無秩序ではなく平和の神 2012年7月22日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

14:26 兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。
14:27 異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。
14:28 解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。
14:29 預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。
14:30 座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。
14:31 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。
14:32 預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。
14:33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。コリントの信徒への手紙一 14章26節~33節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はコリントの信徒への手紙一第14章26節から33節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 26節をお読みします。

 兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。

 パウロは「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか」と問いまして、礼拝における具体的な勧めを今朝の御言葉に記しております。前回も申しましたが、当時のコリント教会で持たれていた礼拝と、現代の私たちの礼拝とでは随分様子が違っているようです。私たちは週報に記されている「主の日の礼拝順序」に従って礼拝をささげておりますが、コリントの教会には、礼拝順序なるものはなかったようです。コリントの信徒たちは、それぞれに与えられている霊の賜物を持ち寄って、礼拝をささげていたのです。すなわち、コリントの教会は、それぞれが賛美の賜物、教えの賜物、啓示(預言)の賜物、異言の賜物、異言を解釈する賜物を持ち寄って、礼拝をささげていたのです。一つだけ申しますと、現代の私たちの礼拝においても、賛美の賜物はなくてはならないものであります。それは讃美歌を歌う賜物でもありますが、オルガン伴奏の賜物でもあります。わたしが神学生のとき、四国の新居浜伝道所に二か月間、夏期伝道に行きました。その教会には奏楽者がおらず、自動演奏機を用いて礼拝をささげておりました。私たちの教会には現在二名の奏楽者がおりますけれども、奏楽者のために祈り、また新たに奏楽者が起こされるように祈らなければならないと思います。

 コリントの教会では、それぞれが賜物を持ち寄って、礼拝をささげていたわけですが、パウロはそこで一つの原則を記しています。それは「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」という原則であります。第8章1節に、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とありました。ですから、「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきである」とは「愛をもって、聖霊の賜物を用いなさい」ということであります。愛をもって、自分に与えられた聖霊の賜物を用いるとき、教会は教会として造り上げられるのです。イエスは主であると告白する礼拝を通して、私たちはいよいよ主の民として造り上げられていくのです。教会が成長するのは礼拝においてであるのです。

 27節、28節をお読みします。

 異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。

 ここでパウロは礼拝における異言の賜物の用い方について記します。パウロは、「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい」と記しておりますが、コリントの教会では、どうやら多くの人が、一斉に、解釈されないまま異言を語っていたようであります。コリントの教会では異言の賜物が重んじられ、皆が異言の賜物を受けるように熱心に努めていたのですが、パウロは異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさいと命じるのです。なぜなら、異言は解釈されて初めて意味をなし、聞く者を造り上げることができるからです。また、パウロは「解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい」と命じています。異言は解釈されなければ意味をなさず、聞く人を造り上げないわけですから、教会の集会では黙っていて、家で自分自身と神に対して語りなさいとパウロは言うのです。異言の賜物を用いる際にも、「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきである」という原則に基づいているのです。

