知っているただひとつのこと 2010年2月07日(日曜 朝の礼拝)

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知っているただひとつのこと

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 9章24節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
9:26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
9:28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
9:29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
9:30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
9:34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。ヨハネによる福音書 9章24節~34節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝はヨハネによる福音書第9章24節から34節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.今は見える

 24節、25節をお読みいたします。

 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っていることは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」 

 今朝の御言葉では、盲人であった人が再び呼び出されたことが記されています。ユダヤ人たちは盲人であった人にこう言いました。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」。ここで「神の前で正直に答えなさい」と訳されている言葉を、新改訳聖書は「神に栄光を帰しなさい」と訳しています。この新改訳聖書の訳の方が原文に近いのです。「神に栄光を帰しなさい」。これは真実な証言をすることを約束する誓約の言葉でありました。ですから新共同訳聖書は、「神の前で正直に答えなさい」と訳したわけです。旧約聖書のヨシュア記の第7章に、「アカンの罪」というお話しが記されています。神さまが滅ぼし尽くしてささげなさいと命じていたにも関わらず、アカンはその一部を盗み取り、ごまかして自分のものにしたことがくじによって示されました。そのとき、ヨシュアがアカンに言う言葉がこの「神に栄光を帰しなさい」という言葉なのですね。そこでヨシュアはアカンにこう言うわけです。「わたしの子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主をほめたたえ、あなたが何をしたのか包み隠さずわたしに告げなさい」。アカンはヨシュアに罪を告白し、石打の刑に処せられるわけですが、このことから分かることは、盲人であった人は今裁きの場にいるということです。指導者たちであるユダヤ人たちは、盲人であった人を再び呼び出し、「神の前で正直に答えなさい。神に栄光を帰しなさい」と尋問したのです。しかし、その彼らが続けて「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と言っていることは興味深いことであります。これは一つの誘導尋問と言えます。「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだから、それに資するような証言をしなさい」とユダヤ人たちは言っているわけです。彼らは盲人であった人から聞くまでもなく、イエスが何者であるかを自分たちですでに判断していたわけです。このユダヤ人たちの発言に対して、盲人であった人はこう答えました。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。あの方が罪人であるかどうかは自分には分からない。しかし、ただ一つ知っていることがある。それは目の見えなかったわたしが今は見えるということだと盲人であった人は答えました。見えなかったわたしが今は見えるということ。これだけは盲人であった人にとって否定することのできない事実であったのです。

2.あの方の弟子になりたいのですか

 26節から29節までをお読みいたします。

 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」

 「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と証言した盲人であった人に、ユダヤ人たちは、「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか」と尋ねました。それに対して盲人であった人は、「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした」と答えています。これは15節のことを言っているわけです。15節にこう記されておりました。「そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。『あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと見えるようになったのです』」。しかし、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったことを信じられず、両親を呼び出して尋問するわけです。そこで、両親から「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています」との証言によってこの人が生まれつき目が見えなかったことを認めざるを得なくなり、再び盲人であった人に「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか」と尋問しているのです。この盲人であった人の言葉、「もうお話ししたのに聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」という言葉には、盲人であった人の憤りと皮肉が表れています。おそらく、ユダヤ人たちはイエスさまが盲人であった人の目をどのように開けられたのかを詳しく聞くことによって、イエスさまを安息日違反の罪に定めたいと考えたのだと思いますけども、盲人であった人は、あなたがたがまた聞きたがるのは、あなたがたもあの方の弟子になりたいからですかと尋ねるのです。ここでは「あなた方も」とありますように、盲人であった人がすでにイエスさまの弟子であるかのように記されています。それに対してユダヤ人たちはののしってこう言いました。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」。ここには、この福音書が記された紀元90年頃のキリスト教会とユダヤ会堂と別々に歩んでいたことが重ねられていると読むことができます。ここでユダヤ人たちは、「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ」と区別して述べておりますが、以前学んだ第5章45節以下のイエスさまの御言葉を読むと、そのように区別することは間違いであることが分かります。第5章45節以下でイエスさまは次のように仰せになりました。「わたしが父にあなたがたを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか」。このイエスさまの御言葉によれば、モーセの弟子であるならば、モーセが証ししたイエスさまの弟子となるはずなのですね。このイエスさまの御言葉からすれば、ユダヤ人たちが「我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」とは言えないはずなのです。イエスさまがどこから来たのかを知らないということは、実は神がモーセに語られたことを知らない、本当には理解していないということなのです。ユダヤ人たちが、「我々は神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」と言うとき、彼らの念頭にあったのは「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」という掟であったと思います。イエスさまが生まれつき盲人を見えるようにされたのは、安息日のことでありました。ユダヤ人たちは、イエスさまが安息日に唾で土をこねてその人の両目に塗った行為が壁塗りの仕事に当たると考え、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言ったのです。24節の「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と彼らが言い切る根拠にも、イエスが安息日を破っているという彼らの判断があったのです。ユダヤ人たちの関心は、イエスさまが盲人であった人の目を見えるようにしたことよりも、その行為によって安息日を破ったことにあるのです。ユダヤ人たちは、生まれつきの盲人が見えるようになったということよりも、それによって安息日が破られたことを問題とするのです。生まれつきの盲人であった人が今見えるようになって自分たちの目の前に立っているにも関わらず、彼らはその人に現れている神の業を見ることができないのです。

