信仰の従順 2016年4月10日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――
1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
1:6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――
1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。ローマの信徒への手紙 1章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 先週から、私たちはローマの信徒への手紙を学び始めました。ローマの信徒への手紙は、1節に、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」とありますように、使徒パウロによって記された手紙であります。また、7節に、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」とありますように、ローマの教会に宛てて記された手紙であります。前回お話しましたように、パウロはこの手紙を第三回宣教旅行の終わり、紀元56年頃、コリントにおいて記したのでありました(使徒20:2,3参照)。当時は手紙の始まりに、差出人、受取人、挨拶を記すという形式がありました。パウロもこの形式に従って、1節で差出人について記し、7節の前半で受取人について記し、7節の後半で挨拶を記しております。2節から6節までは、差出人と受取人の間に割り込んで記されている文書であります。新共同訳聖書は、ダッシュによって、そのことを示しているわけですが、今朝はその割り込みの文書と挨拶の言葉を御一緒に学びたいと思います。前回は、1節の差出人と7節前半の受取人についてお話しましたので、今朝は、それ以外の御言葉、2節から6節と7節後半を御一緒に学びたいと願っております。

 パウロは、1節で、自分のことを「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と記しました。この言葉の背後には、使徒言行録9章に記されているダマスコ途上の出来事があると前回申しましたけれども、パウロが復活されたイエス・キリストから選び出され、召されて使徒とされたのは、「神の福音」を宣べ伝えるためでありました。「福音」とは「良き知らせ」のことでありますから、神の福音とは、神様からの良き知らせであります。神様からの良き知らせとは、一体どのような知らせなのでしょうか? 

 2節から4節までをお読みします。

 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです。

 パウロが宣べ伝えている神の福音は、神様が既に聖書(旧約聖書)の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものであります。パウロが宣べ伝えている福音、それは神様が聖書の中で預言者を通して約束してくださったことを、御子によって実現してくださったという良き知らせであるのです。ここで「御子」と訳されている言葉は、元の言葉ですと「彼の息子」と記されています。「御子」とは「神様の息子」であるのです。神様は聖書において約束してこられたことを、御自分の息子である御子において実現してくださいました。それが神様の良い知らせ、福音であるのです。では、御子とはどのようなお方なのでしょうか?パウロは次のように記しています。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」。ここで、「肉によれば」とあり、その対比として、「聖なる霊によれば」と記されています。「肉によれば」、また「聖なる霊によれば」と記されておりますと、イエス・キリストの人性と神性について言っていると思われるかも知れません。けれども、そうではありません。そのように読むと、人間イエスが途中から神の子になったように誤解してしまう恐れがあります。ここでの主語は「御子」「神の子」でありまして、人間イエスが途中から神の子となったわけではないのです。むしろ、ここで言われていることは、ウェストミンスター小教理問答で言うところのへりくだりと高挙、低い状態と高い状態のことであります。パウロは、「肉によれば」、また「聖なる霊によれば」という言葉によって、御子の二つの状態について記しているのです(フィリピの信徒への手紙2章の「キリスト賛歌」を参照)。

 御子は、聖書の約束のとおり、ダビデの子孫としてお生まれになりました(サムエル下7:12参照)。神の御子は、聖霊によっておとめマリアの胎に宿るという仕方で、罪を別にして私たちを同じ人となってくださったのです。神の御子はダビデの子としてお生まれになり、イエスと名付けられたわけです。しかし、イエス様が神の子であることは人の目には隠されていたことでありました。イエス様が神の子であることが公に示されたのは、聖霊の力によってイエス様が復活させられたことによるのです。神様はイエス様を復活させ、天へと上げ、父なる神の右の座に着かれせることによって、力ある神の御子に定められたのです(使徒2:36参照)。このことは、パウロがダマスコ途上の体験によって示されたことでありました。パウロは、天におられる復活の主イエスとまみえることによって、ダビデの子孫として生まれたイエス様が力ある神の御子であることを知ったのでありました。それゆえ、パウロはイエス・キリストを主と告白する僕として、御名のための仕える者となったのです。

