世界を受け継がせる約束 2016年9月18日(日曜 朝の礼拝)

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世界を受け継がせる約束

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 4章13節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:13 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
4:14 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。
4:15 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。
4:16 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。
4:17 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙 4章13節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、働きがなくても、信仰が義と認められる幸いが、割礼を受けた者だけではなく、割礼のない者にも及ぶことを学びました。なぜなら、アブラハムの信仰が義と認められたのは、割礼を受ける前であったからです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けました。それゆえ、割礼のない者も信仰によって義と認められるのです。また、割礼を受けた者も信仰によって義と認められるのです。割礼を受けていても受けていなくても、アブラハムの持っていた信仰の模範に従う人々がアブラハムの子孫であるのです。今朝の御言葉はその続きであります。

 13節をお読みします。

 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。

 「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束された」とありますが、このような約束が文字通り旧約聖書に記されているわけではありません。神様はアブラハムに大きく三つのことを約束されました。一つは、子孫によって地上の氏族はすべて祝福に入るという約束です。二つ目は、子孫が満天の星のように増えるという約束です。三つ目は、子孫にカナンの土地を与え、受け継がせるという約束です。子孫によってすべての民族が祝福に入る。子孫が増える。子孫がカナンの土地を受け継ぐ。この三つの約束を合わせて、特に三番目の「アブラハムや子孫にカナンの土地を与え、受け継がせる」という約束を拡大解釈して、ユダヤ人たちは、神様がアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたと信じていたのです(詩72:8参照)。そして、パウロの時代のユダヤ人たちは、その約束が律法に基づいてなされたと考えていたのです。パウロの時代のユダヤ人たちは、アブラハムは神の掟である律法を守ることによって義と認められたと考えておりました。また、アブラハムは割礼のある者だけの父であると考えておりました。パウロはそのようなユダヤ人たちの考えに対して、「そうではない。アブラハムは信仰によって義と認められたのであり、アブラハムは彼の信仰の模範に従う人々の父である」と記してきたわけです。そして、パウロはここでも、神様とアブラハムやその子孫との約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのであると記すのです。パウロの時代のユダヤ人たちは、神様はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせる約束を、律法に基づいてなされたと考えました。神様はアブラハムが御自分の掟を守ったから、アブラハムとその子孫に世界を受け継がせる約束をなされたと考えていたのです。では、パウロの時代のユダヤ人たちはどのような箇所を根拠に神様の約束は律法に基づくと考えたのでしょうか?それは、創世記の22章であります。少し長いですが、創世記の22章1節から19節までをお読みします。

 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、うしろの茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イルラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国の民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

 16節で、神様は、「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、云々」と言われております。ここから、パウロの時代のユダヤ人たちは、神様がなされたアブラハムやその子孫との約束は、アブラハムが神様の命令に従った行いに基づいていると理解したわけです。パウロの時代のユダヤ人たちは、アブラハムが試みに遭ったときも、忠実であり続けたゆえに、神様はアブラハムに約束を与えられたと教えていたのです(シラ書44:20,21参照)。しかし、パウロは、神様がアブラハムやその子孫に世界を受け継がせる約束をされたのは、信仰による義に基づいてであったと言うのです。これまでパウロは、創世記15章6節の御言葉、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」という御言葉を何度か引用しましたが、アブラハムやその子孫にカナンの土地が与えられることは、その直後に語られています。創世記の15章4節から7節までをお読みします。旧約の19ページです。

 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」

 このように、神様は信仰の義に基づいて、アブラハムやその子孫にカナンの土地を与え、受け継がせることを約束されたのです。カナンの地だけではなくて、主は信仰の義によって世界を受け継がせることを約束されたのであります。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の278ページです。

 14節から17節前半までをお読みします。

 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。

 ここで、パウロは当時のユダヤ人の考え方、神様はアブラハムやその子孫との約束を律法に基づいてなされたという考え方に立って記しております。「もし、律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味である」とパウロは語っておりますが、これは行いの法則と信仰の法則とは相いれないからであります(3:27参照)。また、神様が「律法を行う者に、世界を受け継がせよう」と約束されたとするならば、約束は廃止されたことになります。なぜなら、アダムの子孫である人間は誰一人、神の掟である律法を完全に守ることができないからです。律法は神の怒りを招くものであり、違反を明らかとするだけであるのです(3:20参照)。従って、行いの法則によってではなく、信仰の法則によって生きる者こそ、世界を受け継ぐ者となるとパウロは語るのです。信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となることは、神様の恵みによって世界を受け継ぐ者となることでもあります。そもそも約束とは神様の一方的な恵みによるものであります。その神様の一方的な恵みを感謝して受け入れること、これが信仰であるのです。アブラハムの信仰があって、その信仰を見て、神様が約束を結ばれたというよりも、神様の約束があって、その約束を受け入れるところにアブラハムの信仰が生じたのです(10:17参照)。神様の恵みによる約束がアブラハムの信仰より先にあるわけです。ですから、神様とアブラハムの約束の確かさは神様の恵みにあるのです。それゆえ、アブラハムの信仰に従う人は、確実に約束にあずかれるのです。神様は、アブラハムの信仰の模範に従う私たちに対しても、世界を受け継がせると約束してくださいました。なぜなら、アブラハムはその名前のとおり、「多くの国民の父である」からです。どの国の人であっても、アブラハムの信仰の模範に従うならば、アブラハムの子孫であり、世界を受け継がせるという約束を与えられているのです。

 神様はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせると約束されましたが、その約束はアブラハムの子孫であるイエス・キリストにおいて実現いたします。なぜなら、神様は、イエス・キリストを十字架の死から三日目に復活させられ、御自分の右の座へと上げられたからです。イエス・キリストは、天と地の一切の権能を授けられた王の王、主の主として全世界とそのあらゆる領域を御支配しておられます(マタイ28:18参照)それゆえ、世界を受け継ぐという約束は、イエス・キリストを信じる者たちのうえに実現するのです。ペトロの手紙二の3章10節から13節には次のように記されています。新約の439ページです。

 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいます。

 世界を受け継ぐとは、いわゆるキリスト教国がこの地上の世界の国々を支配するということではありません。世界を受け継ぐという約束は、イエス・キリストが再び来てくださる日に到来する義の宿る新しい天と新しい地を受け継ぐことによって実現するのです(黙21:1参照)。そして、ヘブライ人の手紙によれば、アブラハムも天の故郷を熱望してたのです(ヘブライ11:6参照)。

 この説教の最初に、神様はアブラハムに3つのことを約束されたと申しました。それは、子孫が増える約束であり、子孫によってすべての民が祝福される約束であり、子孫に世界を受け継がせる約束でありました。このアブラハムに対する約束は、三つとも、アブラハムの子孫であるイエス・キリストにあいて実現するのです。イエス様においてあらゆる国の民が祝福に入り、イエス様においてアブラハムの子孫が天の星のようになり、イエス様においてアブラハムの子孫が義の宿る新しい天と新しい地を受け継ぐのであります。私たちは、死んだら天国に入ることができると信じておりますが、それはアブラハムの約束の実現として入るのであります。イエス・キリストを信じる私たちが天国に入ることができる。義の宿る新しい天と新しい地を受け継ぐことの確かさは、アブラハムに与えられた神様の恵みにかかっているのです。だからこそ、私たちは義の宿る新しい天と新しい地を確実に受け継ぐことができるのです。

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