果たすべき責任 2016年4月24日(日曜 朝の礼拝)

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果たすべき責任

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 1章8節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、
1:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。
1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。
1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。
1:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。
1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。
1:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。ローマの信徒への手紙 1章8節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、ローマの信徒への手紙1章8節から15節までを読んでいただきました。前回は8節から12節まで学びましたので、今朝は、13節から15節を学びたいと思います。

 前回、私たちは、パウロが祈るときには、いつもローマの信徒たちのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってローマの信徒たちのもとへ行ける機会があるように願っていることを学びました。また、パウロがローマの信徒たちにぜひ会いたいのは、霊の賜物である福音を説き明かす賜物によって、力づけられたいからであり、互いに持っている信仰によって、共に励ましを受けたいからであることを学びました。今朝の御言葉はその続きであります。

 13節をお読みします。

 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。

 ここでパウロは、ローマの信徒たちを「兄弟たち」と呼びかけております。パウロはユダヤ人であり、ローマの信徒たちの多くはユダヤ人以外の民族、いわゆる異邦人でありました。神の民であるユダヤ人は、まことの神を知らない自分たち以外の民族を異邦人と呼び、交わりを持ちませんでした。神の民であるユダヤ人にとって、まことの神を知らない異邦人は汚れた民でありまして、交わりを持たなかったのです(使徒10:28参照)。しかし、ここでパウロは、ローマの信徒たちを「兄弟たち」と呼びかけるのです。これは、現代で言えば、「兄弟姉妹たち」ということであります(マタイ14:21参照)。なぜ、ユダヤ人であるパウロは、異邦人であるローマの信徒たちを「兄弟姉妹たち」と親しく呼びかけることができたのでしょうか?それは、彼らが主イエス・キリストを信じる者たちであるからです。パウロは、ローマの信徒たちを、主イエス・キリストに結ばれた者として、「兄弟姉妹たち」と親しく呼びかけるのです。この背景には、イエス様の教えがあります。マタイによる福音書12章46節から50節までをお読みします。新約の23ページです。

 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 イエス様は、御自分を信じる弟子たちを、「わたしの兄弟、姉妹」と言われました。それゆえ、パウロは、イエス・キリストを信じるローマの信徒たちを「兄弟姉妹たち」と親しく呼ぶことができたのです。神様を父とする神様の家族の一員として、「兄弟姉妹たち」と親しく呼びかけるのです。このことは、私たちも同じであります。主イエス・キリストを信じる私たちは国籍や民族が違いましても、主に結ばれた、主にある兄弟姉妹であります。神様を父とし、イエス様を長兄とする神の家族の一員であるのです。ですから、私たちも主イエスを信じる者として、互いに、「兄弟」また「姉妹」と呼び合うことができるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の273ページです。

 パウロは、ローマの信徒たちを「兄弟たち」、「兄弟姉妹たち」と呼びかけ、「ぜひ知ってもらいたい」と記します。パウロは、ローマの信徒たちに何を知ってもらいたいと望んでいるのでしょうか?それは、「ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられている」ということです。パウロは、9節、10節で、自分は祈るときには、ローマの信徒たちのことを思い起こし、何とかしていつかはローマの信徒たちのもとへ行けることを願っていると記しました。それなら、「行けばいいのに」と思いますよね。しかし、パウロは、自分がそのことを何度も企てながら、今日まで妨げられている事情をぜひ知ってもらいたいと記すのです。パウロがローマの信徒たちのもとに行こうと何度も企てながら、今日まで妨げられていると記すとき、それは究極的に言えば、神様によって妨げられているということです。パウロは、神様の御心によって、ローマの信徒たちのところへ行ける機会があるように願っていたのですが、神様の御心によって妨げられていたのです。それは、パウロに対する神様の別の御心、別の御計画があったからです。この辺りの事情については、15章に記されています。15章18節から22節までをお読みします。新約の296ページです。

 キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。「彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられて来ました。

 パウロの伝道方針、それは、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせる」ということでありました。パウロがイエス・キリストの使徒として召されたのは、イエス・キリストの御名を多くの人たちに伝えるためでありました(使徒9:15参照)。それゆえ、パウロは、キリストの名が知られていないところで、福音を告げ知らせようと熱心に努めてきたのです。パウロはローマに教会があることを知り、いつかは何とかしてローマの信徒たちのもとに行きたいと願いながら、イエス・キリストの名が知られていないところで、福音を告げ知らせるという神様の御心によって、妨げられてきたのです。

 そのパウロが続く23節、24節でこう記しています。

 しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。

 パウロは、「しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく」と記しておりますが、このことは、パウロが都市伝道していたことと関係があります。パウロは、交通の要所であり、人が集まる都市で福音を宣べ伝えました。例えば、パウロはマケドニア州ではフィリピやテサロニケという都市で伝道しました。また、アカイア州では、コリントという都市で、アジア州ではエフェソという都市で伝道しました。その州の都で伝道し、教会を設立すれば、その州での自分の働きは終わりであるとパウロは考えたのです。現代に置き換えて言えば、埼玉県のさいたま市で福音を宣べ伝え、教会を設立すれば、埼玉県でのパウロの働きは終わりということです。パウロがそのように考えることができたのは、自分が宣べ伝えているイエス・キリストの福音の力、その生命力を信頼していたからです。パウロは、エルサレムから始めて、ローマの直前とも言えるイリリコン州まで福音を宣べ伝えて来た。それで、この地方に、ローマから東の地方には働く場所がないので、ローマに行きたい、さらにはローマからイスパニアに送り出してもらいたいと記すのです。イスパニアとは、現在のスペインであります。当時の世界は地中海世界でありますから、イスパニアは、当時の世界の「地の果て」であります。復活された主イエス・キリストは、弟子たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われました(使徒1:8参照)。パウロは、その地の果てであるイスパニアに住む人々に、イエス・キリストの名を伝えたいと記すのです。パウロの計画は、ローマに行くだけではなくて、ローマからイスパニアへと送り出してもらうことであったのです。

