愛の特質 2012年5月13日(日曜 朝の礼拝)

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13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
コリントの信徒への手紙一 13章4節~7節

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 前回は1節から3節を中心にして、愛が必要不可欠であることを学びました。豊かな聖霊の賜物を持っていようとも愛を持っていなければ、わたしは無であること、また、自己犠牲の行為をしても愛をもっていなければ、わたしには何の益もないことを私たちは学んだのであります。

 今朝は4節から7節までを中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。4節から7節までには、愛の特質が記されています。パウロは愛を主語にして、擬人法のようにしてこのところを記しています。愛は誰もが求めるものでありますが、愛とは何かと聞かれれるならば、戸惑ってしまうのではないでしょうか?そのようなことを思いつつ、私たちは今朝の御言葉を読み進めていきたいと思います。4節前半をお読みします。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。

 パウロは愛を2つの肯定的な言葉で言い表しました。「愛は忍耐づよい。愛は情け深い」。このようにパウロが記しますとき、パウロは誰の愛のことを念頭において記しているのでしょうか?それは神の愛であり、イエス・キリストの愛であります。ローマの信徒への手紙第5章5節から8節で、パウロは次のように記しています。

 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 このように神の愛はイエス・キリストの十字架において示され、聖霊によって私たちの心に注がれているのです。それゆえ今朝の御言葉でパウロが教えている愛は、聖霊の結ぶ実である愛のことを言っているのです。パウロはガラテヤの信徒への手紙第5章22節で、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と記しておりますが、愛は聖霊の賜物と言うよりも聖霊の実なのであります。そして、聖霊の実である愛は、私たちキリスト者の徳であり、品性と言えるのです。聖霊の賜物が能力を与えるとするならば、聖霊の実は人柄を形成するのです。このことを確認して、今朝の御言葉に戻ります。

 パウロは、「愛は忍耐強い。愛は情け深い」と記しました。パウロは神の愛を、またイエス・キリストの愛を忍耐づよいものとして、また情け深いものとして知っていたのです。そのことをパウロはテモテへの手紙一第1章12節から17節で記しています。

 わたしを強くしてくださった。わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。

 このように主イエス・キリストはパウロに限りない忍耐をお示しになり、パウロを憐れんでくださったのです。ですから、パウロは「愛は忍耐強い。愛は情け深い」と記したのです。そして、このような神の愛・キリストの愛は、パウロだけではなく、すべての人に向けられているのです。なぜなら、キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られたからです。

 私たちもイエス・キリストの十字架を通して神の愛を知った者たちであります。神様は私たちを罪から救うために、愛する独り子を私たちの身代わりとして十字架の死に引き渡されました。また神の御子イエス・キリストは、御父の御心に従い、私たちを罪から救うために十字架の上で自ら命を捨ててくださったのです。そのようにして、神様は私たちが高価で尊い存在であり、私たちを愛していることを確証してくださったのです。イザヤ書の第43章4節に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と記されておりますが、神は独り子をお与えになることによって、そのことをはっきりと示してくださったのです。そして、神様は今も私たちに与えられている聖霊を通して御自身の愛を注いでくださっているのです。私たちの心に注がれている神の愛は、御父の愛であり、御子の愛でもあります。私たちは御父の愛によって御子を愛し、御子の愛によって御父を愛する者とされているのです。また御父と御子の愛によって、隣り人を、特に主にある兄弟姉妹を愛する者とされているのです。その私たちが知った神の愛は、まさに忍耐強く、情け深い愛であったのです。パウロだけではなくて、主イエス・キリストは私たち一人一人に忍耐強く接してくださり、私たち一人一人を豊かに憐れんでくださるお方であるのです。

