信仰による義 2016年7月24日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。ローマの信徒への手紙 3章21節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の支配のもとにあることを学びました。パウロは全人類をユダヤ人と異邦人からなると考えておりますが、ギリシア人は異邦人の代表として記されています。ですから、ユダヤ人以外の民族である私たちもギリシア人の中に含まれているのです。パウロは、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」と記すことによって、すべての人が罪の支配のもとにあると記したのであります。そして、そのことは聖書が教えていることであると、パウロは詩編とイザヤ書の御言葉を引用したのでありました。「正しい者はいない。一人もいない。・・・・・・彼らの目には神への畏れがない」。この御言葉は、神の言葉をゆだねられたユダヤ人に対して語られている御言葉であります。神の言葉をゆだねられたユダヤ人が正しいと見なされないならば、まことの神様を知らない異邦人が正しいとされることはありません。それゆえ、ユダヤ人を罪に定める神の言葉は、すべての人の口をふさぎ、神の裁きに服させる御言葉であるのです。しかしながら、当時のユダヤ人たちは、そのようには考えませんでした。ユダヤ人たちは、神の掟である律法を行うことによって神様に正しい者としていただくことができると考えていたのです。しかし、パウロは、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚しか生じないと記したのであります。神様の聖なる掟の前に立つとき、罪人である私たちの内に生じるものは、その掟を完全に行うことのできない罪の自覚であるとパウロは記したのです。

 今朝はその続きである21節から24節までの御言葉の恵みにあずかりたいと願います。先程は、21節から26節までを読んでいただきましたが、今朝は21節から24節までをご一緒に学びたいと思います。

 21節から24節までをお読みします。

 ところが今や、律法と関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 パウロは「ところが今や」と語り出します。この「今」はイエス・キリストの十字架と復活によって到来した「世の終わりの時」を意味しています。神様は終わりの時である今という時代に、律法と関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義をお示しになりました。「律法と関係なく」とは、「律法を実行することと関係なく」ということであります。パウロは、20節で、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」と記しましたけれども、終わりの時代に現された神の義は、人間が律法を実行することと関係のないものとして示されたのです。「しかも律法と預言者によって立証されて」とありますが、「律法と預言者」は、当時の聖書、旧約聖書を指しております。終わりの時代に示された神の義は、人間が律法を実行することとは関わりのないものとして、しかし、旧約聖書によって立証されて、示されたのでありました。では、終わりの時代に、聖書によって立証され、示された神の義とはどのような正しさであったのでしょうか?パウロは22節でこう記します。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」。終わりの時代に、聖書によって立証され、示された神の義は、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義であります。律法を実行することによってではなくて、聖書が証ししてきたイエス・キリストを信じるならば、神様は、その人を正しい者として受け入れてくださるのです。「そこには何の差別もありません」とありますように、イエス・キリストを信じるならば、だれであっても、どのような人であっても、神様は正しい者として受け入れてくださるのです。「信じる者は救われる」とよく言いますけれども、「聖書が証しするイエス・キリストを信じるならば、だれでも神様に正しい者として受け入れられ、救われる」のです。ある人は律法を実行して神様に義とされる。また、ある人は、イエス・キリストを信じることによって神様に義とされるという二つの道があるのではありません。23節に、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」とありますように、すべての人は、神の掟を完全に守ることのできない罪人であるからです。「神の栄光を受けられなくなっている」。このことをある研究者は、神様が人を御自分のかたちに似せて造られたことから説明しております。神様は人間を御自分のかたちに似せてお造りになりました。それは御自分の栄光を現す者として造られたということであります。しかし、人間は神様の掟に背いて罪を犯し、神の栄光に欠けるものとなってしまったというのです。また、神の栄光を受けるのは、神様を礼拝するときでありますから、すべての人が罪を犯すことにより、神様を親しく礼拝することができなくなってしまった。神様からの誉れを受けることができない者となってしまったとも解釈することができます(1:23、2:29参照)。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」。これが聖書が教える人間の現実です。しかし、その現実を突き破るように神の義が示されたのであります。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。パウロが「キリスト・イエスによる贖いの業」と記すとき、そこで言われていることは、イエス・キリストが十字架につけられて死んでくださったことです。私たちが用いている新共同訳聖書は、「贖いの業」と記していますが、元の言葉では「贖い」と記されています。「ただキリスト・イエスによる贖いを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。先程私は、「キリスト・イエスによる贖い」をイエス・キリストの十字架の死を意味すると言いましたが、そのことは、イエス様御自身が前もって弟子たちに教えられたことでありました。イエス様はエルサレムに上る前に、弟子たちにこう言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ20:28)。イエス様は、「御自分が多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われましたが、ここで「身代金」と訳されている言葉は「贖いの代価」(新改訳)、「あがない」(口語訳)とも訳すことができる言葉であります。イエス様は、これから死のうとしておられる十字架の死を多くの人の贖いであると理解しておられたのです。