 5節、6節をお読みします。

 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。

 「わたしたち」と一人称複数形で記されていますが、これは文学的な技巧でありまして、意味は「わたし」パウロ一人であると言われています。パウロは、ダマスコ途上において、復活の主イエスとお会いしたわけでありますが、それはパウロがイエス様の御名をを信じるためだけでなく、イエス様の御名を広めるためでありました。イエス様の御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、パウロは恵みを受けて使徒とされたのです。かつてパウロはイエス・キリストを迫害する者でありました。ですから、イエス・キリストから滅ぼされたとしても当然であったのです。しかし、イエス・キリストは恵みによってパウロを御自分の御名を宣べ伝える使徒とされたのです(一コリント15:9,10参照)。なぜ、イエス・キリストの御名が異邦人にまで宣べ伝えられることとなったのでしょうか?それはイエス・キリストが天地万物を造られた神の独り子であることが公に示されたからであります。聖書に約束されていた救いがこの方においてことごとく実現したからです。ですから、すべての異邦人、すべての国の人々は、悔い改めて、イエス・キリストを信じ、従うことが求められているのです(ヨハネ12:50「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている」、ヨハネ17:3「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」参照)。パウロは、自分が恵みによって使徒とされたのは、すべての異邦人を信仰による従順に導くためであると記しました。「信仰による従順」という言葉は直訳すると、「信仰の従順」となります(新改訳)。これにはいくつかに解釈があるのですが、わたしは「信仰という従順」と理解したいと思います。主イエス・キリストの御名が宣べ伝えられるところ、そこに信仰という従順に生きる道が開かれるのです。なぜなら、復活されたイエス・キリストは、今も天の父なる神の右に座しておられ、御名によって二人、または三人が集まるただ中にいてくださるからです。目には見えませんけれども、聖霊と御言葉において御臨在くださり、私たちに信仰を与えて、心から従う者としてくださるのです。

 パウロが、主イエス・キリストを内容とする神の福音を宣べ伝えることができるのも、御名において御臨在くださる主イエス・キリストのお働きを信じるからであります。パウロの知恵や言葉が、すべての異邦人を信仰という従順に導くのではありません。御名において御臨在されるイエス・キリストが、すべての異邦人を信仰という従順に導かれるのです。パウロは、「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです」と記しておりますが、私たちも同じであります。私たちも御名において御臨在されるイエス・キリスト、聖霊と御言葉において御臨在されるイエス・キリストによって、信仰という従順へと導かれたのです。そのようにして、イエス・キリストのものとなったのであります。イエス・キリストを信じる者を、「キリスト者」と呼びますけれども、まさしく私たちは、キリストのものであるのです。

 パウロは、2~6節の言葉によって、手紙の差出人である自分と受取人であるローマの信徒たちを見事に結びつけました。前回も申しましたように、パウロはローマに行ったことがなく、ローマの信徒たちとは面識がありませんでした。それゆえ、パウロは差出人と受取人との間に割り込みの文書を記したのです。それによって自分とローマの信徒たちとがどのような関係にあるのかを記したのです。

 パウロは、この手紙の受取人であるローマの信徒たちに「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」と呼びかけ、次のような挨拶の言葉を記します。

 7節後半をお読みします。

 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにありますように。

 ここでパウロは、神を「わたしたちの父である神」と呼んでおります。これは、神の御子イエス・キリストを通して神様を知ったからであります。神の御子であるイエス・キリストを信じることにより、神の子とされたゆえに、私たちは神様を、「わたしたちの父である神」とお呼びすることができるのです。また、パウロは「わたしたちの父である神」と並べて、「主イエス・キリスト」の御名を記します。これも、やはり、パウロがイエス・キリストこそ、主、神その方であることを知ったからでありますね。パウロは、神を「わたしたちの父」と呼び、並べて「主イエス・キリスト」の御名を記すわけですが、それはそのようにしてしか、私たちに恵みと平和が与えられないからであります。「恵み」とは、神様からの一方的な無償の御好意でありますが、その最たるものは、「罪の赦し」であります。また、「平和」とは、罪の赦しに基づく「神様との和解」を意味しています。この「恵み」と「平和」は、「わたしたちの主イエス・キリスト」を内容とする神の福音に基づくものであるのです。旧約聖書に約束されていた罪の赦しとそれに基づく神様との親しい交わりを、実現するために、御子はダビデの子孫として生まれ、私たちの罪を担って十字架の呪いの死を死んでくださり、復活してくださいました。そのようにして、力ある神の子と定められた主イエス・キリストによって、私たちに「罪の赦しという恵み」と「神様との和解という平和」が与えられているのです。

 今、わたしは一つ一つ言葉を取り上げて、説明しておりますけれども、実は、そのようなことは必要ないのかも知れません。なぜなら、私たちは、主イエス・キリストを信じて、神様を父として知り、イエス・キリストにあってすべての罪を赦され、神様との親しい交わりに生かされているからです。パウロもそうです。また、ローマの信徒たちもそうであります。ですから、この言葉が挨拶の言葉となるのです。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。この御言葉は、今朝、私たちに対して向けられている挨拶の言葉でもあるのです。

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