 29節をお読みします。

 預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。

 預言する者の場合にも、「二人か三人が語り」と記されています。多くの人が語って、礼拝がいつ終わるのか分からないようにならないために、パウロは「二人か三人」と人数を限定しているわけです。異言の場合は、それを解釈することが求められておりましたけれども、預言の場合は、他の者たちがそれを検討するよう求められております(一テサロニケ5:19~21参照)。他の者たちとは、共に礼拝をささげている他の者たちのことであると思います。預言とは、神の言葉を預かって語ることですが、それが本当に預言であるかどうかを、聞く者たちが検討したのです。ここで前提とされていることは、礼拝をささげている者たちに「イエスは主である」と告白する聖霊が与えられているということです(12:3参照)。聖霊が与えられているゆえに、その者たちは預言を検討することができる。それが本当に預言であるかどうかを見分けることができるのです。神の霊が与えられておりますから、語られたことが神の言葉かどうかを判断することができるのです(2:6~16参照)。そして、それを見分ける一つの基準が「イエスは主である」という信仰告白であったのです。語られる預言が「イエスは主である」との信仰の告白に適ったものであるかどうか、それによって語られた言葉が本当に預言であるかどうかを検討することができるのです。そして、この預言を検討する基準は、時代を経て徐々に詳しくなっていくのです。ヨハネの手紙一は紀元90年頃に記された手紙でありますが、その第4章1節から2節に次のように記されています。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」。ヨハネの教会は、イエス・キリストが肉となられたことを否定する偽預言者によって混乱しておりました。ですから、ヨハネは本当の預言かどうかを見分ける基準として、イエス・キリストが肉となられたことを言い表すことを挙げているのです。何度も申しますが、預言は聖書が完結するまでに与えられていた聖霊の賜物であり、今は止んでおります。しかし、その働きに通じるものとして、今の私たちには説教が与えられているのです。第14章3節に、「預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます」とありましたが、この働きを、現在、担っているのは説教です。で、預言に通じる説教も、やはり聞く人によって検討されなければならないわけですね。その基準は、使徒信条であり、さらには三位一体の神、二性一人格のイエス・キリストを告白する公同信条であり、さらには私たちにとってはウェストミンスター信仰基準であるわけです。「わたしは牧師であるから、わたしの語った説教は神の言葉として聞きなさい」ということはないわけです。聞く人もちゃんと検討しなくてはいけない。牧師が語る言葉が聖書の教えの表明である信仰告白と照らし合わせてどうであるのか。適っていれば、安心してアーメンと言い、自分の心の内に蓄え、それに従って歩むことができるわけです。そのようにして、私たちは神の言葉を神の言葉として聞くことができるのです。実は、説教者であるわたし自身もこのようなことをしているわけですね。わたしは説教するにあたって完全原稿を書きます。そして、しばらく経ってから、その原稿を一度声を出して読んで、赤ペンで修正、加筆するわけです。そのとき、自分で教会が言い表してきた信仰告白と照らし合わせてどうであるかを検討しているわけです。ですから、それほど外れたことは言っていないと思います。しかし、そうは言っても、聞く一人一人が説教を検討することは大切なことであります。使徒言行録の第17章のベレアのユダヤ人たちのように、御言葉を受け入れつつも、そのとおりかどうか、聖書を調べることが大切なことであるのです。牧師の言葉の背後にある、御言葉が分かるようになるなら、私たちはいよいよ御言葉に養われて、成長することができるのです。

 30節から33節までをお読みします。

 座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。

 パウロは、「座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい」と命じています。異言と同じように預言も一斉に語るのではなく一人ずつ語るようにしなさいとパウロは言うのです。そして、それは皆が共に学び、皆が共に励まされるようにするためであるのです。礼拝において、教会は同じ御言葉の糧にあずかるのです。そのようにして、教会は造り上げられていくのです。そのような点から言っても、教会員は最善を尽くして礼拝を守ることが求められるのです。それぞれに事情がありますので、一概には言えませんが、休む人が多くなると教会は成長しないと思います。なぜなら、休む人が多いと、皆が共に学び、皆が共に励まされることができないからです。私たちの教会では、礼拝で語られた説教をCDにして貸し出しておりますから、わたしとしてはこれをもっと用いて、礼拝を休んでも、共に学び、共に励ましを受ける者となっていただきたいと願います。

 パウロはここで、「一人一人が皆、預言できるようにしなさい」と記していますが、これはパウロが追い求めるよう命じたことであります。パウロは第14章1節で、「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と記しておりましたが、その預言するための賜物は、皆が共に学び、皆が共に励まされることによって与えられるのです。現代の私たちで言えば、牧師の説教を聞き、共に学び、共に励まされることによって、信徒は御言葉を語ることができるようになるのです。

 パウロは30節で、「座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語り出していた者は黙りなさい」と記しましたが、そのように記すことができるのは、預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずであるからです。異言の場合もそうでありますが、預言も自分で制御できないということはないのです。異言を語る人は解釈する者がいなければ、黙ることができるし、預言を語る人も、先の人が語り出したならば黙ることができるのです。異言も預言も、忘我の状態、エクスタシーの状態で為されたのではなく、その人の意志の下に為されるのです。なぜなら、その人に働きかける聖霊は、無秩序ではなく、平和の神の霊であるからです。ここに、コリントの教会の礼拝が秩序正しく行われなければならない根拠が記されています。なぜ、パウロは秩序正しく礼拝をささげるようにと命じるのか。それは礼拝の対象である神が無秩序ではなく平和の神であるからです。ここでの「平和の神」には「秩序の神」ということが含まれています。なぜなら、平和は秩序が守られて成り立つからです。無秩序ではなく、平和の神を礼拝しているということは、その礼拝が無秩序ではなく、平和であるということです。私たちが礼拝している神は、無秩序ではなく平和の神であります。ですから、私たちの礼拝も秩序正しく、主の平和を映し出すものとならなければならないのです。私たちのささげる礼拝が主イエス・キリストにある一致と愛を映し出すものとなるとき、私たちは自分たちが礼拝している神がどのようなお方であるのかを証しすることができるのです。

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