アブラハムの信仰と割礼 2016年9月11日(日曜 朝の礼拝)

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アブラハムの信仰と割礼

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 4章9節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:9 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
4:10 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
4:11 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
4:12 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。ローマの信徒への手紙 4章9節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、ユダヤ人の先祖であるアブラハムが、信仰によって義とされたことを学びました。アブラハムは律法の行いによってではなく、神様の約束を信じる信仰によって神様の御前に正しい者と認められたのです。また、イスラエルの王ダビデも、神様の約束を信じて罪を告白し、罪のない者と認められたのでありました。8節に、「主から罪があると見なされない人は、幸いである」と記されていますが、新改訳聖書はこの所を「主から罪を認められない人は、幸いである」と翻訳しています。主から義と認められた人は、主から罪を認められない人でもあるのです。今朝の御言葉はこの続きであります。

 9節をお読みします。

 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。

 「この幸い」とは、8節の「主から罪があると認められない人の幸い」であり、6節の「行いによらずに神から義と認められた人の幸い」であります。ユダヤ人の先祖アブラハムも、イスラエルの王ダビデも、行いによらずに神様から義と認められた幸いを得ました。では、この幸いは、割礼を受けたユダヤ人だけに与えられるのか。それとも、割礼のない異邦人にも及ぶのかとパウロは問うのです。パウロの時代のユダヤ人たちは、この幸いは割礼を受けたユダヤ人だけに与えられると考えておりました。といいますのも、アブラハムもダビデも、割礼を受けた者であったからです。前回も申しましたように、パウロの時代のユダヤ人たちは、アブラハムが律法を行うことによって義と認められたと考えておりました。そして、割礼を受けることこそ、律法の軛を負う象徴的な行為であると見なしていたのです(ガラテヤ5:3参照)。しかし、パウロは言うのであります。「アブラハムの信仰が義と認められた」のであると。そして、パウロはアブラハムが信仰によって義と認められたのは、割礼を受ける前であった事実を指摘するのです。

 10節から11節の途中までお読みします。

 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。

 アブラハムが信仰によって義と認められたことは、創世記の15章に記されております。では、アブラハムが割礼を受けたことは、どこに記されているのかと言えば、創世記の17章に記されているのです。このことを旧約聖書から確認しておきたいと思います。旧約聖書の19ページ。創世記の15章1節から6節までをお読みします。

 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 アブラハムは85歳ほどの高齢でありましたが、神様の約束、「あなたの子孫は満天の星のようになる」という約束を信じて、神様に正しい者と認められたのです。

 続いて創世記の17章1節から11節までをお読みします。旧約の21ページです。

 アブラハムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」アブラムはひれ伏した。神は更に語りかけて言われた。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」

 アブラハムが割礼を受けるように命じられ、また割礼を受けたのは九十九歳のときでありました。これは、アブラハムが信仰によって義と認められてから、およそ14年後のことであります。といいますのも、アブラハムと女奴隷ハガルの間に生まれていたイシュマエルは十三歳になっていたからです(創世17:25参照)。パウロは、この事実に着目しまして、「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」と記したのでありました(ローマ4:11)。11節で、包皮の部分を切り取る割礼が「契約のしるし」と言われております。そして、その契約の内容が4節から8節までに記されています。その内容は、アブラハムの子孫が増えることと、その子孫にカナンの土地を与えるという約束であります。この約束は、15章で神様が約束された内容と同じであります。神様の契約の内容は変わっていないのです。神様は御自分の契約が確かであることを示すために、アブラハムとその子孫に割礼を受けるよう命じられたのです。この契約をパウロの時代のユダヤ人たちは、出エジプト記20章で与えられる十戒を基本法とする律法と結びつけた理解しておりました。ですから、パウロの時代のユダヤ人たちは、割礼を受けることは律法を守る義務を負うことであると考えたわけです。しかし、アブラハムは律法を知りませんでした。律法はモーセの時代、エジプトを脱出したイスラエルにシナイ山で与えられたものでありまして、アブラハムの時代から430年後に与えられたものであります(ガラテヤ3:17参照)。ですから、アブラハムは割礼を「律法を行う者のしるし」として受けたのではないのです。では、ここで神様がアブラハムに守りなさいと言われる「契約」とは何でしょうか?9節に、「神はまた、アブラハムに言われた。『だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。』」とありますが、アブラハムとその子孫が守るべき契約とは何でしょうか?それは、「アブラハムが主に従って歩み、全き者となること」です。17章1節で、主はアブラムに現れてこう言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」とありますように、主に従って歩み、完全な者となることこそ、アブラハムとその子孫が守るべき契約であるのです。パウロの時代のユダヤ人たちは、このことをも律法と結びつけて考えました。彼らは、律法を行うことによってこそ、主に従って歩み、完全な者となることができると考えたのです。しかし、先程も申しましたように、律法はアブラハムの時代から430年後に与えられたものでありますから、アブラハムが律法を行うことによって、主に従い、完全な者となるように命じられたとすることはできません。むしろ、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」という主の御言葉は、創世記15章6節と結びつけて理解すべきであるのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。この神様の恵みを前提として、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」という主の命令が語られているのです。それゆえ、「わたしに従って歩み、全き者となりなさい」という主の御言葉は、「わたしを信じることにおいて完全な者となりなさい」と言い換えることができるのです。それゆえ、アブラハムは、「割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けた」のです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の278ページです。

