キリスト・イエスを通しての神の裁き 2016年6月26日(日曜 朝の礼拝)

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キリスト・イエスを通しての神の裁き

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 2章12節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。ローマの信徒への手紙 2章12節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 ローマの信徒への手紙2章は、「神の正しい裁き」について記しております。旧約の預言者たちは、神様が終わりの日にすべてのものを裁かれる「主の日」の到来について預言しました。その世の終わりの神様の裁きについて、パウロは記しているのです。パウロが先ず告げたこと、それは神の民であるユダヤ人も神の裁きを逃れることはできないということであります。3節から5節にこう記されています。「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか、あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」。このパウロの言葉は、神の民である自分たちは裁かれることがないと考えていたユダヤ人のことを念頭に置いて記されています。ユダヤ人たちは、自分たちはアブラハムの子孫であるから裁きを逃れられると、また、自分たちは天に功績を蓄えていると考えておりました。しかし、パウロは、あなたたちも神の裁きから逃れることはできない。あなたたちが天に蓄えているのは神の怒りであると語るのです。

 では、神様はどのような基準で、異邦人とユダヤ人を、すなわち全人類を裁かれるのでしょうか?そのことが6節から8に記されておりました。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」。神様は、ユダヤ人であるか、ギリシア人であるかということではなく、また、律法を持っているか、律法をもっていないかということでもなく、それぞれの行いに従って報いを与えられるのです。神様は終わりの日に、善を行った者には命を報いとして与えられ、悪を行った者には死を報いとして与えられるのです。この点においてユダヤ人とギリシア人の間に区別はありません。9節、10節にありますように、「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも栄光と誉れと平和が与えられ」るのです。なぜなら、神様は人を偏り見ることのないお方であるからです。

 ここまでが前々回、前回とお話してきたことですが、今朝は12節から16節の御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 12節、13節をお読みします。

 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。

 パウロは、神の裁きの基準として、「神はおのおのの行いに従ってお報いになる」と記したわけですが、ここではさらに踏み込んで、善悪の基準である神の掟、律法について記しています。ユダヤ人は異邦人を罪人であると考えておりました(ガラテヤ2:15参照)。それは異邦人が神様の御心の表れである律法を持っていないからです。律法を持っていないければ、その律法を行うこともできない。よって、異邦人は罪人である。こうユダヤ人たちは考えていたのです。しかし、パウロは「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます」と記すのです。異邦人は律法を知らないから滅ぼされ、ユダヤ人は律法を知っているから救われるのではないとパウロは記すのです。律法を聞いているだけでは正しいとされる保証にはならない。なぜなら、神様の御前に義とされるのは、律法を実行する者であるからです。

 神様の掟を与えられているユダヤ人にとって、善と悪との区別は明確であります。神様の掟に従うことが善であり、神様の掟に背くことは悪であります。では律法を知らない異邦人にとって善悪の基準は何でしょうか?

 14節、15節をお読みします。

 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

 異邦人は神様の掟である律法を持っていないからといって、善をまったく行っていないかと言えばそうではありません。律法の基本法は、シナイ山で神様がイスラエルの民に直接語られた十の言葉、十戒であります。十戒には、「あなたの父と母を敬え」、「あなたは殺してはならない」、「あなたは姦淫してはならない」、「あなたは盗んではならない」、「あなたは隣人について偽証してはならない」とありますけれども、このようなことは律法を持たない異邦人も知っているわけです。律法を持たない異邦人が形成する社会であっても、父母を敬うことは善であり、嘘をつくこと、盗むこと、殺すことは悪であるのです。なぜ、律法を持たない異邦人であっても、このような善と悪の区別を知っているのでしょうか?パウロは、異邦人の心に、律法の要求する事柄が記されているからであると記します。誤解のないように申しますが、異邦人の心に「律法」が記されているのではありません。「律法の要求する事柄」が記されているのです。なぜ、真の神様を知らない異邦人の心に、律法の要求する事柄が記されているのでしょうか?それは、異邦人も「神にかたどって創造された」人間であるからです(創世1:27)。聖書は、「神は御自分にかたどって人を創造された」と教えています。ユダヤ人も異邦人も、どの国の人であれ、人間である以上、神のかたちに似せて造られた存在なのです。「神のかたち似せて造られた」とは、知識と感情と意志の座である心を持った人格的な存在として造られたということです。ですから、神のかたちに似せて造られた人間の心には、律法の要求する事柄があらかじめ記されているのです。このことは、律法を与えられる前の族長たちのことを考えればよくお分かりいただけると思います。今、夕べの礼拝では、出エジプト記の20章に記されている十の言葉を一つ一つ学んでおります。前回は、第七の言葉、「あなたは姦淫してはならない」という掟について学びました。これは「結婚を守るための掟」でありまして、他人の伴侶と性的関係を持つことを禁じる掟であります。姦淫は、神様が結び合わされた夫婦の関係を破壊してしまう大きな罪であることを学んだのであります。では、シナイ山で十戒が与えられる前は、姦淫は罪ではなかったかと言えばそうではありません。創世記の20章に、アブラハムがゲラルに滞在したことが記されています。そこには、アブラハムが妻サラを妹と偽ったこと。ゲラルの王アビメレクがサラを召し入れて、あやうく姦淫の罪を犯すところであったことが記されています。そこでアビメレクは、姦淫の罪を「大それた罪」と言い表しています(創世20:9)。異邦人のゲラルの王アビメレクにとっても姦淫は大きな罪であったのです。また、ヤコブの息子で、エジプトに売られたヨセフは、主人の妻から「わたしの床に入りなさい」と命令されたとき、拒んでこう言いました。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしはどうしてそのような大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(創世39:8,9)。ヨセフは律法を持っていませんでした。しかし、そのヨセフにとっても主人の妻と関係を持つことは大きな悪であり、神様の御前に罪であることを知っていたのです。このようなことは、アビメレクの心に、またヨセフの心に神の律法の要求する事柄が記されていることを示しているのです。

