共にある主イエスの恵み 2012年11月04日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

16:13 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。
16:14 何事も愛をもって行いなさい。
16:15 兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。
16:16 どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。
16:17 ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。
16:18 わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください。
16:19 アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。
16:20 すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
16:21 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。
16:22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。
16:23 主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
16:24 わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。コリントの信徒への手紙一 16章13節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちは、2011年の6月5日から、コリントの信徒への手紙一を学び始めましたが、今朝はその最後の学びとなります。私たちは、1年5ヶ月をかけて、コリントの信徒への手紙一を学んできたわけです。

 今朝の御言葉は、この手紙の「結びの言葉」でありますが、パウロは、勧告をもって書き出しています。13節、14節をお読みします。

 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。

  このパウロの言葉は、私たちが礼拝の最後に、「派遣と祝福」の言葉として聞いているものでもあります。そのような意味で、私たちに親しみのある御言葉です。パウロは、手紙の結びに当たって、「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」と簡潔に、勧めの言葉を記しました。「目を覚ましていなさい」。これは、「復活されたイエス様が再び来られることを覚えて歩みなさい」ということであります。22節に、「マラナ・タ(主よ、来てください)」とありますが、そのように祈りつつ歩むこと、それが「目を覚ましている」ということです。パウロは、コリントの信徒たちに、やがて来られる復活のイエス・キリストに心を上げて歩みなさい、と勧めているのです。また、パウロは「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」と勧告しています。この「信仰」は、パウロが告げ知らせた福音を内容とする信仰であります。パウロは、コリントの信徒たちが受け入れ、生活のよりどころとしている福音を内容とする信仰にしっかり立ちなさいと勧めているのです。また、パウロは、「雄々しく強く生きなさい」と勧告します。このところは、旧約聖書の詩編第31編25節を念頭において記されているようであります。詩編第31編24節、25節をお読みします。

 主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り/傲慢な者には厳しく報いられる。雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて。

 ここに「雄々しくあれ、心を強くせよ」とありますが、パウロはこのところを念頭において、「雄々しく強く生きなさい」と勧告しているのです。また、それだけではなくて、パウロは今朝の御言葉を記すにあたって、この詩編の言葉をどうやら念頭においていたようなのです。例えば、「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り/傲慢な者には厳しく報いられる」という御言葉は、今朝の御言葉の「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」に通じますし、また、「主を待ち望む人はすべて」という御言葉は、今朝の御言葉の「マラナ・タ(主よ、来てください)」に通じていると言えるのです。ともかく、パウロは詩編の言葉を用いて、コリントの信徒たちに「雄々しく強くあれ」と勧めたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。

 パウロは最後に、「何事も愛をもって行いなさい」と勧告しています。パウロは第13章で、最高の道である愛について記しましたが、コリントの教会の問題は愛の欠如によるものでありました。ですから、パウロが最後に「何事も愛をもって行いなさい」と勧めたことは、よく分かることであります。もちろん、私たちは、このパウロの勧告を、自分たちに向けて語られている神の言葉として聞かなければなりません。私たちの教会は、礼拝ごとに、祝福と派遣の言葉として、「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いさない」との御言葉を主イエス・キリストからいただいているのです。そうであれば、コリントの信徒への手紙一を最初から学んできた私たちは、より深くこの御言葉の意味を味わい知ることができるのではないかと思うのです。コリントの信徒への手紙一の連続講解説教は、今日で終わりますけれども、私たちは、派遣と祝福の言葉を聞くごとに、この言葉がもともはコリントの教会に向けて語られた言葉であることを覚えて、パウロがどのような願いを込めて、この言葉を記したのかを思い巡らし続けたいと思います。

