救いをもたらす神の力 2016年5月01日(日曜 朝の礼拝)

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救いをもたらす神の力

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 1章16節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙 1章16節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉、1章16節は、私たちの教会の年間聖句であります。週報の表紙にありますように、私たちの教会は年間テーマを「福音に生きる教会」とし、年間聖句を「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマの信徒への手紙1章16節)として歩んでおります。「福音に生きる教会」という年間テーマは、私たち改革派教会が創立70周年を記念して採択する記念宣言の一つでもあります。改革派教会全体が、イエス・キリストの福音に生きることを決意する中で、その一つの枝である私たち羽生栄光教会も、福音に生きる教会になりたいと願ったのです。そのような願いを持ちつつ、私たちは使徒パウロが記したローマの信徒への手紙を学んでいるのです。

 多くの研究者は、1章16節、17節について、「ここにこの手紙の主題が記されている」と言います。福音とは何であるかが、ここに簡潔に記されていると言うのです。そのようなことを踏まえて、私たちは、年間聖句でもある今朝の御言葉を学びたいと思います。

 16節をお読みします。

 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべての救いをもたらす神の力だからです。

 新共同訳聖書は訳出していませんが、元の言葉では、「なぜなら」という言葉が記されています。つまり、16節は、15節の続きとして記されているということです。パウロは、15節で、「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」と記しましたが、パウロがローマの信徒たちにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのは、パウロが福音を恥としないからであるのです。

 「わたしは福音を恥としない」。このパウロの言葉は、福音を恥とする人々がいることを前提としています。人々が福音を恥としても、わたしは福音を恥としないとパウロは言うのです。なぜ、人々は福音を恥とするのでしょうか?それは福音が、十字架につけられたイエス・キリストの復活を内容とする良い知らせであるからです。パウロは、4節で、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と記しておりましたが、イエス・キリストの死は、十字架に磔にされるという死でありました。十字架刑はローマの処刑方法で、皇帝に反逆する者に科せられた最も残忍で苦痛を伴うものでありました。また、十字架の刑は、裸同然にされて、さらし者にされるため恥でもあったのです。私たちの主イエス・キリストは、ローマの総督ポンテオ・ピラトによって裁かれ、ローマ皇帝に逆らう「ユダヤ人の王」として、十字架の苦しい、恥ずかしい死を死なれたのです。法律を重んじるローマ人にとって、ローマ法の極刑で死んだイエス・キリストは、「恥」でありました。しかし、パウロは、「わたしは福音を恥としない」と言うのです。

 なぜ、パウロは「わたしは福音を恥としない」のでしょうか?それは、福音が、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。パウロが、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」という言うとき、ここでの「ギリシア人」はユダヤ人以外の民族、いわゆる異邦人を指しています。ですから、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」という言葉は、「全人類に」という意味です。では、なぜ、パウロは、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」と記したのでしょうか?それは、「はじめ」とありますように、そこには順序があるからです。パウロは、2節、3節で、「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と記しておりました。神様の約束は、神様の民であるユダヤ人に与えられました。それゆえ、約束の実現である福音は、はじめにユダヤ人に宣べ伝えられねばならなかったのです(使徒13:46参照)。このことは、イエス様においても見られたことであります。イエス様は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と福音を宣べ伝え始められました。イエス様は、御自分において天の国、神様の力ある御支配が到来したことを宣べ伝えられたのです。イエス様の宣教の対象は、もっぱら神の契約の民であるイスラエル人、ユダヤ人でありました。イエス様は12人を派遣するにあたり、次のように言われたことがあります。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10:5、6)。しかし、そのイエス様が復活された後は、弟子たちにこう言われるのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:18、19)。ここでは「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人」が宣教の対象となっております。それは、イエス・キリストが死者の中からの復活によって、力ある神の子と定められたからであるのです。

 パウロは、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」であると記します。ここで大切なことは、ユダヤ人であるか、異邦人であるかということではなくて、「信じる者」であるということです。福音は何人(なにじん)であるかによらず、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であるのです。ここに集っている多くの人は日本人であります。日本人は、ユダヤ人ではない、いわゆる異邦人です。しかし、私たちは福音を信じているがゆえに、神の力によって救われているのです。そのことはフィリピン人でも、中国人でも同じことです。福音は、どの国の人であろうと、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であるのです。ですから、私たちも福音を恥とせず、大胆に宣べ伝えていくことができるし、また宣べ伝えていくべきであるのです。

