パウロの報酬 2012年1月22日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:13 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。
9:14 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。
9:15 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。
9:16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。
9:17 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。
9:18 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。コリントの信徒への手紙一 9章13節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はコリントの信徒への手紙一第9章13節から18節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 前回お話したことでありますが、パウロは1節から2節で自分が使徒であることを明言したうえで、3節から6節では他の使徒たちと比較することによって、7節では働く人間の思いに訴えて、8節から10節では神の律法に訴えて、使徒である自分たちにはコリント教会から報酬を受ける権利があると記しました。11節から12節前半でパウロはこう記しておりました。「わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか」。今朝の御言葉もこの続きでありまして、パウロは神殿で働く人たちに訴えて、自分たちの権利を論証していくのです。

 13節をお読みします。

 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。

 「あながたは知らないのですか」というパウロの問いかけは、当然知っていることを思い起こさせるための言い回しであります。ここでの「神殿」は「コリントにある偶像の神殿」ではなく、「エルサレムにある神の神殿」のことであります。「神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかる」ということは、旧約聖書の律法に定められていたことでありました。「神殿に働く人たち」は祭司を、「祭壇に仕える人たち」はレビ人を指していると思われます。アロンの子孫である祭司の報酬について、民数記の第18章8節にこう記しています。旧約の244ページです。

 主は更に、アロンに仰せになった。「見よ、あなたには、イスラエルの人々が聖なる献げ物としてささげる献納物の管理を任せ、その一部を定められた分として、あなたとあなたの子らに与える。これは不変の定めである。」

 またレビ人の報酬については31節にこう記しています。

 「あなたたちおよびその家族の者はそれをどこで食べてもよい。それは臨在の幕屋の作業に対する報酬だからである。」

 このように、神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかるように、主は定められたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の310ページです。

 14節をお読みします。

 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。

 パウロは、「神殿で働く人が神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人が祭壇の供え物の分け前にあずかるのと同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るように指示された」と語ります。このパウロの言葉は、イエス・キリスト以降、神殿の祭壇で供え物をささげる働きが福音を宣べ伝えるという働きに代わったことを前提としています。なぜなら、永遠の大祭司であるイエス・キリストが御自身の血によって、永遠の贖いを成し遂げてくださったからです(ヘブライ7:24、9:12参照)。それゆえ神殿で供え物をささげる必要はなくなり、その働きは福音を宣べ伝えるという働きに代わったのです。しかし、神殿で供え物をささげるという働きと福音を宣べ伝えるという働きは、かけ離れた別の働きではありません。パウロはローマの信徒への手紙第15章15節から17節でこう記しています。新約の296ページであります。

 記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころ思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のための祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。

 福音を宣べ伝えるというと、預言者職を思い浮かべるかも知れません。けれども、パウロは自分が神の福音のための祭司の役を務めていると記すのです。福音を宣べ伝える者も、神殿で働く人たちと同じように祭司の働きをしているのです。それゆえ、パウロは「同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」と記しているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の310ページです。

 14節の「主」は主イエスを指していますが、主イエスはどこでそのような指示をされたのでしょうか?おそらくパウロの念頭にあったのは、12人を遣わした際の主イエスの御言葉、あるいは72人を遣わした際の主イエスの御言葉であったと思います(マタイ10:10、ルカ10:7参照)。ここではルカによる福音書第10章にある主の御言葉をお読みします。新約の125ページです。ルカによる福音書第10章1節から7節前半までをお読みします。

 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履き物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される者を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。

 初代教会は信徒の家に集まって礼拝をささげておりました。ですから、ここでの「家」は「教会」のことであります。このように主イエスは、福音を宣べ伝える者たちに教会の負担で飲み食いし、報酬を受けることを指示されたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の310ページです。

 15節をお読みします。

 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです・・・・・。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。

 この15節から話が大きく転換していきます。パウロは使徒である自分がコリント教会から報酬を受ける権利があることを、主イエスの指示を持ち出すことによって絶対的なものとしました。しかし、それはパウロがこの権利を何一つ利用したことがないことを明かにするためであって、自分もその権利を利用したいからではないのです。パウロは「それくらいなら死んだ方がましです」という強い言葉によって、使徒の権利、さらには福音宣教者の権利を用いることを拒否するのです。パウロにとって、キリストの福音を少しでも妨げないために、報酬を受けるという権利を利用しなかったことは、誰も無意味なものとしてはならない誇りであるのです。

