聖なる者たちの忍耐と信仰 2018年6月24日(日曜 夕方の礼拝)

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聖なる者たちの忍耐と信仰

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 13章1節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:1 わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。
13:2 わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。
13:3 この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。
13:4 竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。」
13:5 この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。
13:6 そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。
13:7 獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。
13:8 地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。
13:9 耳ある者は、聞け。
13:10 捕らわれるべき者は、/捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、/剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。ヨハネの黙示録 13章1節~10節

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序 

 前回、私たちは、イエス・キリストが天に上げられたことにより、悪魔が地上に投げ落とされたこと。地上に投げ落とされた悪魔がキリストの教会を迫害しようとしたことを学びました。12章17節、18節には、こう記されています。「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った」。悪魔である竜は、イエスの証しを守り通している教会と戦うために、海の中から強力な助っ人(獣)を呼び出すのです。

1 海の中から上って来た獣

 13章1節から4節までをお読みします。

 わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまな名が記されていた。わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか」。

 海の中から上って来た一匹の獣には、十本の角と七つの頭がありました。この獣は竜と似ています。12章3節にこう記されていました。「また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のような赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭には七つの冠をかぶっていた」。竜に七つの頭と十本の角があるように、獣にも七つの頭と十本の角があるのです。17章に進みますと、この獣の七つの頭と十本の角の意味するところが記されています。17章9節にこう記されています。「ここに、知恵のある考えが必要である。七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことである。そして、ここに七人の王がいる」。また、十本の角については、17章12節にこう記されています。「また、あなたが見た十本の角は、十人の王である。彼らはまだ国を治めていないが、ひとときの間、獣と共に王の権威を受けるであろう」。結論から申しますと、七つの頭と十本の角をもっている獣は、ローマ帝国を指しています。七つの頭は歴代の七人のローマ皇帝のことであり、十本の角はローマの属州の十人の王たちのことです。獣の「頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた」とありますが、これは皇帝が自らを「神の子」「救い主」と呼ばせていたことを指しています。神でない人間が自らを神と名乗ることは、神を冒涜する罪であるのです。ヨハネが見た獣は、「豹に似ており、足は熊のようで、口は獅子のようであった」とあります。この記述はダニエル書を背景にしています。ダニエル書の7章を読むと、ダニエルが四頭の獣の幻を見たことが記されています。そこには、第一の獣は獅子のようであり、第二の獣は熊のようであり、第三の獣は豹のようであり、第四の獣には十本の角があったと記されています。ヨハネは、ダニエル書の四頭の獣を一つに合わせたとても恐ろしい獣として、海から上って来た獣を描いているのです。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威を与えました。キリスト教会を迫害するローマ帝国の背後には、悪魔の力が働いているのです。3節に、「この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった」とあります。傷つけられて、死んだと思われた一つの頭とは、皇帝ネロを指していると思われます。ネロはキリスト教会を迫害した最初の皇帝でした。64年にローマで大火事が起こりました。ネロはその大火事をキリスト教徒によるものとして、教会を迫害したのです。使徒パウロと使徒ペトロも、ネロの治世に殉教の死を遂げています。ネロは自殺したのですが、民衆の中にはネロが生き返るといううわさが広まっていました。そのような民衆のうわさを背景にして、この所は記されているのです。また、「この致命的な傷もなおってしまった」とは、ネロのよみがえりとも言えるドミティアヌスが皇帝になったことを指していると解釈できます。4節に、「竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝ん」だとあります。この記述は、皇帝ドミティアヌスが「主また神」と名乗り、帝国の至る所に自分の像を造らせて、礼拝させた事実を背景にしています。ドミティアヌス帝は、ローマ帝国に住む者たちに、自分の像を「主また神」として拝むよう強制したのです。そして、人々は「誰も肩を並べるこのできない」神として獣を礼拝したのです。

2 聖なる者たちの忍耐と信仰

 5節から10節までをお読みします。

 この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、42か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。耳ある者は、聞け。捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。

 5節から7節に、何度も受け身の表現が記されています。「この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、42か月の間、活動する権威が与えられた」とあります。ここで獣に大言と冒涜の言葉を吐く口を与えたのは竜ですが、獣に42か月の間、活動する権威を与えられたのは神様であります。42か月は、日数にすると1260日、年にすると3年半となります。これは完全数である7の半分であり、ある限られた短い期間を意味しています。神様は、限られた短い期間、獣に活動する権威を与えられたのです。そればかりか、獣が聖なる者たちに勝つことさえ、許されるのです。ヨブ記の1章、2章を読みますと、神様の御許しの中で、サタンが活動していることが記されています。イエス様も、最後の晩餐の席において、ペトロにこう言われました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」。悪魔は神様と同等の力を持っているわけではありません。悪魔は堕落した天使であり、神様の御許しの中で活動しているのです。そして、同じことが獣についても言えるのです。私たちは獣が活動している背後に悪魔の働きを、さらにはそれを許しておられる神の主権を見ることができるのです。では、教会はローマ皇帝を「主また神」として拝むべきでしょうか?神様の御許しの中で、ローマ皇帝に、全世界の民を支配する権威が与えられたのなら、教会は皇帝を神として拝むべきでしょうか?もちろん拝むべきではありません。なぜなら、イエス・キリストにおいて御自身を表されたまことの神様は、「あなたには、わたしのほかに神があってはならない。あなたは、自分のために刻んだ像を造ってはならない。それを拝んではならない」と命じているからです(十戒の第一戒、第二戒参照)。8節に「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう」と記されています。命の書とは「天国の住民台帳」のことです。出エジプト記32章で、モーセは主にこう言っています。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば、・・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記した書の中から消し去ってください」。このように、「神の民の名が神の命の書に記されている」と昔から考えられていたのです。また、「天地創造の時から」とありますが、これはエフェソ書の1章4節の御言葉を思い起こさせます。そこにはこう記されています。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」。天地創造の前に、神様はご自分の民をキリストにおいてお選びになりました。それゆえ、神様が天地創造の時に、御自分の民の名を記されたのは、「屠られた小羊の命の書」であるのです。なぜ、ヨハネはわざわざ「屠られた小羊の命の書」と記したのでしょうか?それは小羊であるイエス・キリストが苦難の死を通して栄光へ入られたことを思い起こさせるためです。当時の多くの人々にとって、ドミティアヌス帝の像を拝むことは、なんでもないことでありました。しかし、天地創造の時から、屠られた小羊の書に名前が記されている者たちは、ドミティアヌス帝の像を拝むことを拒否しました。彼らは、そのために捕らえられ、剣で殺されたのです。捕らえられて、剣で殺されてしまう。それは人間の目からすれば、神から見捨てられたように見えるかも知れません。しかし、そうではないのです。獣を拝むことなく、捕らえられ、剣で殺されてしまう。そこにこそ、その人が天地の創造の時から屠られた小羊の命の書に名前が記されていた証しを見ることができるのです。そして、このことを理解するには、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要であるのです。

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