3.わたしたちは承知しています

 30節から34節までをお読みいたします。

 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目をあけてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

 「我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」と言うユダヤ人たちに、盲人であった人は、「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方はわたしの目をあけてくださったのに」と答えました。盲人であった人は「知らないはずないでしょう。あの方がどこから来られたかは明かではありませんか。あの方はわたしの目を開けてくださったのですよ」と言ったわけです。31節に、「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています」とありますけども、この「わたしたち」は、盲人であった人とユダヤ人たちを含めた「わたしたち」であります。少し前まで座って物乞いをしていた男が大胆にも自分を指導者たちと同列におき、「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています」と述べているのです。そして続けてこう言うのです。「しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」。この盲人であった人の言葉は、イエスさまが彼の目を開いてくださったとき、イエスさまが神さまに祈り求めたことを前提にしています。イエスさまの祈りを神さまがきいてくださったことによって、イエスさまが神をあがめ、その御心を行う人であることは明かであるというわけです。それも、イエスさまがなされた御業は「生まれつき目が見えなかったものの目を開ける」というこれまで一度も聞いたことのないものでありました。旧約聖書に様々な奇跡が記されておりますけども、盲人の目を見えるようにするという奇跡は記されておりません。盲人の目を見えるようにできるのは神さまか、来るべきメシアだけでありました。例えば旧約聖書のイザヤ書の第35章には、「栄光の回復」の預言として次のように記されています。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」。イエスさまが盲人の目を見えるようにされたことは、すべての福音書に記されておりますけども、それは神のもとから来られたメシアだけがなすことのできるしるしであったのです。それゆえ、盲人であった人は、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と言ったのです。盲人であった人は、はばかることなく、イエスはメシアであると公に言い表したのです。指導者たちがイエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた社会にあって、盲人であった人は確信をもって、自分の目を見えるようにしてくださったイエスは神のもとから来られた救い主であることを言い表したのです。それに対してユダヤ人たちは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出したのでありました。ここで注目したいことは、ユダヤ人たちはこのように語ることによって、この人が生まれつき目が見えなかったことを認める発言をしているということです。ユダヤ人たちは、前に盲人であった人からイエスさまが目を開けてくれた次第を聞いても信じませんでした。彼らはこの人は以前から目が見えていたのではないかと考え、その両親を呼び出して、この人が生まれつき目が見えない息子であるかを確かめようとしました。そして、両親からこの人が間違いなく生まれつき目が見えない自分たちの息子であることが証言されたのです。そして、再び盲人であった人を呼び出して尋問したわけでありますが、ユダヤ人たちは目の見える人に、「お前は全く罪の中に生まれたのに我々を教えようと言うのか」と語ることによって、この人がかつては生まれつき目が見えなかったことを認めているのです。そのことを認めながらも、彼らはイエスさまが神のもとから来られたことを認めず、そのように公に言い表した目が見える人を会堂から追放するのです。

むすび.知っているただ一つのこと

 今日の説教題を「知っているただ一つのこと」としました。盲人であった人にとって知っているただ一つのことは、「目の見えなかったわたしが今は見える」ということでありました。そして、これはイエスさまを通して神さまが生きて働いておられることが見えるということでもあるのです。第5章17節で、イエスさまは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言われましたけども、この盲人であった人は、イエスさまに目を開いていただいたものとして、イエスさまの祈りを神さまが聞いてくださり、イエスさまを通して神さまが生きて働いておられることを見ることができたのです。そして、そのことはイエス・キリストを信じる私たち一人一人においても言えることなのです。イエス・キリストの御名においてささげられる礼拝を通して神さまと出会い、神さまが生きて働いておられることを見るまなざしを私たちも与えられたのです。聖霊によって開かれた心の目によって、イエス・キリストの十字架に、私たちに対する神の愛を見ることができる者とされたのです。私たちが知っているただ一つのこと、それはイエス・キリストの十字架の死が、わたしに対する神の愛の確かなしるしであるということです。私たちはそのことをもはや疑うことができないほどに、聖霊によって証印を押されているのです。それゆえ、私たちはイエス・キリストが神のもとから遣わされた救い主であることを公に言い表さずにはおれないのです。

 今朝の御言葉でユダヤ人たちは「神に栄光を帰しなさい」と言って盲人であった人を再び尋問しました。そして、盲人であった人は自分の目を開けてくれたイエスという方が、神のもとから来られたことを公に言い表すことによって神に栄光を帰したのです。私たちも聖霊によって心の目を開けていただいた者として、イエスさまを神のもとから来られた救い主であると公に言い表し、神に栄光を帰すことが求められています。神がお遣わしになったイエス・キリストを神から遣わされた者として信じ、自分の口で言い表すこと。それが神に栄光を帰すことであるのです。

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