行いに従って報いる神 2016年6月05日(日曜 朝の礼拝)

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行いに従って報いる神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 2章6節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
2:8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
2:11 神は人を分け隔てなさいません。ローマの信徒への手紙 2章6節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロは、1章18節から32節で、異邦人を念頭に置いて「人類の罪」について記しましたが、2章1節以下では、ユダヤ人を念頭に置いて「人類の罪」について記しております。2章1節に、「だから、すべての人を裁く者よ、弁解の余地はない」とありますが、その代表者こそ、神の民であるユダヤ人たちであったのです。

 パウロは3節で、「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」と記しておりますが、ユダヤ人たちは、神様の大きな憐れみを勘違いして、自分たちは裁かれることはないかのように考えておりました。しかし、パウロは、「人を裁いて同じことをしているあなたをも神は裁かれる」と言うのです。5節に、こう記されています。「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に表れるでしょう」。このようにユダヤ人たちも神様の裁きを逃れることはできないのです。

 今朝は、この続きの6節から11節までをご一緒に学びたいと思います。

 6節をお読みします。

 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。

 パウロは、異邦人もユダヤ人も神の裁きを逃れることはできないことを記しましたが、ここでは、その裁きの基準が記されています。パウロは、「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」と記すのです。ユダヤ人か、ギリシャ人かといったことによってではなく、あるいは律法を持っているか、持っていないかということでもなく、おのおのの行いによって裁かれるのです。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」。これは詩編62編13節からの引用であります。旧約の895ページです。詩編62編全体をお読みします。

 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり/人を倒れる壁、崩れる石垣とし/人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして/口先で祝福し、腹の底で呪う。わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神を信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた。力は神のものであり/慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と。ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。

 パウロは、この最後の言葉、「ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる」という御言葉を引用したのですが、だいぶ印象が違うなぁと思われたのではないでしょうか?パウロは、神様の怒りの裁きの日という文脈で、「神はおのおのの行いに従って報いられます」と記しておりますので、恐い印象を受けます。しかし、神を信頼し、避けどころとする詩人にとって、力ある慈しみ深い主が、ひとりひとりに、その業に従って報いを与えてくださることは励ましであり、希望であるのです。詩編の62編には、二通りの人間が記されています。一つは、神様に信頼し、神様を避けどころとする人間であります。そして、もう一つは、人を欺き、暴力に依存し、搾取を誇る人間であります。詩人は、神を信頼する人間であり、詩人を苦しめる敵たちは人を欺く人間であるわけです。なぜ、詩人は、自分を押し倒そうと謀る者たちに囲まれながら、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある」と語ることができたのでしょうか?それは、力と慈しみが神様のものであり、神様がひとりひとりに、その業に従って人間に報いを与えてくださることを知っていたからです。詩人にとって、「神はおのおのの行いに従って報いられる」ことは、恐怖ではありません。むしろ、楽しみです。そこに、「わたしは動揺しない」と語ることができる確かな根拠があるのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の275ページです。

 「神はおのおの行いに従ってお報いになります」。この原則を世の終わりの裁きに当てはめるとどうなるのでしょうか?

 7節から10節までをお読みします。

 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。

 神様が忍耐強く善を行う者には永遠の命を与え、真理ではなく不義に従う者には怒りと憤りを示される。これは聖書が一貫して教えていることであります。聖書において善とは神様のことでありますから、善とは神様の掟に適うことを意味します。神様の掟を行えば命を得ることができる。神様の掟に従わないならば滅びを招く。これが聖書が一貫して教えていることです。また、聖書を知らない人であっても、神様が「善を行う人には報いとして命を与えられ、不義に従う人には怒りと憤りを示される」ことは当然であると考えると思います。聖書を知らない人であっても、神様が善を行う人に怒りと憤りを示し、不義に従う人に永遠の命を与えるとは考えないわけです。それは、パウロが15節で記しておりますように、聖書を知らない人の心にも、「律法の要求する事柄が記されている」からであるのです。「良いことをすれば良い報いがあり、悪いことを悪い報いがある」ということを人間は誰でも知っているのです。