 16節をお読みします。

 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないならば、わたしは不幸なのです。

 ここでは「誇り」の内容が15節とは少し変わっております。15節の「誇り」は「権利を利用しないこと」であり、12節後半にありますように「権利を利用せず、キリストの福音を少しでも妨げないために、すべてを耐え忍ぶこと」でありました。しかし、16節の「誇り」は「福音を告げ知らせること」を内容としています。パウロは、「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません」と語りますが、それはパウロにとって福音を告げ知らせることが選択の余地のない、そうせずにはいられないことだからです。パウロにとって福音を宣べ伝えることは、どうしてもしなければならない強いられたことであるのです。このことはパウロが使徒とされた経緯を思い起こすならばよく分かります。かつてパウロは教会の迫害者でありました。しかし、そのようなパウロに復活の主イエスは現れてくださり、御自分の使徒とされたのです。パウロは主に仕えているつもりでイエスを信じる者たちを迫害していました。しかし、ダマスコ途上において復活の主に出会い、知らされたことは、自分が迫害していたイエスこそ、主であるということであったのです。使徒言行録の第9章はそのことを記しておりますが、その15節で、主はパウロについてアナニアにこう言われます。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。そして、このアナニアから洗礼を受けたパウロは、ダマスコのあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエス様のことを宣べ伝えたのです(使徒9:20参照)。主イエスは、福音を滅ぼそうとしていたサウロを、福音を宣べ伝える使徒パウロへと変えられたのです。そのようなパウロにとって、福音を宣べ伝えることはせずにはいられないことであるのです。パウロは「もし、福音を宣べ伝えないなら、わたしは禍である」とさえ言うのです。

 17節と18節をお読みします。

 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それはゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないことです。

 「自分からそうしているなら」とは、「自分の意志の選択によって」ということであります。自分の意志で選んでそうしているなら、わたしは報酬を受けたであろうとパウロは語ります。しかし、実際は、パウロは強いられてしているのであり、パウロにとって福音宣教は主からゆだねられた務めであるのです。ここで「務め」と訳されている言葉は「管理」とも訳すことができます。パウロは第4章1節で、「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」と記していました。パウロは主から福音という神の秘められた計画の管理をゆだねられた者であるのです。当時、管理人の多くは奴隷でありました。ですから、ある研究者は、17節のパウロの発言は自由人と奴隷を背景にして読むとよく分かると言っています。「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう」。これは選択の自由を持つ自由人のことです。それに対して「しかし、強いられてするなら、それはゆだねられている務めなのです」は、選択の自由のない、主人の強制のもとに置かれている奴隷のことであるのです。そして、福音を宣べ伝えずにはおれないパウロは、まさしく主イエス・キリストの奴隷であったのです(ローマ1:1「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」参照)。そうであれば、パウロにとって報酬を受けることは第二、第三のことであるのです。ある人たちが中傷していたように、パウロは生計を立てるために福音宣教者となったのではありません。パウロは生計を立てるための職業として福音を宣べ伝えることを選択したのではないのです。パウロは自分の意志の選択に関係なく、復活の主イエスに見え、福音宣教をゆだねられて使徒とされたのです。主イエスは、教会を迫害していたパウロを捉えて、一方的に福音を宣べ伝える者としたのです。ですから、パウロにとって第一のことは福音を告げ知らせることであります。パウロは福音を少しでも妨げる恐れがあるのなら、権利を用いずにすべてを耐え忍ぶのです。そしてこれこそ、使徒パウロの誇りであり、パウロの報酬であったのです。

 今朝の御言葉はいろいろなことを私たちに教えてくれています。その中でも今朝は3つのことを確認したいと思います。一つは、教会は福音を宣べ伝える者の生活を支えるべきであるということです。パウロは使徒の権利から語り始めて、福音を宣べ伝える者たちの権利について語りました。パウロが記しておりますように、主イエスは福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと指示されたのです。つまり主は教会に対して福音を宣べ伝える者の生活を支えるようにと指示されたのであります。教会は御言葉の教師に報酬として謝儀(牧師給)を支出していますが、それは主イエス・キリストの指示に従ってのことであるのです。

 また、二つ目に教えられますことは、御言葉の教師にとっての第一の報酬とは御言葉を宣べ伝えることそれ自体であるということです。そもそも、牧師になろうとする人は、報酬のことをあまり考えずに献身したはずであります。経済的には貧しくとも、御言葉を宣べ伝えなくてはわたしは不幸であるという思いをもって、牧師になる決心をしたはずです。パウロのように強いられる思いを与えられ、それを召命感と捉えて牧師となったはずです。このことをわたしも牧師の一人として忘れてはいけないと思っています。

 最後、三つ目に教えられますことは、このような強いられた思いは御言葉の教師だけではなく、キリストの僕である信徒なら誰にでも与えられているということです。その思いの強さ、弱さはあると思いますけれども、キリスト者ならば、福音を伝えずにはいられないという思いを誰もが与えられているのです。なぜ、私たちは日曜日の朝に教会に集い、礼拝をささげているのでしょうか。そのようにして、福音を告げ知らせているのでしょうか。それはそうせずにはいられないことだからです。私たちは主イエス・キリストに贖われた主の奴隷として主の御名をほめたたえずにはいられないのです。御言葉の教師だけではなくて、すべての信徒がこのパウロと同じ思いを主から与えられているのです。

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