 17節をお読みします。

 福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 パウロは、「福音には、神の義が啓示されています」と記していますが、ここで「啓示されています」と訳されている言葉は現在形で記されています。すなわち、福音が宣べ伝えられるところに、今もその福音を通して神の義があらわされるのです。福音において啓示される「神の義」とはどのような義でありましょうか?福音において啓示される神の正しさとは、どのような正しさであるのか?それは、ひと言で言えば、罪人を滅ぼす正しさではなくて、罪人を救う正しさであります。罪人をその罪のゆえに罰する正しさではなくて、罪人をその罪にもかかわらず救う正しさです。これが、イエス・キリストの十字架と復活を内容とする福音において示された神の義であります。

 先程、わたしは、法律を重んじるローマ人にとって、十字架につけられたキリストは恥であったと申しました。それと同じようなことをパウロは第一コリント書の1章で記しています。十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にとってはつまずきであり、ギリシア人にとっては愚かであるとパウロは記したのです(一コリント1:23参照)。なぜ、十字架のキリストは、ユダヤ人にとってつまずきであるのか?それは、ユダヤ人にとって、十字架刑が神に呪われた者の死であるからです。旧約聖書の申命記21章23節に、「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」と記されています。十字架刑は、ユダヤ人にとって、木にかけられた呪いの死でありました。そのような死を死んだ者がキリスト、救い主であることにユダヤ人たちはつまずいたのです。かつてのパウロもそうでした。かつてはパウロも、十字架につけられたイエスがキリストであるはずはないと考えていたのです。むしろ、イエスが十字架につけられたことは、イエスがキリストでないことの証拠であると考えたのです。そして、イエスの弟子たちを迫害していたのです。そのことが神様の御心に適うことであるとパウロは信じていたのです。しかし、そのパウロに、栄光の主イエスは出会ってくださいました。そして、パウロは自分が迫害しているイエスこそ主、神その方であることを示されたのです(使徒9:4、5参照)。そのようにしてパウロは、イエス・キリストの十字架が自分の罪のためであったことを知ったのです。イエス・キリストが、イザヤ書53章に預言されている主の僕として、多くの人の罪を担って苦難の死を死なれたことを知ったのであります。イエス・キリストの十字架と復活によって示された神様の正しさ、それは罪ある者を罪あるままで救う正しさであるのです。そして、それは、「初めから終わりまで信仰を通して実現される」のです。福音が宣べ伝えられるところ、神の義が啓示されます。しかし、それは信仰をもって聞かれなければ、その人のうえに実現しないのです。このことは、神の義が法廷概念であると同時に、関係概念であることに思いを向けるときに明かとなります。神様との契約関係に生きるイスラエルにとって、神の義とは神様との正しい関係、神様に対する正しい態度を意味しておりました。神様が聖書の中で約束されていたとおり、ダビデの子孫から御子を遣わされ、十字架の死へと引き渡し、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた以上、イエス・キリストを「わたしたちの主」と信じることは、神様の御前に正しい態度であるのです。

 神の義がただ信仰を通して、私たちにもたらされること。それは、旧約聖書が教えていることでもあります。「正しい者は信仰によって生きる」。これはハバクク書からの引用であります。旧約の1465ページです。ハバクク書2章1節から4節までをお読みします。

 わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

 4節の後半に「神に従う人は信仰によって生きる」とありますが、ヘブライ語聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書では、「正しい者は信仰によって生きる」と記されています。新共同訳聖書の旧約聖書はヘブライ語原典から翻訳していますが、パウロはヘブライ語聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書から引用しているので言葉が少し違います。しかし、新約聖書の元の言葉を見ますと、パウロが七十人訳聖書からそのまま引用していることが分かります。つまり、パウロは、「正しい者は信仰によって生きる」というハバククの預言が、イエス・キリストを信じる者たちのうえに実現したと言っているのです。これはパウロが、イエス・キリストを信じて、聖書を読み、再発見したことではないかと思います。十字架と復活の主イエス・キリストを信じること、それが神様に対して正しい態度である。そのことを知ったパウロが、あらためて旧約聖書を読んだときに、そのことがハバクク書に既に記されていたことを発見したのです。

 前々回でしょうか、わたしはパウロの霊の賜物とは、福音を豊かに説き明かす賜物であると申しました。それは言い換えれば、復活されたイエス・キリストの聖霊の導きによって、聖書を説き明かす賜物とも言えます。パウロは、イエス・キリストの復活の光の中で聖書を読み直すことによって、イエス・キリストへの信仰によって、「正しい人は信仰によって生きる」という預言が実現したことを知ったのです。そして、それを、走りながらでも読めるように、板のうえに大きな字ではっきりと書き記したのです。「福音を恥としない」とはそういうことであります。

 「正しい者は信仰によって生きる」。このハバククの預言が、十字架と復活の主であるイエス・キリストを信じる私たちのうえに、今、実現していることを、神様に心から感謝したいと願います。

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