聖霊の賜物 2012年4月15日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:1 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。
12:2 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。
12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
12:7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
12:8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、
12:9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。コリントの信徒への手紙一 12章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はコリントの信徒への手紙一第12章1節から11節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節から3節までをお読みします。

 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 ここでパウロはコリントの教会から送られて来た質問状に答えて、霊的な賜物について記しています(7:1,25、8:1参照)。パウロは霊的な賜物について第12章1節から第14章40節まで記しているのです。コリントの教会は主から霊的な賜物を豊かに与えられていた教会でありました(1:7参照)。しかし、霊的な賜物が原因となって、兄弟姉妹の間に優越感や劣等感が生じていたようです。また、コリントの教会では霊的な賜物の中で異言が重んじられておりました。パウロは異言を語る人について、第14章2節で次のように記しています。「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです」。このように異言は、神に向かって語られる人には分からない言葉でありました。コリント教会の礼拝は異言によって混乱していたようです。そのようなこともあって、コリントの教会はエフェソにいるパウロのもとに、霊的な賜物について質問状を送ったようであります。

 パウロはコリントの信徒たちを「兄弟たち」と親しく呼びかけ、「霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」と語ります。ここに「霊的な賜物」とありますが、元の言葉を見ますと、必ずしも「賜物」という言葉が記されているわけではありません。むしろ「霊的な事柄」と訳した方が良いのではないかと思います。また「ぜひ知っておいてほしい」と訳されているのは「知らないでいてほしくない」という強い言葉で、パウロがこれから記すことの重要性を示しています。「あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう」。ここで異教徒と訳されている言葉は「異邦人」とも訳すことのできる言葉です(口語訳参照)。異邦人とは神の民イスラエル以外の人を指す言葉でありますが、コリントの信徒たちは主イエス・キリストによって聖なる民とされたのですから、「異邦人」と訳した方がよいのではないかと思います。ユダヤ人以外の民族という意味ではなく、神の民イスラエルに属さない民という意味で、かつてコリントの信徒たちは異邦人であったのです。異邦人であったときの彼らは、ものの言えない偶像を神々として礼拝しておりました。「ものの言えない偶像」とは、旧約聖書の言い方で、偶像がいかに無力であるかを言い表すものです(詩編115:5参照)。また、パウロは「ものの言えない偶像」と記すことによって、偶像からの啓示はなく、偶像によって預言を受けるということはないことを言い表しています。ここに「誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれた」とありますが、彼らは誰に誘われ、連れて行かれたのでしょうか?それは親であったり、先生であったり、友人であったりするかも知れませんが、究極的には偶像崇拝の背後に働く悪霊によってであるのです。パウロは第10章20節で次のように記しておりました。「いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げられている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません」。このように偶像礼拝の背後には人を惑わす悪霊の力が働いているのです。コリントの信徒たちはかつて異邦人だったころ、悪霊によって、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたとパウロは言っているのです。そういうコリントの信徒たちが今は、「イエスは主である」と告白し、聖なる神の民とされている。パウロはコリントの信徒たちの「かつての姿」と「今の姿」の変わりようをここで強調しているわけです。悪霊に誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれた者たちが、今はイエスは主であると告白し、唯一の生けるまことの神を信じる者とされている。この劇的な変化はどのようにして起こったのか?パウロは神の霊、聖霊によるものであると言うのです。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。ここで「イエスは見捨てられよ」と訳されている言葉は「アナセマ イエス」という言葉です。「アナセマ」とは「呪われよ」とも訳すことができます(ガラテヤ1:8参照)。ここでパウロが「キリスト」ではなく、「イエス」と言っていることは大切なことだと思います。イエスとはどのような方か?それは十字架について死んだ方です。ユダヤ人にとって十字架の死は、木にかけられた者の死であり、呪われた者の死でありました(申命21:23、ガラテヤ3:13参照)。ですから、イエスはまさしく神から見捨てられた者、呪われた者であったのです。ここでは「イエスは神から見捨てられよ」と願望のように訳されていますが、これは「イエスは神から見捨てられている」という平叙文として訳すことができます。イエスは十字架につけられて死んだ、その事実だけを見るならば、イエスは神から見捨てられたとしか言えないわけです。しかし、なぜ、コリントの信徒たちは、また私たちは「イエスは主である」「キュリオス イエス」と言うことができるのか?それはイエスが十字架の死から三日目に栄光の体へと復活されたからです。復活されたイエスが天に昇り、父なる神の右に座し、私たち一人一人に聖霊を遣わしてくださったからです。それゆえ、私たちは十字架につけられたイエスを主、神のその方と告白することができるのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」というパウロの言葉は、イエスは主であると告白するすべての人に聖霊が与えられていることを教えているのです。聖霊は「イエスは主である」と告白するすべての人に与えられているのであります。

