聖なる者たちのための募金 2012年10月07日(日曜 朝の礼拝)

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16:1 聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。
16:2 わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。
16:3 そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。
16:4 わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。コリントの信徒への手紙一 16章1節~4節

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 今朝はコリントの信徒への手紙一の第16章1節から4節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 1節をお読みします。

 聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。

 「聖なる者たちのための募金については」の「何々については」という言い回しは、コリント教会からの質問状に答えるときの決まった言い回しであります。これまで、パウロは、コリント教会からの質問状に答える仕方で、結婚について、偶像に供えられた肉について、霊的な賜物について教えてきました。ここでも、パウロは、コリント教会からの質問状に答える仕方で、「聖なる者たちのための募金について」記しているのです。聖なる者たちのための募金については、おそらく、以前の手紙に記されていたものと思われます。第5章9節に、「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが」とありましたように、パウロはこの手紙を書き送る以前に、コリント教会に手紙を書き送っていたのです。「聖なる者たちのための募金」とは、3節に、「その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう」とありますように、「エルサレム教会の信徒たちのための募金」のことであります。ここでの「聖なる者たち」とは、キリスト者一般を指すのではなく、「エルサレム教会の信徒たち」を指しているのです。「わたしがガラテヤの諸教会に指示したように」とありますように、パウロは、自分が開拓伝道した異邦人教会に、エルサレム教会の信徒たちのための募金を呼びかける一大運動を展開していたのです。このことは、エルサレム教会の指導者たちからパウロが要請されていたことでもありました。ガラテヤの信徒への手紙第2章9節、10節に次のように記されています。「また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です」。この「貧しい人たち」が「聖なる者たち」、「エルサレム教会の信徒たち」のことであります。エルサレム教会の信徒たちは、経済的にも貧しい者たちでありました。エルサレム教会の信徒たちが貧しかった理由として、元々、社会的身分の低い人が多かったことや、主イエスを信じないユダヤ人から激しい迫害を受けたことなどが考えられます。主イエスの名のゆえに、職や財産を奪われるということがあったのです(ヘブライ10:34参照)。エルサレムの教会の信徒たちは、経済的に援助を必要とする貧しい人たちであったのです。また、パウロは、異邦人教会がエルサレム教会のために募金することについて、より積極的な意味を見いだしておりました。パウロは、異邦人教会の募金をエルサレム教会に届けることによって、異邦人もユダヤ人もないという主にある一致を見える形で表そうと願ったのです。このことを、パウロはコリントの信徒への手紙二の第9章12節から14節で、次のように記しています。「なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」。このような目的をもって、パウロは、聖なる者たちのための募金を、自分が開拓伝道した異邦人教会に呼びかけたのでありました。そして、異邦人教会は、このパウロの呼びかけに喜んで同意したのです(ローマ15:26参照)。このような目的については、パウロはすでにコリント教会に伝えていたものと思われます。それで、パウロはここでは、聖なる者たちのための募金の集め方と、その扱いについて記すのです。どのようにして募金を集めたらよいのか?パウロは、2節で次のように記しています。

 わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週のはじめの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。

 パウロは、自分がコリントについてから初めて募金が行われることがないように、週のはじめの日にはいつも、各自が収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置くよう命じています。これは、各自が家で手もとに取って置くということではなくて、週のはじめの日にささげられる主の日の礼拝において、各自が収入に応じてささげ、それを教会として蓄えておくことを意味しています。コリントの教会では、御言葉の奉仕者を物質的な援助を持って支えておりました(9:12参照)。また、霊的な賜物として、「援助する者」「管理する者」がおりました(12:28参照)。ですから、当然、コリント教会には、教会会計なるものがあったはずです。

 ここで、私たちが注目すべきことは、「各自収入に応じて」とパウロが記している点です。コリントの教会には、豊かな人と貧しい人がおりました(11:21,22参照)。けれども、パウロは豊かな人だけではなくて貧しい人にも、「各自収入に応じて」、礼拝ごとに募金をささげるようにと言うのです。それは、コリント教会の貧しい人たちも、エルサレム教会から霊的なものにあずかったからであります。パウロは、ローマの信徒への手紙第15章25節から27節で次のように記しています。「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」。ですから、パウロは、コリント教会の貧しい人にも、「各自収入に応じて」聖なる者たちのための募金をささげるようにと記したのです。私たちが用いております新共同訳聖書は「募金」と翻訳していますが、口語訳聖書、新改訳聖書を見ますと「献金」と翻訳しています。聖なる者たちのための募金は、主の日ごとの礼拝において、教会のためにささげられる献金であるのです。ですから、私たちは、「各自収入に応じて」という原則を、広く献金に当てはめることができるのです。ただの募金であれば、その募金に協力するかしないかはその人の自由であります。しかし、それが献金であれば、私たちは「各自の収入に応じてささげる」義務があるのです。このことは、申命記の第16章16節、17節に記されていることでもあります。そこにはこう記されています。「何も持たずに主の御前に出てはならない。あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい」。このように各自が収入に応じて献げ物をささげることは聖書の教えであるのです。