 「ただキリスト・イエスによる贖いを通して」とパウロが記すとき、「贖い」が何を意味するのかを旧約聖書に遡って考える必要があります。といいますのも、神様の義は、律法と預言者、すなわち旧約聖書に立証されて示されたからです。聖書において贖いとは、「貧しさのために身売りした血縁者を買い戻すこと」を元々は意味していました。レビ記の25章47節から49節までをお読みします。旧約の204ページです。

 もしあなたのもとに住む、寄留者、滞在者が豊かになり、あなたの同胞が貧しくなって、あなたのもとに住む寄留者ないしはその家族の者に身売りしたときは、身売りした後でも、その人は買い戻しの権利を保有する。その人の兄弟はだれでもその人を買い戻すことができる。おじとかいとこも買い戻すことができる。その人の一族の血縁者も買い戻すことができる。その人が自分でその力を持つようになったときには、自分自身を買い戻すことができる。

 身売りした血縁者を買い戻すこと、これが贖いの元々の意味であります。ここから、「代価を払って奴隷を自由にすること」をも意味するようになったのです。

 また、人間の初子の代わりに、家畜をいけにえとしてささげることも「贖う」と言いました。出エジプト記13章11節から15節までをお読みします。旧約の115ページです。

 主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。将来、あなたの子供が、『これはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』

 ここでは人の初子をささげる代わりに、家畜をささげることが「贖う」と言われています。このことが後の時代では、罪を犯した自分に代わって家畜をささげることを意味するようになったのです。

 「奴隷を自由にするために代価を支払うこと」。「罪の赦しを得るために家畜をいけにえとしてささげること」。この二つの「贖い」の意味を重ねて、イエス様は「多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た」と言われたのです。そして、その使徒であるパウロも、「ただキリスト・イエスの贖いを通して」と記したのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の277ページです。

 24節の後半に、「神の恵みにより無償で義とされるのです」とありますが、「義とされる」という言葉は法廷で用いられる言葉であります。無罪とされ正しい者と宣言されること、それが義とされることであります。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっておりますが、ただキリスト・イエスの贖いを通して、神の恵みにより無償ですべての罪を赦され、正しい者と宣言されるのです。イエス・キリストは、多くの人を罪の奴隷状態から解放するために、また、多くの人の身代わりとして十字架にかかってくださったのです。このことは、旧約聖書の律法から確認したことでありますが、預言書、とりわけイザヤ書53章に預言されていたことでありました。イザヤ書53章は、主の僕の苦難と死について記しているところですが、その全体を今朝はお読みしたいと思います。イザヤ書52章13節から53章12節までをお読みします。旧約1149ページです。

 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。わたしたちの聞いたことを、誰が信じ得ようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 ここには正しい人であるにも関わらず、多くの人の罪を担って苦難の死を遂げる主の僕の姿が描かれています。そして、この主の僕こそ、来たるべきお方、イエス・キリストであったのです。パウロは、「正しい者はいない。一人もいない」と記しましたけれども、一人だけおられたことを聖書は記しています。ルカによる福音書を読みますと、イエス・キリストの十字架の死を目の当たりにした百人隊長は「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したと記されています(ルカ23:47)。アダムの子孫として生まれてくる人間には生まれながらの罪がありますけれども、神の御子であるイエス・キリストには何の罪もなかったのです。イエス・キリストは神の前に正しい人であったのです。そのお方が、多くの人の罪の担い、その身代わりとして裁かれ、命を取られたのです。イエス・キリストは十字架にはりつけにされました。十字架にはりつけにされるとは、律法違反者としての呪いの死を死なれたということです。旧約聖書の申命記21章23節には、「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」と記されています。イエス・キリストは十字架の死によって、私たちに代わって律法の呪いを受けてくださったのです。そのようにして、私たちの贖いとなってくださったのです。ですから、イエス・キリストを信じる私たちは、神様の恵みによって、無償で義とされるのです。私たちに求められること、それは神様が、イエス・キリストにおいてしてくださったことを、感謝して受け入れることだけであります。そして、それがイエス・キリストを信じるということであるのです。

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