主にある者と 2011年12月18日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:36 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。
7:37 しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。
7:38 要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。
7:39 妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。
7:40 しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。コリントの信徒への手紙一 7章36節~40節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はコリントの信徒への手紙一第7章36節から40節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 パウロは25節から「未婚の人たち」について意見を記しております。「未婚の人たち」とは、処女(新改訳)、おとめ(口語訳)とも訳すことができる「結婚適齢期を迎える若い人たち」のことであります。今朝の御言葉もその続きでありまして、私たちは今朝も未婚の人たちについてのパウロの意見に耳を傾けたいと思います。

 36節から38節までをお読みします。

 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。

 このところは、実は大変解釈の難しいところであります。そのことは新改訳聖書の翻訳を読まれるならばお分かりいただけると思います。週報に新改訳聖書からコピーしたものを挟んでおきましたのでご覧ください。新改訳聖書は36節から38節までを次のように翻訳しています。

 もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、やむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい。しかし、もし心のうちに堅く決意しており、ほかに強いられる事情もなく、また自分の思うとおりに行うことのできる人が、処女である自分の娘をそのままにしておくのなら、そのことはりっぱです。ですから、処女である自分の娘を結婚させる人は良いことをしているのであり、また結婚させない人は、もっと良いことをしているのです。

 新共同訳聖書は「もし、ある人が自分の相手である娘に対して」と、娘と婚約している未婚の男に対する教えとして解釈し翻訳しています。それに対して新改訳聖書は「もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて」と、結婚適齢期の娘を持つ父親に対する教えとして解釈し翻訳しているのです。元の言葉をみますと「彼の処女」と記されています。新共同訳聖書は「彼」を婚約者の男と解釈し、新改訳聖書は「父親」と解釈するわけです。また、新共同訳聖書が「情熱が強くなり」と翻訳している言葉を新改訳聖書は「婚期も過ぎようとしていて」と翻訳しています。元々は「盛りを超える」という言葉であります。新共同訳聖書は婚約者の男を主語として、「情熱が強くなり」と翻訳していますが、新改訳聖書は娘を主語として「婚期を過ぎようとしていて」と翻訳しているのです。また、新共同訳聖書が「その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ」と翻訳している言葉を新改訳聖書は「娘に対しての扱い方が正しくないと思い」と翻訳しています。元の言葉は「彼の処女に対して無作法をする」という言葉です。新共同訳聖書は婚約者の男を主語として「相手の娘にふさわしくないふるまいをする」と翻訳し、新改訳聖書は父親を主語として「彼の娘に対して正しくない扱いをする」と翻訳しているのです。このように今朝の御言葉は解釈の大変難しいところであるのです。そのことを踏まえたうえで、私たちは新共同訳聖書の翻訳に従って今朝の御言葉を読み進めていきたいと思います。

 改めて36節をお読みします。

 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。

 ここでの「ある人」とは婚約している男のことであります。パウロは27節で「妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない」と語っておりました。前回も申しましたように、27節の「妻」と訳されている言葉は「女」とも訳すことができます。ですから、27節は、「女と〈婚約して〉結ばれているなら」とも解釈することができるのです(岩波書店の翻訳聖書参照)。私は前後のつながりから見ても「女と婚約関係によって結ばれている」と解釈した方がよい思います。パウロは未婚の人たちについての意見として、「あなたが女と婚約して結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、あなたが女と結ばれていないなら女を求めてはいけない。しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても罪を犯したわけではありません」と記しているのです。そのことを踏まえて36節を読みますと、ここには婚約から結婚に至る一つの契機、きっかけが記されていると読むことができます。そして、その契機、きっかけとは、「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら」ということであるのです。パウロは26節で、「今危機が迫っている状態にあるので、人は現状にとどまっているのがよい」と語りました。しかし、婚約者である相手の娘に対して情熱が強くなり、抑えきれないならば思いどおり二人は結婚しなさいと語っているのです。二人は結婚して、品位のある生活をし、ひたすら主に仕えるべきであるのです(35節参照)。

