生まれつきの盲人の目をいやす 2010年1月24日(日曜 朝の礼拝)

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生まれつきの盲人の目をいやす

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 9章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
9:8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。ヨハネによる福音書 9章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝からヨハネによる福音書の第9章に入ります。今朝は1節から12節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

1.生まれつきの盲人

 1節から3節までをお読みいたします。

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 ここに「生まれつき目の見えない人」が登場して参ります。8節によれば、この人は「座って物乞いをしていた人」でありました。この人は生まれつき目が見えないために自分の手で収入を得ることができず、他人の施しによって命をつないでいたのです。イエスさまは、そのような生まれつき目の見ない人に目を留められたのであります。そして、そのイエスさまに弟子たちはこう尋ねるのです。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。「ラビ」とは優れた律法の教師への敬称であります。弟子たちはイエスさまに、律法の教師として「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と問うたのです。ここで、弟子たちは「この人が生まれつき目が見えないのは、どうしてですか」と問うたのではなく、「だれが罪を犯したからですか」と問うています。この弟子たちの質問の前提にあることは、本人か、両親かの違いはあるにしても、罪を犯した報いとして、この人は目の見えない状態にあるということです。しかし、この人は生まれつき目が見えないのですから、本人が罪を犯したとは考えにくいことであります。あるラビは、生まれついての障害は母の胎にあったときに犯した罪の報いだと教えておりましたけども、あまり説得力を持っていないように思えます。そうすると、本人ではなくて、その両親の罪の報いを受けていると考えるわけです。確かに十戒の第二戒には、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と記されています。このような御言葉から、弟子たちは本人の罪でなければ、両親の罪が子に報いて、この人は生まれつき目が見えないのではないかと考えたのです。そして、これは弟子たちだけではなくて、当時のユダヤ人たちの一般的なものの考え方であったのです。しかし、イエスさまは次のようにお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。イエスさまは、「この人が生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」とお答えになりました。イエスさまは病や障害をその病や障害のある人の罪と結びつけることを否定されたのです。また、病や障害をその病や障害のある人の両親の罪と結びつけることを否定されたのです。これは私たちが今朝はっきりと心に刻まなければならないことであります。病や障害は本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもありません。そうではなくて、神の業がその人に現れるためであるとイエスさまは言うのです。弟子たちの質問がその原因を問う後ろ向きな言葉であるのに対して、イエスさまのお答えはその目的を問う前向きな御言葉でありました。神さまは病や障害のある人を御自身の栄光を現す特別な器としてお用いくださるのです。病や障害のある人を通してしか現すことのできない神の栄光というものがあるのです(二コリント12:9参照)。

 この3節のイエスさまの御言葉は多くの目の見えない人たちの心をとらえてきた御言葉であります。ずいぶん古いものですが(1983年)、大会の障害者問題研究委員会から出版された『盲人クリスチャンの証し集 神の御業が現れるために』という冊子があります。それを読みますと、ほとんどの方がなぜ自分は目が見えないのかということを思い悩んだこと、いっそ自殺してしまおうかとさえ考えたことが記されています。そのお一人の証しを今朝はご紹介したいと思います。「最善の道」という題の島袋正直さん、31歳の証しです。 