 では、なぜ、神様はイスラエルに律法を与えられたのでしょうか?人間の心に律法の要求する事柄が記されているのであれば、律法を与える必要などなかったのではないでしょうか?なぜ、神様はアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルを御自分の民とされ、律法を与えられたのでしょうか?それは、はじめの人アダムの堕落によって、人間の心に記されている律法の要求する事柄があやふやなもの、不確かなものとなってしまったからです。分かりやすく言いますと、はじめの人アダムが罪を犯すことによって、人間の神のかたちは歪められてしまったのです。それゆえ、神様は御自分の民に、律法を与えられ、何が善であり、何が悪であるのかをはっきりと示す必要があったのです。特に、唯一の生けるまことの神である御自分との関係について、はっきりと教える必要があったのです。

 異邦人の心に律法の要求する事柄が記されていることは、彼らの良心も証ししているとパウロは語ります。ここで「良心」と訳されている言葉は、「共に知る」という意味です。私たちは自分がしたことを知っているもう一人の自分を持っていますが、それがここで言われる良心であります。ちなみに、『広辞苑』で「良心」と引きますと、こう記されています。「何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識」。このような良心が人間にはある。そして、良心があるゆえに、自分の心の内で互いに責めたり、弁明し合っているわけです。たとえ、誰も見ていなくても、自分は見ているわけです。そして、その自分が罪を犯した自分を責めるわけであります。そのようなことが起こるのは、律法を持たない異邦人であっても、律法の要求する事柄がその心に記されているからであるのです。

 16節をお読みします。

 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

 神様がそれぞれの行いに従ってお報いになる。律法を持たない異邦人は、心に記されている律法の要求する事柄に基づいて裁かれる。律法を持っているユダヤ人は、律法に基づいて裁かれる。それは公平で正しい神様の裁きであります。しかし、それでは、人間は滅びに定められるだけであります。それだけならば、私たちは神様の裁きを恐れて待つだけです。しかし、パウロは自分が告げるのは福音、良き知らせであると言うのです。それはなぜか?それは、神様が裁きをキリスト・イエスに委ねられたからです。前回の説教において、7節の御言葉、「すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」という御言葉は、イエス・キリストにおいて既に実現していると申しました。そして、実は、8節の御言葉もイエス・キリストにおいて実現しているのです。「反逆心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」。もちろん、イエス様が反逆心にかられて不義に従ったわけではありません。では、どのような意味で8節の御言葉がイエス様において実現したのでしょうか?それは、反逆心にかられ不義に従う私たちの身代わりに神様の怒りと憤りを十字架の上で受けられたことによってであります。神様がイエス・キリストを通して裁かれる。このことが私たちにとって福音、良き知らせとなるのは、イエス・キリストが私たちの罪を担って裁かれてくださったお方であるからです。私たちの罪のために十字架の上で裁かれてくださったお方が、裁き主であられるのです。ですから、イエス・キリストを信じる者にとって、裁きの日は救いの完成の日、希望の日であるのです。

 パウロは、神がキリスト・イエスを通して裁かれる日には、人々の隠れた事柄をも明らかになると記しております。こう聞きますと、罪人である私たちは恐れを感じます。自分しか知らない罪、また悪しき思い、そういった隠れた事柄も明らかにされてしまう。それは恐ろしいことだと考えると思います。しかし、このことは、恐ろしいというよりも、私たちにとって慰めではないでしょうか?イエス様は弟子たちにこう教えられたことがありました。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないという言う」(マタイ10:32,33)。このイエス様の教えをペトロは聞いておりました。しかし、ペトロは後に、イエス様との関係を三度否定いたしました。ペトロは、自分も捕らえられるのではないかと恐れて、人々の前でイエス様との関係を完全に否定したのです。けれども、イエス様は十字架の死から復活された後、ペトロを知らないとは言わず、「わたしの兄弟」と呼ばれました(マタイ28:10参照)。イエス様はペトロの罪を赦し、兄弟として受け入れてくださったのです。それはなぜでしょうか?それは、イエス様がペトロの隠れた事柄をも裁かれるお方であるからです。イエス様は御自分との関係を三度否定したペトロの心に、御自分に対する愛があることをご存じであったのです(ヨハネ21:15~19参照)。神様がイエス・キリストを通して私たちを裁かれるとき、私たちの隠れた事柄をも裁いてくださる。それは私たちに与えられている信仰をも含めて裁いてくださるということであります。ですから、神様が人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれることは、私たちにとりまして福音であるのです。

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