 4節から7節までをお読みします。

 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

 パウロは「イエスは主である」と告白する人は聖霊を与えられていることを確認したうえで、いろいろな賜物について語ります。ここでは「いろいろな賜物」と「いろいろな務め」と「いろいろな働き」が並行的に、同義語のように記されています。「いろいろな賜物」と「いろいろな務め」と「いろいろな働き」は同じものを違う言葉で言い表しているのです。また、「同じ霊」と「同じ主」と「同じ神」も並行的に、同義語のように記されています。「同じ主」の「主」は主イエス・キリストのことですから、ここでは父と子と聖霊なる三位一体の神を言い表しているのです。いろいろな賜物があっても、それらを与えられるのは同じ聖霊なる神であられる。いろいろな務め・奉仕があっても、それらを与えられるのは同じ主イエス・キリストである。いろいろな働きがあっても、それらを与えられるのは同じ神であられるのです。なぜ、パウロはこのようなことを言うのでしょうか?それは、コリントの信徒たちがそれぞれに与えられていたいろいろな賜物を他者に対して誇っていたからです。それゆえ、パウロは7節で、「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」と記しているのです。あなたがた一人一人に霊の働きが現れるのは、あなた個人の益のためではなく、教会全体の益のためであるとパウロは言うのです。

 8節から10節までには、聖霊から与えられる「いろいろな賜物」が具体的に記されています。

 ある人には、霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって、知識の言葉が与えられ、ある人には、その同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気を癒す力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。

 翻訳聖書では分かりませんが、「ある人には」という言葉は、同じ種類のもう一つを表す言葉(アロス)と、違う種類のもう一つを表す言葉(ヘテロス)が用いられています。その違う種類のもう一つを表す言葉に着目すると、三つのグループに分けることができます。1つ目のグループは、知恵の言葉と知識の言葉です。2つ目のグループは、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力です。3つ目のグループは、異言を語る力、異言を解釈する力です。一つ目のグループは、自然的な性質の賜物と呼ぶことができます。知恵の言葉と知識の言葉は、生まれながらの資質が用いられて与えられる賜物と言えるのです。2つ目のグループは、超自然的な性質の賜物と呼ぶことができます。啓示の書である新約聖書が完結するまでは、聖霊は超自然的な賜物を教会に与えられました。ここに「信仰」とありますが、これはおそらく特別に強い信仰のことを指していると思われます。パウロは第13章2節で「山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも」と記しておりますが、そのような特別に強い信仰のことを言っていると思われます。また「預言する力」は、啓示された神の言葉を解き明かす説教する力へと通じていると読むことができます。そうすると、「霊を見分ける力」とは、その説教が聖書の教えに適っているかどうかを見分ける力ということになるでしょうか。ともかく、二つめのグループは、超自然的な性質の賜物であり、聖書が完結した時代に生きる私たちにはそれらを自然的な性質のものとして与えられているのです。3つ目のグループは、超自然的な性質の賜物であり、かつコリントの教会にだけ見られた賜物であります。パウロはいわゆる聖霊の賜物のリストを、他の個所にも記しておりますが、そこ異言は出て来ません(ローマ12:6~8、エフェソ4:11参照)。このことから、異言はコリント教会にだけ見られた賜物であったようです。パウロは異言の賜物を一番最後においていますが、これは異言の賜物を最高の賜物であると考えていたコリントの信徒たちの熱を冷まさせるためであります。コリント教会には、自分を霊の人であるとし、天使たちの異言を語ることができると誇っていた者たちがおりました(14:37、13:1参照)。自分に与えられていた賜物、務め、働きを誇り、兄弟姉妹を見下していた者たちがいたのです。そのような者たちを念頭に置きつつ、パウロは異言を一番最後に、重要性の低いものとして記したのです。

 11節をお読みします。

 これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

 ここでは霊が意志をもって働かれる人格であることがはっきりと語られています。それぞれに与えられている賜物は、同じ唯一の霊の働きなのですから、それを比べて優劣を競い合うことは愚かなことです。また、一人一人にいろいろな賜物が分け与えられているのは聖霊の主権によるのですから、誰も賜物を誇ることはできません。「賜物」とありますように、それは神様の恵みによっていただいたものなのです。

 今日の御言葉で教えられますことは、イエスは主であると告白する私たちそれぞれに賜物が与えられているということです。そう聞きますと、皆さんは自分に与えられている賜物は何であろうかとお考えになると思います。誤解のないように申しますが、8節から10節でパウロは聖霊の賜物のすべてを記しているわけではありません。ここに記されているのは、当時の教会に与えられていた代表的なものだけです。ですから、御自分がどのような聖霊の賜物を与えられているのかをそれぞれに考えていただきたいと思います。また、御自分がどのような聖霊の賜物を欲しているかも考えて、それを祈り求めていただきたいと思います。そして、その賜物を自分の益のためではなく、教会全体の益のために用いていただきたいと願います。聖霊なる神様は、そのような私たちを通して、今も豊かに働いてくださるのです。

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