 4節後半から6節までをお読みします。

 ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

  ここでパウロは愛を「何々しない」と8つの否定的な言葉と1つの肯定的な言葉で言い表しています。否定的な言葉はどれもコリントの信徒たちの態度を念頭において記されていると考えられています。パウロは「愛はねたまない」と記しておりますが、コリントの信徒たちはねたみ合っておりました。第3章2節から4節でパウロは次のように記しておりました。「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。お互いの間にねたみや争いが耐えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」。このようにコリントの信徒たちは互いにねたみ合っていたのです。また、愛は自慢しませんが、コリントの信徒たちは自慢しておりました。第3章18節でパウロは次のように記しておりました。「だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」。コリントの信徒たちはこの世の知恵を自慢し、さらには聖霊の賜物をも自慢していたのです(14:37参照)。また、愛は高ぶりませんが、コリントの信徒たちは高ぶっておりました。第4章7節でパウロは次のように記しておりました。「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただかなかったのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」。このようにコリントの信徒たちは高ぶっていたのです。また、愛は礼儀に反するようなことはしませんが、コリントの信徒たちは礼儀に反するようなことをしておりました。コリント教会の女たちは、当時の習慣であったかぶり物をかぶりませんでした。また、コリント教会の裕福な人たちは貧しい人たちを待ちきれずに、自分の晩餐を始めてしまっていたわけです。このようにコリントの信徒たちは礼儀に反することをしていたのです。また、愛は自分の利益を求めませんが、コリントの信徒たちは自分の利益を求めていました。第10章24節でパウロは次のように記しておりました。「だれでも、自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい」。偶像の肉の問題は、コリントの信徒たちが他人の利益ではなく、自分の利益を追い求めたことが原因であったのです。また愛はいらだちませんが、争いが絶えなかったコリントの信徒たちがいらだっていたことは容易に想像がつきます。また愛は恨みをいだきませんが、コリントの信徒たちは恨みをいただいていたことでありましょう。恨みがあるから争いが絶えないわけです。ここで「恨みを抱かない」と訳されている言葉は元の言葉を見ると「悪事を数えない」と記されています。愛は人の悪事を数えて上げるようなことはしないということです。そして、神様はまさにそのようなお方であるのです。コリントの信徒への手紙二第5章19節でパウロは次のように記しています。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。神様はイエス・キリストのゆえに、私たちの罪を帳消しにしてくださったのであります。また、イエス・キリストも、御自分を十字架につける者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と執り成しの祈りをささげられたお方であったのです。このように、愛は人の悪事を数え上げていつまでも覚えていることをしないのです。6節の「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」は愛が否定的な言い方と肯定的な言い方で言い表されています。愛は不義を喜びませんが、コリントの信徒たちは不義を行っていました。第6章8節でパウロは次のように記しておりました。「それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている」。このようにコリントの信徒たちは兄弟たちに対して不義を行なっていたのです。しかし、「愛は真実を喜ぶ」とパウロは言うのです。パウロは第1章9節と第10章13節で「神は真実な方です」と記しておりました。ですから、愛と真実は密接な関係にあるわけです。「愛は真実を喜ぶ」の「喜ぶ」は元の言葉をみますと「共に喜ぶ」と記されています。愛は真実を誰と共に喜ぶのでしょうか?それは神様と共にであります。私たちが真実を喜ぶとき、それは神様と共に喜んでいるのです。

 このようにパウロはコリントの信徒たちの態度を否定する形で愛について記しました。そのようにしてパウロは、コリント教会に起こっている問題の原因が愛の欠如にあることを浮き彫りとしているのです。

 7節をお読みします。

 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 ここでは愛が4つの肯定的な言葉によって言い表されています。「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。このような堂々たる言葉を読みますとき、私たちは自分がいかに愛に貧しい者かを思わされます。コリントの信徒たちのことを通り越して、自分のこととして恥ずかしく思うわけです。私たちは兄弟姉妹に対して、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えることができないことを正直に認めなければいけないと思います。ある研究者は、この「すべての信じ」について次のように述べています(レオン・モリス『愛 聖書における愛の研究』)。「人々について、一番悪いことを信じるのが世間である。わたしたちはすぐ最悪のことを仮定し、そしてその仮定が立証されることを期待する。しかし愛は、いつも人々について最も良いことを信じようとする」。すべてを信じる愛は、いつも人々について最も良いことを信じようとすると言うのです。また、この研究者は「すべてを望む」についても次のように述べています。「この世は人々の没落を期待し、また彼らが試練に生き残ることができないとみなす。愛は反対の意見をとる。もちろん、愛は人間たちが失敗するのを見る、しかし決して、失敗を最後の言葉とみなさない。愛は常に、なにかさらに良いことを待つ」。愛は人々の繁栄を望み、彼らを試練に打ち勝つ者とみなします。そして、たとえ失敗しても、愛は常に良いことを望むと言うのです。私たちはここで、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」とのパウロの言葉を思い起こすことができます。神はイエス・キリストにあって、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える愛で私たちを愛してくださっているのです。そのような愛を神は聖霊によって私たち心に注いでいてくださるのです。

 今朝最後に注目したことは、このような言葉を記しているパウロ自身がこの神の愛に生きていたということであります。第9章12節でパウロは次のように記しておりました。「他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます」。また、第10章33節、第11章1節でパウロは次のように記しておりました。「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」。このように、パウロ自身が最高の道である愛を追い求める者であったのです。そして、それは神の愛そのものと言えるイエス・キリストに倣うとことであったのであります。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」というパウロの言葉を読むとき、私たちはパウロが言葉だけではなく、その生き方によってコリントの信徒たちに最高の道を教えていたことを知るのです。イエス・キリストに倣うことこそ、最高の道であるのです。イエス・キリストこそ、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える愛そのものであります。私たちはイエス・キリストとの愛の交わりを通して、愛が何であり、何でないのかをいよいよ深く知っていきたいと願います。

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