 15節、16節をお読みいたします。

 兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。

 ここに「ステファナの一家」とありますが、第1章16節によりますと、ステファナの一家はパウロから洗礼を受けた数少ない人たちでありました。「アカイア州の初穂」とありますように、パウロのコリント宣教によって起こされた最初のキリスト者家族、クリスチャンホームでありました。「初穂」とありますように、ステファナの一家は、コリント伝道の最初の収穫であったのです。そして、この初穂は、続く収穫を保証するものでもあるのです。また、初穂は、続く収穫の品質を保証するものでありますから、どのような人たちが最初に救われるかはとても大切なことであるのです。言い方を変えれば、教会の最初の核となる人たちが、どのような人たちであるかが大切であるわけです。初穂である人々は、後に続く人々の模範としての役割を果たすことになるからです。そのような意味で、コリントの教会は幸いな教会でありました。なぜなら、アカイア州の初穂であるステファナの一家は、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をする者たちであったからです。彼らは自分を低くして聖なる者たちに仕えたのです。それゆえ、パウロは、「どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください」と願うのです。なぜなら、キリスト教会において、仕えられる者ではなく、仕える者こそが偉大であるからです。主イエスは弟子たちに、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言われました(ルカ22:26参照)。聖なる者たちに対して労を惜しまず仕えたステファナの一家と、彼らと一緒に働き、労苦してきた人々こそ、コリント教会において、偉大な者であり、模範とすべき者であるのです。

 さて、私たちの羽生栄光教会にとっての、ステファナの一家は誰でしょうか。それは教会を始められた。Sさん御一家とY・Y長老御一家であると思います。私は、説教の準備の中で改めて『10年史』を読み、その思いを強くしました。ここでは、今井献先生が記された「はじめに」の一部を少し長いですがお読みします。

 主の栄光を賛美いたします。

 1979年12月30日に羽生栄光伝道所設立式が行われてから10年の歳月がたちました。この10年間、教会堂の建築、宣教教師の交代などを含めて様々なことがありました。すべてのことを益として下さる主イエス・キリストの恩寵のもと、教会設立に導かれたことを心から感謝いたします。

 この記念誌にまとめられているとおり、当教会は、中会やCRCミッション、あるいは特定の独立教会や教職者の開拓伝道によって始められたのではありません。改革派信仰に目覚めた信徒が、自らの手で教師を招いて伝道を開始し、教会設立にまで至りました。このことは東部中会の歴史の中でも大変貴重な事例であるといえます。もちろん、中会、教会、信徒の方々が、祈りと必要に応じた捧げものによって支え励まして下さったことも忘れることができません。中会記録や伝道所委員会記録を読み返すとき、中会と近隣教会の援助を知ることができます。

 私たちは、教会設立に当たり、改革派信仰と伝統に基づく教会形成を行うことを固く決意いたしました。しかし、それとともに、今日までの歩みを支えてきた開拓当初の志を、羽生栄光教会のよき伝統として教会形成に役立てていきたいと願いました。そのために、10年史を作製することによって教会の歴史を振り返りながら記録にとどめることにいたしました。伝道開始に深くかかわったS・T兄が改革派信仰に導かれた前史を含めて数えるなら、羽生栄光教会は、すでに17年の歴史を持つことになります。S家族に与えられた改革派信仰が、矢内教師によるウェストミンスター小教理問答の出張講義、改革派神学研修所などを通して、Y・Y兄という信仰の同労者を生み出すに至り、開拓伝道開始、教会設立にまで実りを結ぶことがゆるされたことは、神の御手の業であるとしかいいようがありません。この神の御手がいかに私たちをこれまで導いて下さったかを記すことにより、神への感謝の報告としたいと願っています。また、祈り支えてくださった、中会、教会、信徒の方々への報告とさせていただきたく願います。

 このように、私たちが、今、ここで礼拝を献げることができるのは、羽生における改革派信仰の初穂とも言うべき、Sさん御一家とY・Y長老御一家の働きと労苦を抜きにしてはあり得ないのです。そのような良き模範があったからこそ、私たちの教会は、今日までの歩みを続けることができたと思うのです。

 17節、18節をお読みいたします。

 ステファナ、ファルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじなさい。

 8節に、「五旬祭まではエフェソに滞在します」とありましたように、パウロはこの手紙をアジア州のエフェソで執筆しています。そのパウロのもとに、コリント教会からの質問状をもって、このステファナとファルトナトとアカイコの三人が訪れたのです。そして、この三人によって、この手紙が、コリント教会に届けられたのです。パウロは、この三人を通して、コリント教会を親しく思うことができました。また、コリント教会にとっても、この三人を通して、パウロとの関係が保たれたのです。ですから、パウロは、この三人が来てくれたことが、「わたしとあなたがたとを元気づけてくれた」と記すのです。また、彼らがコリントの信徒たちの代わりを務めてくれたゆえに、「このような人たちを重んじてください」と記すのです。私たちは教会を代表して中会の集まりに出席したり、様々な奉仕をしてくれる兄弟姉妹を重んじるべきであるのです。