 37節、38節をお読みします。

 しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。

 このパウロの言葉も、前回学びました「今苦難が迫っている状態にある」、「定められた時は迫っている」という「時の認識」に基づくものであります。パウロは29節から34節でこう記しておりました。

 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。

 パウロが37節で「心にしっかりした信念を持ち」と語るとき、その信念とは「どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣う信念」のことでありましょう。そのような信念を持ち、無理に相手の娘に対する情熱を抑えつけたりするようなことがなく、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいとパウロは語ります。このパウロの言葉の真意を知るカギは35節であります。「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」。パウロは「品位のある生活をさせて」と語っておりますが、これは言い換えれば「みだらな行いを避けて」ということであります。パウロは2節で「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」と記しましたけれども、パウロは、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるために、婚約している男の情熱が強くなるならば、二人は結婚しなさいと意見を述べているのです。またパウロは、彼が主に心を遣うべきだという信念を持って、無理に情熱を抑えつけたりしないですむ場合には、相手の娘をそのままにしたらよいでしょうと意見を述べるのです。パウロが38節で記しておりますように、これは良いか悪いかという問題ではありません。そうではなくて、どちらがより良いかという問題であるのです。パウロはそのままでいるならば、体も霊も聖なる者となろうとして、主のことに心を遣うことができるので、結婚しない人の方がもっとよいと意見を述べているのです。

39節、40節をお読みします。

 妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。

 25節の前にある小見出しに「未婚の人たちとやもめ」とありますように、このところは夫を亡くしたやもめに対する教えであります。パウロは10節で「既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です」と記ましたが、それは死が二人を分かつまでのことであります。妻は夫が死ねば、望む人と再婚してもよいのです。しかし、パウロは「相手は主に結ばれている者に限ります」と語っています。これは親の監督のもとに置かれていた娘と違って、やもめは自分の意志で相手を選ぶことができたからであると言われています。新改訳聖書が36節を「もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい」と翻訳しているように、結婚適齢期を迎える若い人たちは自分たちの意志というよりも、親と親との取り決めによって結婚したのであります。ですから、パウロは自分の意志で相手を選ぶことのできるやもめに対しては、「相手は主に結ばれている者に限ります」と意見を述べているのです。ですから、このパウロの意見は自分の意志で相手を選ぶことができる現代の結婚適齢期を迎える若い人たちにも当てはまるのです。自分で自由に結婚相手を選ぶことができるならば、主に結ばれている者と結婚するべきであるのです。しかし、ここでもパウロは「今苦難が迫っている状態にある」、「定められた時は迫っている」という時代認識に基づいて、そのままでいる方が幸福であると語ります。そして、パウロは「わたしも神の霊を受けていると思います」と語ることによって、自分の意見を軽んじず、よく吟味してもらいたいと語るのです。

 前回の説教で、パウロは主イエス・キリストの再臨が自分の生きている間に起こり、自分たちは死を経験せずに、栄光の体へと変えられると考えていたと申しました(一コリント15:51参照)。そして、そのようなパウロが晩年には、自分の方から主イエス・キリストのもとへと行くと考えるようになったと申しました(二テモテ4:6~8参照)。そのパウロの晩年の手紙にテモテへの手紙一がありますが、その第5章14節でパウロはこう記しています。

 だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取り仕切り、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。

 このパウロの言葉も、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるための言葉と読むことができます、しかし、ここにはそのままでいる方が幸福であるという見解はありません。なぜでしょうか?それはパウロの「時の認識」が変わっているからです。すぐにでも主イエス・キリストは来られるという時代認識から、もしかしたら自分が生きている間には来られないかも知れないという時代認識に変わったからであります。しかし、変わらないことがある。それが品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるということであるのです。私たちが結婚するならば、それは品位のある生活をし、ひたすら主に仕えるためであります。また、私たちが独身であるならば、それも品位のある生活をし、ひたすら主に仕えるためであるのです。そしてここにパウロが、自分で結婚相手を選ぶことのできる未婚の人たちに、「ただし、相手は主に結ばれている者に限ります」と意見を述べる理由があるのです。これから結婚する人たちは、ぜひ結婚相手の条件に、「主に結ばれている者」という項目を加えていただきたいと思います。

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