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」と記しておりますから、旧約聖書が記される以前、さらには天地万物が創造される以前に、父なる神と子なる神との間にそのような取り決めがなされていたことを私たちに教えてくれているわけです。このような掟を受けていたからこそ、イエス・キリストは旧約聖書から苦難を通して栄光に入るメシアの姿を読み解くことができたとも言うことができるのです。

 また、先程のルカによる福音書に記されていた死と復活の予告は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活させられることになっている」とすべて受動態、受け身で記されておりましたが、ヨハネによる福音書はそうではありません。ヨハネによる福音書によれば、だれもイエスさまから命を奪い取ることはできず、イエスさまが自分で命を捨てるのです。なぜなら、イエスさまは命を捨てる権能を持っており、またそれを再び受ける権能をも持っているからです。第1章4節に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と記されておりました。また第5章26節でイエスさまは、「父は、御自分の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」と仰せになりました。さらに第6章51節では、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と仰せになりました。そして、今朝の御言葉では、「わたしは命を捨てる権能をもっており、それを再び受ける権能をも持っている」と仰せになるのです。イエスさまは御自分の権能によって十字架の死を死んでくださり、御自分の権能によって栄光の体へと復活してくださったのです。そのようにして、10節後半の「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」というイエスさまの御言葉が実現するのです。イエスさまは命を捨てる権能を持っており、またそれを再び受ける権能をも持っているがゆえに、イエスさまは御自分の羊たちに豊かな命を与えることができるのです。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と言われる永遠の命に私たちは今生かされているのです。

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