 前回の説教で私は、58節の御言葉、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」という御言葉から、私たちのささげる礼拝は永遠の価値を持っていると語りました。このように聞いて、本当にそうかなぁと思った人もいるかも知れません。しかし、神様の目からすれば、そうなのです。なぜなら、この礼拝を実現するために、神は独り子をお与えになり、イエス・キリストは命を捨ててくださったからです。ですから、私たちは礼拝が永遠の価値を持つことを信じて、礼拝を何よりも重んじるべきであるのです。イエス・キリストにある神との交わりである礼拝は、私たちキリスト者の命の源であるのです。それゆえ、私たちはこの地で礼拝をささげていくために、各自の収入に応じて、献金をささげているのです。そのようにして、私たちは主のために共に労苦し、主の恵みに共にあずかる者とされているのです。

 3節、4節をお読みします。

 そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。

 ここには、集めた募金をどのように扱えばよいかが指示されています。「そちらに着いたら」とありますが、これは「パウロがコリント教会に着いたら」と言う意味であります。パウロがコリント教会に着いたら、パウロが募金を受け取るのではなくて、コリント教会の代表者たちに、パウロからの推薦状を持たせて、贈り物を届けにエルサレムへ行かせましょう、と言うのです。ここでパウロは自分で直接、募金を扱うことを避けております。それは、パウロに対する誤解や中傷を未然に防ぐためです。コリントの信徒への手紙二の第13章16節に、「わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています」と記されているように、コリントの信徒たちの中には、パウロが聖なる者たちの募金を自分の懐に入れているのではないか、と中傷する者たちがいたのです。それゆえ、パウロは自分で直接、募金を扱わず、コリント教会の代表者たちにパウロからの推薦状を持たせて、エルサレムまで届けるよう指示したのです(使徒15:23参照)。また、「わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう」と、控えめに、コリントの教会から承認された人たちが、パウロ一行と共にエルサレムへ行くことを提案するのです(使徒20:1~6参照)。

 ここにも、現代の私たちが見倣うべき原則が2つほどあります。その一つは、「牧師は直接、献金を扱うことを避けるべきである」という原則です。私たちの教会には、執事会がありますから、執事たちが献金を扱ってくださっています。ですから、牧師が直接、献金を扱わなくて済むわけです。もし、執事会がなく、牧師が直接、献金を扱うようになれば、コリント教会と同じような疑いや中傷が起こる恐れがあります。また、牧師にとっても、誘惑となり、罪を犯す恐れがあるわけです。それゆえ、献金は、教会で承認された人たちが扱うべきであるのです。

 また、見倣うべき二つ目の原則は、「承認された人たち」とありますように、複数の人たちが献金を扱うべきであるということです。私たちの教会では、承認された人たちである執事たちに、献金を扱っていただいていますが、その時、必ず二人以上でしていただくように、小会ではお願いしています。これは、パウロがコリントの信徒への手紙二の第8章で記しているように、「だれからも非難されたりしないように」するためです。パウロは、テトスの他にもう一人の兄弟を同伴させることについて、20節、21節で次のように記しています。「わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけでなく、人の前でも公明正大にふるまうよう心がけています」。また、執事会では、月に一度、会計報告を小会に提出してくださっています。それが月報の中で、教会員の皆様にも報告されているわけです。教会は、信徒一人一人の献金によって成り立っているのですから、その収支についても明らかにされる必要があるのです。また、私たちの教会は宗教法人として、監事を置き、半年に一度、会計監査をしていただいております。そのことも、私たちが主の前だけではなく、人の前でも公正明大にふるまうためであるのです。

 私たちがどのように献金し、教会はその献金をどのように扱うべきであるのか。その大切なことを、今朝の御言葉は、私たちに教えているのです。

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