正しい者はいない 2016年7月17日(日曜 朝の礼拝)

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正しい者はいない

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 3章9節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
3:14 口は、呪いと苦味で満ち、
3:15 足は血を流すのに速く、
3:16 その道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目には神への畏れがない。」
3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ローマの信徒への手紙 3章9節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちは、今、イエス・キリストの使徒パウロが記したローマの信徒への手紙を学んでおります。パウロは、この手紙の主題について、1章16節、17節でこう記しました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。このように、この手紙の主題を記した後で、パウロは人間の罪について語り出します。イエス・キリストの十字架と復活によって示された終末の裁きの基準、それは律法を持っているか、持っていないかではなく、割礼を受けているか、受けていないかでもなく、律法を行っているか、行っていないかでありました。律法を行っているか、行っていないか。この終末の神様の裁きの基準に従って、パウロは、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人も神様の怒りに値する罪人であると記してきたのです。今朝の御言葉はその結論とも言えるところであります。

 3章9節をお読みします。

 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。

 パウロはユダヤ人でありますが、自分を含めて、「わたしたちユダヤ人には優れた点は全くありません」と記します。これは、一見、1節、2節の御言葉と矛盾しているように思えます。1節、2節で、パウロはこう記しておりました。「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」。しかし、今朝の御言葉でパウロは、「わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません」と記すのです。これは矛盾ではなく、基準が違うのです。1節、2節は、異邦人と比べるならば、ユダヤ人の優れた点はいろいろ指摘できる。その最たるものは、神の言葉をゆだねられたことである、と記されています。それに対して、9節は、神様の御前に、ユダヤ人と異邦人とに違いがあるかと言えば、何もない。ユダヤ人もギリシア人も皆、すなわち全人類が罪の下にあると記しているのです。そして、このことは、「既に指摘したように」とありますように、パウロが1章18節から2章24節までに記して来たことであるのです。パウロは、1章18節から31節までに異邦人の罪を記し、2章1節から24節までにユダヤ人の罪を記したのでありました。私たちがこれまで学んできましたように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の支配の下にあるのです。罪とは神の掟に背くことでありますが(一ヨハネ3:4参照)、私たち人間が神の掟である律法を行うことができないのは、私たち人間が生まれながらに罪の支配の下にあるからなのです。イエス様は、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と言われましたけれども(ヨハネ8:34)、私たちが神の掟に背いて罪を犯してしまうこと自体が、私たちが罪の奴隷であること、罪の支配の下にあることを物語っているのです。このことは、パウロが考え出したことではなく、聖書(旧約聖書)が教えていることであります。

 10節から18節までをお読みします。

 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」

 ここでパウロは、聖書のいろいろな箇所から引用しております。聖書の巻末に、「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」があります。それを今朝は開いてみたいと思います。付録目次の47ページです。そこを見ますと3章10節から12節は、詩編14編1節から3節の引用であることが分かります。また、3章13節前半は詩編5編10節からの引用であることが分かります。LXXとはローマ数字で70を表し、ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書を意味します。3章13節後半は詩編140編4節からの引用、3章14節は詩編10編7節からの引用、15節から17節まではイザヤ書59章7節、8節からの引用、18節は詩編36編2節からの引用であります。パウロはいろいろな詩編の御言葉とイザヤ書の御言葉とを組み合わせて、聖書が人間の罪について教えていることを論証しようとしているのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の276ページです。

 パウロは、詩編14編を引用して、「正しい者はいない。一人もいない」と記します。また、「善を行う者はいない。ただの一人もいない」と記します。これは神様の目から御覧になって、神様の基準に照らし合わせて、ということです。詩編14編に、「主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」とあるように、神様の目から見て、正しい者はいない、善を行う者はいないと記されているのです。私たち人間の目から見れば、あの人は正しい人だ、あの人は善を行っていると見えましても、神様の目から見れば、正しい人は一人もいない。善を行う人は一人もいないのです。

 その人間の不正、不義はどこに端的に表れているのか?それは人間の語る言葉によってであります。13節、14節には、「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦みで満ち」と記されています。のど、舌、唇、口、これらはいずれも言葉を扱う体の器官であります。私たちが口から発する言葉が私たちが正しくないこと、悪に傾いていることを物語っているのです。これは、私たちの心が悪いということを示しているわけですね。イエス様も弟子たちにこう言われております。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだなら行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(マルコ7:20~23)。心は、知性と感情と意志の座であり、人格の中心でありますが、その心が悪いので、その心から出て来る言葉も悪いのであるとイエス様は教えられたのです。私たちの口から出て来る悪い言葉は、私たちの心が悪いこと、すなわち、私たちが神様の御前に悪い人間であることを示しているのです。これは、イエス様を信じるキリスト者においても言えることであります。イエス様を信じる者は、すべての罪を赦されておりますけれども、罪の残る者であります。聖霊を与えられ、何が神の御心であるかを弁えておりますが、それを完全に実行できるわけではないのです。私たちが完全に聖化されるのは、私たちが天に召される時か、イエス様が再びこの地上に来てくださる時であります。それゆえ、主の兄弟ヤコブは、その手紙でこう記すのです。「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(ヤコブ3:8~10)。私たちが語る言葉によって、私たちキリスト者は罪赦されながらも罪の残る罪人であることが分かるのです。