 「すべて悪を行う者には、苦しみと悩みがくだり、すべて善を行う者には栄光と誉れと平和が与えられる」。このことをパウロは、ユダヤ人とギリシア人に、すなわち全人類に当てはめております。「ユダヤ人はもとよりギリシア人にも」とありますが、これは16節で、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」と訳されていたのと同じ言葉です。ユダヤ人は神様の裁きを逃れられるどころか、はじめに神様の裁きを受けなくてはならないのです。神様の掟を与えられ何が善であるのかを知らされてるユダヤ人こそ、はじめに神様の裁きを受けなくてはならないのです(ミカ6:8、アモス3:2参照)。神様はユダヤ人が御自分の民であるからといって、裁きを逃れさせたり、異邦人とは異なる基準で裁かれるというようなことはしません。神の民であるユダヤ人も、異邦人の代表者であるギリシア人も同じ基準で、「善を行ったか、それとも悪を行ったか」という基準に従って報いを与えられるのです。11節にありますように、神様は人を分け隔てなさらないのです。

 「神は人を分け隔てなさいません」。これは神様が人を偏り見るお方ではない、依怙贔屓するお方ではないということです。「神は人を分け隔てなさらない」。これも、聖書が教えていることであります。例えば、申命記の10章17節、18節にこう記されています。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることもせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」。ここでは、神様が人を偏り見られないことが、イスラエル共同体において言われているわけですが、パウロはそれを全人類に広げて語るわけです。神様はユダヤ人であるか、ギリシャ人であるかといった民族や国籍によって人を偏り見るお方ではない。ユダヤ人でもギリシャ人でも悪を行った者には苦しみと悩みが報いとして与えられる。ユダヤ人でもギリシア人でも善を行う者には、栄光と誉れと平和が与えられるのです。

 さて、今朝の御言葉を読みまして、皆さんはどのような思いを抱かれたでしょうか?おそらく、わたしは善を行う者に自分を当てはめて読んだらよいのだうか?それとも、不義に従う者に自分を当てはめて読んだらよいのだろうか?と当惑されたのではないかと思います。ところで、このように記したパウロ自身はどうだったのでしょうか?パウロは、自分を善を行っている者であると考えていたのでしょうか?それとも、不義に従う者であると考えたのでしょうか?それは分かりませんが、おそらく、パウロは主イエス・キリストのことを思い浮かべながらこの所を記したのではないでしょうか?「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」とパウロがはっきりと記すことができたのは、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求められたイエス・キリストに、神様が永遠の命を与えられたられたことを知っていたからです。

 今朝の御言葉は、大変解釈が難しい所であります。それは、「人は行いではなく、信仰によって義とされる」というパウロの教えと矛盾するように思われるからです。しかし、イエス・キリストに限って言えば、イエス様は、栄光と誉れと不滅のものを求めて忍耐強く善を行うという行いによって、永遠の命という報いを与えられたのです(恵みの契約はイエス・キリストにとっては業の契約であった!)。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命を与えになり」。この御言葉は、十字架の死から復活されたイエス・キリストにおいてすでに実現しているのです。それゆえ、イエス・キリストを信じる私たちも、栄光と誉れと不滅のものを求めて忍耐強く善を行うことができるのです。

 私たちは直接、イエス様を抜きにして、「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者」に自分を当てはめることはできません。けれども、ここにイエス・キリストのお姿を見いだすとき、イエス・キリストに結ばれた者として、ここに、私たち自身を当てはめることができるのです。私たちはイエス・キリストに結ばれた者たとして、栄光と誉れと不滅のものを求めて忍耐強く善を行う者とされているのです。ですから、私たちは、詩編62編の詩人のように、神様がおのおのの行いに従って報いられることを、私たちの励まし、また希望とすることができるのです。「行いに従って報いられる神」。それは私たちにとって恐ろしい神ではなくて、イエス・キリストにあって永遠の命を与えてくださる慈しみ深い神であられるのです。

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