 11節後半から12節までをお読みします。

 こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。

 アブラハムは、割礼を受ける前に、信仰によって神様に義と認められました。それゆえ、アブラハムは割礼のないままに信じるすべての人の父であると言えるのです。割礼のないアブラハムが信仰によって義と認められたのですから、割礼のない異邦人も信仰によって義と認められるのです。また、アブラハムは割礼を受けた信じる者の父でもあります。ここで、「単に割礼を受けているだけでなく」と言われていることに注意していただきたいと思います。パウロの時代のユダヤ人たちは、血筋から言えばユダヤ人ではなくても、割礼を受けるならば、アブラハムの子孫となることができると考えておりました(創世17:12~14参照)。しかし、パウロは割礼を受けた者がアブラハムの子孫ではなく、「アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々」こそがアブラハムの子孫であると言うのです。アブラハムは割礼に象徴される律法を行うことによって義と認められたのではなく、神様の約束を信じる信仰によって義と認められました。そうであれば、そのアブラハムの信仰の模範に従う人々こそ、アブラハムの子孫であるのです。パウロは、アブラハムの子孫を、血筋によってでもなく、割礼によってでもなく、信仰によって定義するのです。ですから、私たちは割礼を受けていなくても、神様の約束を信じるならば、アブラハムの子孫であるのです。

 アブラハムの信仰、それは子孫が増える、子孫がカナンの地を受け継ぐということだけではなくて、自分から生まれる子孫によってすべて民が祝福に入るという信仰でもありました。創世記の12章には、主がアブラハムに現れ、ハランの地から導き出されたことが記されています。その1節から4節までをお読みします。旧約の15ページです。

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地へ行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。

 主はアブラハムを、祝福の源とすると、また、地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入ると約束されました。この約束を担うのが、アブラハムから生まれる子孫であったのです。その昔、神様はエデンの園において罪を犯したアダムとエバに、「女の子孫が蛇(悪魔)の頭を打ち砕く」という約束を与えられました。その約束はアブラハムの子孫によって実現されるのです(創世3:15参照)。アブラハムはその系図から言えば、セムに、さらにはセト、さらにはアダムにまで遡ることができます(創世11章、5章参照)。系図の血筋ばかりではなく、神知識の伝達を表しています。ですから、アブラハムも、神様がアダムに与えられた約束、「女の子孫が蛇(悪魔)の頭を打ち砕く」という約束を知っていたはずです。それゆえ、アブラハムは主の言葉に従って旅立ったのです。アブラハムの信仰、それは自分から生まれる子孫によって、悪魔の頭が打ち砕かれ、すべての人が神様の祝福に入るという信仰でありました。それは、イエス・キリストがヨハネによる福音書8章で教えられていることでもあります。イエス様はヨハネによる福音書の8章56節でこう仰せになりました。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て喜んだのである」。アブラハムの信仰、それは自分の子孫として生まれるイエス・キリストを信じる信仰であったのです。それゆえ、イエス・キリストを信じる私たちこそ、アブラハムの信仰の模範に従う者たちであるのです。

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