神からの誉れ 2016年7月03日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、
2:18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。
2:19 -20また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。
2:21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。
2:22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。
2:23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。
2:24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。
2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。
2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。
2:27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。
2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。
ローマの信徒への手紙 2章17節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ローマの信徒への手紙2章17節から29節より、御言葉の恵みに御一緒にあずかりたいと願っております。

 17節から20節までをお読みします。

 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。

 ここでパウロは、「あなたはユダヤ人と名乗り」と自分がユダヤ人に対して語りかけていることをはっきりと記します。パウロは2章1節から、「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない」とユダヤ人に対して語りかけて来たわけですが、17節になって自分がユダヤ人に対して語りかけていることを明らかとするのです。「ユダヤ人」と聞いて、皆さんはどのようなイメージを持たれるでしょうか?良いイメージを持たれるでしょうか?それとも悪いイメージを持たれるでしょうか?ここでパウロは良いイメージをもって、異邦人に対する神の民といった意味で、「ユダヤ人」という言葉を用いています(パウロは異邦人と対比して、ヨハネはキリスト者と対比してユダヤ人という言葉を用いる)。ユダヤ人という言葉は、南王国ユダに、さらにはユダ族、ヤコブの息子ユダに由来すると言われますが、ユダヤ人こそ、「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえている」神の選びの民であるのです。ユダヤ人たちは、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しておりました。ここにはユダヤ人の自己認識が記されています。そして、この自己認識は聖書に基づくものであったのです。イザヤ書42章6節、7節にはこう記されています。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き/囚われ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために」。このような御言葉からユダヤ人は自分たちこそ、闇の中にいる者の光、盲人の案内者であると自負していたのです(イザヤ49:6も参照)。このような自負心は、イエス様の時代のユダヤ人、特に律法学者やファリサイ派の人々にも見られたものでありました。イエス様はファリサイ派の人々を「盲人の道案内をする盲人」(マタイ15:14)、「ものの見えない案内人」(マタイ23:4)と言われましたが、それはファリサイ派の人々が、自分たちこそ、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負していたからです。そのようなユダヤ人に対して、パウロはこう語るのです。

 21節から24節をお読みします。

 それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。

 パウロは、ユダヤ人が未熟な者の教師であることを認めたうえで、「それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか」と問いかけます。これは、イエス様がファリサイ派の人々に対してなされた批判でもありました。イエス様は群衆と弟子たちにこう言われました。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(マタイ23:2,3)。他人に教えながら、自分には教えない。それは言うだけで、実行しないということであるのです。実行しないだけではなくて、自分が教えていることの反対のことを行っているとパウロは言うのです(イエスはパレスチナのユダヤ人に対して、パウロはディアスポラのユダヤ人に対して語った)。「『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか」。ここでパウロは十戒の「盗んではならない」、「姦淫してはならない」という掟を取り上げています。神様はイスラエルをエジプトの奴隷状態から導き出され、シナイ山において契約を結び、御自分の宝の民とされました。そのときに、与えられたのが十の言葉、十戒であります。神様は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」ことを明らかにされた上で、「盗んではならない」、「姦淫してはならない」という掟を与えられたのです。そして、ユダヤ人は、その神の掟をまことの神を知らない異邦人たちに、神の御心として教えていたのです。しかし、問題は、そのユダヤ人たちが、盗む者、姦淫する者であるということです(詩編50:16~18参照)。また、パウロは偶像を忌み嫌うユダヤ人たちが異教の神殿を荒らしていることを告発します。神様は十戒において、「あなたはいかなる像も造ってはならない」と命じられました。神様は像を用いて御自分を礼拝することを禁じられたのであります。天地万物を造られた神様は、人間の手によって造られたものによっては到底表すことのできないお方であるのです。そのことを知っていたユダヤ人は異邦人が崇める像を偶像と呼び忌み嫌っていたのです。しかし、そのユダヤ人たちが異邦人の神殿を荒らしていたとパウロは言うのです(使徒19:37参照)。「神殿を荒らす」とは「神殿のものを盗むこと」であります。分かりやすく言えば、ユダヤ人の中に賽銭泥棒をするような者たちがいたのです。私たちはパウロの言葉からすべてのユダヤ人が盗む者、姦淫する者、神殿を荒らす者であったと考えるべきではありません。しかし、世界各地に離散していたユダヤ人たちの中にそのような者たちがいたことは確かなことであります。ユダヤ人は神の掟である律法を誇りとしておりました(申命4:5~8参照)。しかし、そのユダヤ人が律法を破って神様を侮っているのです。そのようにして、「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と聖書に書いてあるとおりになっているとパウロは言うのであります(イザヤ52:5)。