 盲信徒の証集出版に際して、証しをさせていただきます事が許されて感謝しております。

 私は沖縄県かでなと言う町で生まれまして、生まれつき盲人でありまして、ただ弱視で生まれましたので、多少視力があったようです。病名は、小眼球という病気です。小学校から盲学校に入りましたけども、視力が多少あったので、活字の本も点字の本も両方使って勉強しておりまして、ただ進行性であったので、高校の半ばで完全に失明しました。私が教会に行くようになったのは、高校卒業間近の鍼灸マッサージ過程を専攻するの中で、卒業と言う年に初めて教会の門をたたいたという訳です。それは、私のクラスにも何人かが教会へ行っていて、そこで神様を信じてクリスチャンになって行く友達が何人か周りにいまして、当時私も色々な悩みや不安や、また孤独感や憂鬱な日々の中で過ごしていましたので、友達が信仰を持って、みるみるうちに変えられて行く姿を見て、私の悩みの解決もそこにあるのではないかという事を思い、友達の事を通して、神様を求める心が起こされたのだと思います。そして、教会へ出席し続けているうちに、はっきりと聖書の話を通して分かるようになりました。それは有名な、盲人なら誰でもこの御言葉にふれると思いますけれども、ヨハネによる福音書九章の、あの盲人のお話であります。弟子たちが、この人が生まれながらに盲人なのは、この人が罪を犯したからなのか、それともその両親が罪を犯したからなのかと言う事に対して、イエス様が、その人でもなく、その両親でもなく、ただ神様の御業がその人に現れるためであるという御言葉です。これを通して私自身も、今まで本当に聞いた事のない言葉を聞かされ、今まであきらめ的な、因果応報的な事を聞いたことに対して、この御言葉は全く逆で、神様のみわざが私に現れるためであり、私がこの世に盲人に生まれたのが、神様の最善の道であり、この事を通して神様を信じるようにさせてくださったのだと言う事を知ることが出来ました。そして、罪を悔い改め、イエス様を私の救い主として信じる決心をして、その年のクリスマスに洗礼を受けました。

 以来十年間と言うもの、本当に神様に支えられ、守られて教会生活を続けて行く事が出来まして、イエス様に出会う事が出来て良かったなぁ、そして私のこの十年間が常に神様中心、教会生活が中心になって、このように過ごさせて頂いたのだなぁと言う事を知ると本当に神様に感謝するのみです。

 少し長く引用しましたけども、この証しを読みますとイエスさまの御言葉が、現代においても多くの目の見えない方々の人生を、前向きな人生へと造りかえておられることが分かるのです。

 私たちの健康状態はそれぞれ異なりますから、病や障害のある人もいれば、ない人もいると思います。もちろん、今はなくてもこれから病や障害を持つということは誰にでもあり得ることです。ですから、私たちは病や障害が罪の報いではなく、神の御業が現れるために与えられたものであることをはっきりと弁えたいと思います。病や障害のある人に出会うとき、私たちはその方を通してしか現れない神の御業があるのだということを心に留めたいと思います。そのような眼差しを持つとき、私たちは本当にイエスさまの弟子であると言えるのです。

2.まだ日のあるうちに

 4節から7節までをお読みいたします。

 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム -『遣わされた者』という意味- の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

 「神の業がこの人に現れるためである」と言われたイエスさまは、「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」と言われました。当時はまだ電気はありませんから、夜になると真っ暗になります。ですから、なすべきことは日があるうちに、昼のうちに行わねばならなりませんでした。「誰も働くことのできない夜」とありますけども、これはイエスさまが去って行かれることを暗示していると読むことができます。それゆえ、世の光であるイエスさまが世におられる昼の間に、私たちは神さまの業を行わなくてはならないのです。ここで「私たち」と記されていることに注意したいと思います。イエスさまは弟子たちも含めて「私たち」と言い、御自分を遣わされた神さまの御業を行わねばならないと言われたのであります。そして、神さまの御業として生まれつき目の見えない人の目を開かれるのです。

 イエスさまは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」と言われてから、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の両目にお塗りになりました。そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたのです。聖書は、「そこで彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」とさらりと書いてありますけども、これは驚くべきことだと思います。よくこの生まれつき目の見えない人はイエスさまの御言葉に従ったなぁと不思議に思うのです。生まれつき目の見えないこの人にとって、シロアムの池に行くことは大変なことだったと思います。けれども、この人はイエスさまの御言葉に従ったのです。なぜ、この人はイエスさまの御言葉どおりにしたのでしょうか。それは、この人が弟子たちとイエスさまの対話を聞いていたからだと思います。弟子たちは、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と問いましたけども、このことは生まれつき目の見えない人が何度も聞かされてきたことだと思うのですね。いろいろな人から、あなたが生まれつき目が見えないのは、あなたが母の胎にあったときに犯した罪のためである。あるいは、あなたの両親が犯した罪のためであると聞いてきたわけです。しかし、イエスさまはその人が生まれつき目が見えないのは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われたのです。それはこの人が今まで聞いたことのない言葉であったのです。それゆえ、この人は、イエスさまの御言葉どおりにシロアムの池に行って洗い、目が見えるようになって帰ってきたのです。生まれつき目が見えないこの人が見るためには光が必要であることを知っていたかどうかは分かりませんけども、この人はイエスさまの御言葉に従うことによって光を得たのです。