 19節、20節をお読みいたします。

 アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。

 ここで、パウロはアジア州の諸教会からの挨拶、かつてコリントでパウロと共に伝道したアキラとプリスカとその教会からの挨拶、さらにはすべての兄弟姉妹からの挨拶を伝えることによって、コリントの教会が主にある交わりのうちに歩んでいることを思い起こさせます。コリント教会は孤立した存在ではなく、諸教会の交わりのうちにあるのです(1:2参照)。このことは、私たちも同じであります。私たちの教会は単立教会ではありません。私たちの教会は、全国にある日本キリスト改革派諸教会との交わりのうちにあるのです。具体的には東部中会に属する諸教会との交わりのうちにあるのです。そのことは、私たちの教会の歴史を振り返るならばよく分かります。私たちの教会は諸教会の祈りと援助を受けて歩み出すことができたのです。このような教会としての体験を私たちは大切にしたいと思います。そして、このような体験を持つ教会として、諸教会のために祈り支える教会になりたいと願っています。

 パウロは、他の諸教会の挨拶を記した後で、「あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」と記しています。当時の教会には「聖なる口づけ」という挨拶の仕方があったようです。口づけの挨拶は、元々はユダヤ人の風習であったようですが、そのような風習のない私たちが文字通り口づけの挨拶をする必要はないと思います。しかし、私たちが主に結ばれた者として親しく挨拶を交わすこと、安否を尋ね合うこと大切なことであるのです。

 21節から24節までをお読みします。

 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。

 「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します」とありますから、この手紙はここまで誰かによって口述筆記されていたようであります。パウロは手紙の最後に、この手紙が自分の手紙であることの印として署名したのです(二テサロニケ3:17参照)。それにしても、驚くべき挨拶であります。「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」。このような厳しい言葉をパウロは記さずにはおれませんでした。それは、コリントの信徒たちが主イエスを愛する者として、いや愛されている者として歩んでもらいたいとパウロが強く願っていたからであります。「マラナ・タ」とは「主よ、来てください」という意味のアラム語であります。私たちが、ハレルヤとかアーメンと言いますように、マラナ・タというアラム語も、教会においてそのまま用いられていたのです。しかし、私たちは、マラナ・タという言葉をあまり用いていないのではないでしょうか?そして、そのことは、私たちが目を覚ましていないこと、さらには主イエスを愛していないことと結びついているのではないかと思うのです。主イエスを愛するならば、主イエスが来てくださることを願わずにはおれないからです。ですから、私たちは、マラナ・タ、主よ、来てくださいという初代教会の祈りを、私たち自身の祈りとさせていただきたいと願うのです。

 「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」。これは、パウロがいつも記す祝福の言葉でありますが、この手紙にだけ、「わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」という言葉が記されています。パウロはこの手紙の中で、厳しい言葉をいくつも記してきました。しかし、それはパウロがコリントの信徒たちを愛するがゆえであったのです。新共同訳聖書は、「共にあるように」と訳していますが、新改訳聖書は、「共にあります」と訳しています。パウロの愛は、キリスト・イエスにおいてコリントの信徒たち一同と共にあるのです。そのような手紙として、この手紙を読んでもらいたいとパウロは最後に自分の愛、それもキリスト・イエスにある愛について記さずにはおれなかったのであります。コリントの信徒への手紙一には、厳しい御言葉がたくさんありましたけれども、私たちはこの手紙のイエス・キリストにある愛の手紙であることを最後に確認したいと思います。パウロはイエス・キリストにある愛をもってこの手紙を記しましたから、この手紙を正しく理解するためにも、イエス・キリストにある愛が求められているのです。私たちはその愛をもって、主の日の礼拝ごとに、この手紙を読み続けてきたのです。それは主イエスの恵みが私たちと共にあったからであるのです。

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