 ここまで言われますと、ユダヤ人から当然反論が出てきます。その一つが「ユダヤ人である自分たちは割礼を受けている」という反論であります。そのことを予期しつつ、パウロはこう記すのです。

 25節から27節までをお読みします。

 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。

 割礼とは、男性の包皮の部分を切り取ることでありますが、ユダヤ人にとりまして神の契約の民であることの徴でありました。そのことは創世記の17章に記されています。創世記の17章1節から14節までをお読みします。旧約の21ページです。

 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしはあなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これがわたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」

 少し長く読みましたが、神様はアブラハムとその子孫に、契約のしるしとして割礼を命じられました。神様は割礼によって、「わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる」とさえ言われたのです。それゆえ、割礼を受けていることはユダヤ人にとって神の民であることのしるしであり、救われることの保証であったのです。 

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の275ページです。

 包皮の一部を切り取る割礼はユダヤ人にとって神の民であることのしるしであり、自分たちが世の終わりの裁きにおいて救われることの保証でありました。しかし、パウロは、「あなたが受けた割礼も、律法を守れば意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」と記します。このパウロの言葉は、割礼を受けた者は律法を守る義務を負う者であることを前提としています。当時、ユダヤ人の会堂には、割礼を受けずに聖書の神様を信じる「神を畏れる人たち」がおりました(使徒13:16,43参照)。彼らは割礼を受けませんでしたが、聖書の神様を畏れる者たちであったのです。なぜ、彼らは割礼を受けなかったのでしょうか?それは割礼を受けることが律法を守る義務を負うことと一つのことであったからです。このことは考えて見ますと当然のことです。割礼は神様との契約のしるしなのですから、割礼を受けた者は神様の掟を守るという義務を負うことになるわけです(神様はアブラハムに「わたしに従って歩み、全き者となりなさい」という義務を負わせられた)。ユダヤ人たちは生後八日目に割礼を受けました。それは彼らが神様の掟を守る義務を負う者であることを示しているのです。ですから、パウロは、「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」と言ったのです。さらに、パウロは、「だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう」とさえ言うのです。神様の裁きの基準、それは律法を持っているか、持っていないかではなく、また割礼を受けているか、受けていないかでもなく、律法を行うか、あるいは律法の要求する事柄を行うかでありました。その基準によれば、割礼を受けながら律法を破っているユダヤ人よりも、割礼を受けていなくても律法を守る異邦人の方が神様の民としてふさわしいと言うのです。これはユダヤ人にとって到底受け入れがたい理屈だと思います。ユダヤ人たちは割礼を契約のしるしとして絶対的なものと考えていました。しかし、パウロは、律法を破っているか守っているかという終末の裁きの基準によって、割礼を相対化してしまうのです。なぜ、パウロはこのようなことを語ることができたのでしょうか?

 28節、29節をお読みします。

 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく、霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

 先程、私は、ユダヤ人の会堂に集っていた神を畏れる人たちについてお話ししました。彼らは聖書の神様を信じておりましたが、割礼は受けておりませんでした。彼らにとって割礼を受けることは律法を守る義務を負うことであり、ユダヤ人になることであったのです。しかし、パウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない」と記すのです。内面がユダヤ人である者、すなわち、霊によって心に施された割礼を受けている者こそユダヤ人であるのです。霊による心の割礼については、旧約聖書に記されておりました。例えば、申命記10章16節にはこう記されています。「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」。また、同じ申命記の30章6節にはこう記されています。「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」。ユダヤ人が絶対なものとしていた肉に施された割礼を、パウロは、なぜ、相対的なものと見なすことができたのか?それは、パウロが神の霊によって心の割礼を受けていたからであります。パウロだけではありません。悔い改めて、イエス・キリストを信じた私たちは、聖霊による心の割礼を受けた者たちであるのです(フィリピ3:3参照)。それゆえ、私たちこそ、真のユダヤ人であるのです(ガラテヤ6:15,16参照)。パウロは、「その誉れは人からではなく、神から来るのです」と記しておりますが、これはユダヤ人という言葉が「ほめたたえる」という意味のユダを起源としていることと関係があります。創世記の29章35節を見ますと、「レアはまた身ごもって男の子を産み、『今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう』と言った。そこで、その子をユダと名付けた」と記されています。人からではなく、神様から誉められる人こそユダヤ人であるとパウロは言うのです。この点から言っても、イエス・キリストを信じて、霊による心の割礼を受けた私たちがユダヤ人であることは確かなことであります。なぜなら、私たちの主イエス・キリストは死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたお方、神様からこれ以上ない栄誉を受けられたお方であるからです。私たちもイエス・キリストにあって、神様からの誉れを受ける者たちとされているのです。

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