 これで、ようやくパウロもローマに行くことができるかのように思われるのですが、パウロには、まだすべきことがありました。それは、異邦人の諸教会の募金をエルサレムの教会に届けるということであります。

 25節から29節までをお読みします。

 しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。

 異邦人教会から集めた献金をエルサレム教会に手渡すことは、パウロにとってとても大切なことでありました。なぜなら、それはエルサレム教会と異邦人教会との一致を目に見えるかたちで表すものであったからです。エルサレム教会が異邦人教会からの献金を受け入れることは、エルサレム教会が異邦人教会を受け入れるということであります。それこそ、主にある兄弟姉妹として受け入れるということです。もし、エルサレム教会が異邦人教会からの献金を受け入れないようなことがあれば、パウロは自分のこれまでの働きが無駄になりかねないと考えていたのです。ですから、パウロは30節から32節でこう記します。

 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、霊が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。

 パウロはエルサレムに行けば、自分の身が危ういことを知っておりました。かつてのパウロのように律法に熱心な者たちが、自分を捕らえ、殺そうとしていることを知っていたのです(使徒21:13参照)。また、パウロは、エルサレムの教会の中に、周りのユダヤ人たちの目を気にして、異邦人教会からの献金を歓迎しない者たちがいることも知っておりました。それゆえ、パウロは、ローマの信徒たちに、「どうか、わたしのために、わたしと一緒に熱心に祈ってください」と記すのです。このパウロの言葉から、ある研究者は、ローマの信徒への手紙は、「パウロの遺書である」と言っています。パウロは、ローマに行くことを願いながらも、ローマに行けないことも考えて、自分が宣べ伝えて来た福音を手紙として、ローマの信徒たちに書き送ったというのです。これは私たちがローマの信徒への手紙を学ぶうえで、忘れてはならないことだと思います。私たちが学んでおりますローマの信徒への手紙は、使徒パウロの遺書とも呼べる手紙であるのです。

 私たちは、使徒言行録を通して、パウロがエルサレムにおいて捕らえられ、あやうく殺されそうになったこと。パウロがローマの法廷に上訴して、未決囚として、ローマに護送されたことを知っております。神様の御心はパウロが思い描いていたものとは違いましたけれども、パウロはちゃんとローマに行くことができたのです。パウロはローマで「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」のです(使徒28:31参照)。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の273ページです。

 パウロは何回もローマに行こうと企てたのですが、それは、「ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで」のことでありました。ここでの「実り」は、「キリストを信じる者」を指しています。パウロは、ローマで福音を宣べ伝えることによって、何人かでもキリストを信じる人を獲得したいと望んで、ローマに行こうと何回も企てたのでした。異邦人の使徒パウロは、ローマ帝国の都であるローマにおいて、福音を宣べ伝えたいと願ったのです。パウロは、未信者だけではなく、イエス・キリストを既に信じているローマの信徒たちにも福音を告げ知らせたいと願ったのです。

 14節をお読みします。

 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

 パウロがローマの信徒たちにも、ぜひ福音を告げ知らせたい理由、それはパウロが、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも果たすべき責任を負っていたからです。5節にありますように、パウロは主イエス・キリストにより、その御名を広めてすべての異邦人を信仰の従順に導くために、恵みを受けて使徒とされました。その異邦人の中には、ギリシア人も、未開の人も、知恵のある人も、知恵のない人も含まれているのです。そして、ローマの信徒たちも含まれているのであります。パウロは、ダマスコ途上において、栄光の主イエス・キリストとまみえることにより、異邦人にイエス・キリストの御名を宣べ伝える使徒とされました。そのようにして、パウロは異邦人にイエス・キリストの御名を宣べ伝える責任を負わされたのです(新改訳参照)。そのような異邦人の使徒であるパウロの手紙を、異邦人である私たちが学んでいることは感慨深いことであります。パウロは、この手紙を記すことによって、私たちにに対する責任をも果たしていると言えるのです。

 私たちにも果たすべき責任が主イエス・キリストから与えられております。主イエスは、十二人を遣わすにあたり、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われました(マタイ10:8)。福音を受けた私たちは、福音を与える責任を負っているのです。私たちは、その責任を果たすべく、週ごとにこの羽生の地で礼拝をささげているのです。また、私たちの教会は北関東の拠点になりたいと願う教会でありますから、私たちの責任は羽生に住む人々だけに限られません。私たちの教会は、北関東に住む人々に対して、福音を宣べ伝える責任を負っているのです。そのような者たちとして、私たちはこの所で礼拝をささげているのです。

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