 言葉の罪について記したパウロは、足とその歩む道について記すことにより、私たちが生活においても破壊と悲惨の中にあることを明かとします。人間が言葉と行動で罪を犯すのは、結局のところ、神様を忘れて生活しているからであるのです。「彼らの目には神への畏れがない」。神様を畏れない人間は言葉において、またその行いにおいて罪を犯してしまうのです。神を畏れながら罪を犯すことはできないことでありまして、神を畏れていないとき、私たちは罪を犯してしまうのです。私たち人間が言葉と行いにおいて罪を犯してしまうことは、私たち人間が神様を神様としていつも畏れることができないことを示しているのです。

 ここでパウロが引用しております聖書の御言葉は、ユダヤ人ならば良く知っている御言葉であります。しかし、多くのユダヤ人たちは、ここで言われていることは、自分たちのことではなくて、まことの神を知らない異邦人のことであると考えておりました。そのようなユダヤ人たちにパウロはこう言うのです。

 19節、20節をお読みします。

 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 ユダヤ人たちは、パウロが引用しているような断罪の御言葉を、まことの神を知らない異邦人に向けて語られているものと理解しておりました。しかし、パウロは、すべて律法の言うところは、律法のもとにいるユダヤ人に向けて語られているのだと記すのです。パウロは、2節で、ユダヤ人の優れた点は神の言葉をゆだねられたことであると記しましたが、神の言葉である律法は、ゆだねられたユダヤ人に向けて語られている言葉であるのです。「それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです」とありますが、これはどういう意味なのでしょうか?結論から言いますと、ユダヤ人は全人類の代表者として選ばれたということであります。神様の言葉をゆだねられたユダヤ人が律法を守れないということは、どの民族であっても律法を守ることができないということであり、すべての人の口がふさがれる出来事であるのです。すべての人の口がふさがれる。それは自らの罪について弁解の余地がない状況に置かれるということであります。そのようにして、ユダヤ人と異邦人からなる全人類が神様の裁きに服することになるのです。

 これはユダヤ人たちが考えていた神様の裁きとはだいぶ違います。ユダヤ人たちは、律法を守ることによって功績を積んで、その功績によって天の国に入ることができると考えておりました。しかし、パウロは、ユダヤ人も異邦人も罪の下にある。「正しい者ないない。一人もいない。・・・・・・彼らの目には神への畏れがない」という御言葉はユダヤ人に対して語られているのだと言うのです。そうであれば、律法は何のために与えられたのでしょうか?レビ記の18章15節に「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」とあるように、神様は、律法を行って命を得るように言われたではないか?これは、ユダヤ人から出て来る当然の反論であります。しかし、パウロは「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」と記すのです。律法によっては、律法を完全に守ることができないという罪の自覚しか生じないと言うのであります。このパウロの議論は、聖書にただこう書いてあるといったような議論ではありません。パウロは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事から聖書を読み、律法について記しているのです。ご存じのように、かつてパウロは律法への熱心のゆえに教会を迫害しておりました。そのようなパウロに、栄光と復活の主であるイエス・キリストが現れてくださったことが、使徒言行録の9章に記されています。また、ガラテヤの信徒への手紙の2章を読みますと、パウロの言葉でそのことが記されています。パウロが「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」と信じることができたのは、約束のメシアであり、神の子であるイエス・キリストが十字架の死を死んでくださり、そして三日目に復活なされたからです。イエス・キリストの十字架の死、それは律法違反者としての呪いの死でありました(申命記21:23参照)。約束のメシアであり、神の御子であるイエス・キリストが律法の呪いの死を死なれたことは、一体何を意味しているのか?それは、人間はだれ一人律法の実行によっては救われないということです。もし、律法の実行によって救われる人間がいるならば、神の御子が人してお生れになり、律法を落ち度なく守り、律法の呪いの死を死なれる必要などありませんでした。しかし、実際は、神の御子が人となり、律法を落ち度なく守り、律法の呪いの死、十字架の死を死んでくださったのです。そのことは、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないことを教えているのです。それゆえ、律法によっては、罪の自覚が生じるのみであるとパウロは記したのです。

 では、神様の御前に罪人である人間は、絶望するしかないのでしょうか?そうではありません。神様は、十字架につけられて死んだイエス・キリストを三日目に復活させられました。そのようにして神様は、罪人を正しい者とする道、信仰の道を切り開いてくださったのです。

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