3.わたしがそうなのです

 8節から12節までをお読みいたします。

 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 目が見えるようになった人を前にして、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」という言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」という者もおりました。それゆえ、本人が「わたしがそうなのです」と証言することになるわけです。ここで人々は目が見えるようになった人に、良かったねと言ってお祝いの言葉をかけたのではありませんでした。彼らは「では、お前の目はどのよにして開いたのか」と尋ねたのです。目が見えるようになった人は、「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、シロアムに行って洗いなさいと言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」と答えましたけども、それを聞いてもそのような御業をされたイエスさまのことで神を誉めたたえることもなく、「その人はどこにいるのか」と重ねて尋ねるのです。目が見えるようになった人は「知りません」と答えておりますが、このことから、生まれつき目が見えない人が、シロアムの池に行って洗い、目が見えるようになって帰ってきたときには、イエスさまがどこかに行ってしまわれていたことが分かります。かつて目が見えなかった人は、イエスさま不在の中で、イエスさまについて証しをしていかなくてはならないわけです。そのようにして神の業がこの人に現れてくるのです。そして、その神の業とは、何より神が遣わされたイエス・キリストを信じるという業であるのです。

むすび.神の業が現れる

 3節の「神の業」の「業」も、4節の「わたしをお遣わしになった業」の「業」も元の言葉を見ると複数形で記されています。ですから、「神のもろもろの業」ということです。しかし、私たちはイエスさまが神の唯一の業についてお語りになったことを以前学びました。それは第6章29節であります。「イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である』」。イエスさまは、群衆が「神のもろもろの業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問うたのに対して、「神がお遣わしになったわたしを信じること、それが神の唯一の業である」とお答えになったのです。わたしは先程、「神の業がこの人に現れるためである」というイエスさまの御言葉は、今も多くの目の見えない人をとらえている御言葉であると申しました。しかし、よく考えてみますと、イエスさまを信じて、目が見えるようになったという人は一人もいないのです。けれども、不思議なことにイエスさまを信じた目の見えない人々は、「神の業がこの人に現れるためである」というイエスさまの御言葉が自分のうえにも実現したことを信じて疑わないのです。それはなぜか。それはその人のうえに、神が遣わされた者を信じるという唯一の神の業が実現したからであります。目の見えない人だけではありません。シロアムの池に行って洗った私たちのうえに、神が遣わされたイエス・キリストを信じるという神の御業が実現したのです。7節を見ますと、シロアムとは「『遣わされた者』という意味」と注釈が記されています。第5章には「ベトザタの池」が出できましたけども、ベトザタの池には何の注釈もありませんでした。なぜ、シロアムの池には、「『遣わされた者』という意味」という注釈が記されているのでしょう。それはシロアムの池で洗うことが、遣わされた者であるイエスさまの御名において洗礼を受けることを意味しているからです。私たちはシロアムの池に行って洗うことによって、すなわち神から遣わされたイエスさまの御名によって洗礼を受けることによって、イエス・キリストのうちに神を見る光を与えられたのであります。生まれつきの目の見えない人、それはイエス・キリストのうちに神を見ることができない全人類を象徴的に表しているのです。それゆえ、今朝の「生まれつきの盲人をいやす」というお話しは、神を知らずに闇の中を歩んでいた私たち一人一人の物語でもあるのです。

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